農家とシェフの類似性、当園の味のスタイルの考察

農家とシェフはとても良く似ていると思う。それは、単に双方とも食べ物を作っているからだけではなく、同じ物を作っても、その仕上がり、味わいが、作る人によって大きな差があるところが、とても良く似ていると思う。そしてその差は、作る人それぞれの作り方、更に言うと、美意識、哲学、までが反映された結果であるというところも、とても良く似ていると思う。そこで今回は、農家とシェフの類似性について考えを纏め、今一度その観点から自身の美意識と生産哲学を省み、当園の味のスタイルまで再考していきたいと思う。

まず、農家とシェフの”類似性”について、表面的なところから深いところまで、3点あげたいと思う。

1つ目の最も表面的な”類似性”は、同じ物を作っても、その仕上がり、味わいが、作る人によって大きな差が出る点が、よく似ていると思う。そしてこれは、次のようにたとえると分かり易いと思う。カレーには、専門店のカレーから食堂のカレーまであり、同じカレーと呼ばれるものであっても、ときに別物と思うほどにまで違うことがある。(なお、食堂のカレーが悪いとか品質が低い、ということを言いたくて、このように言っている訳では無い。食堂のカレーは、自分も大好きだし、よく注文するし、いつも大変お世話になっている。ここでの意図は、同じカレーと言われるものであっても、仕上がりと味が全く違う、と指摘したい点にある。)これと同じことが、農作物についても言える。同じ姿形をして、同じと認識される農産物であっても、食べると全く味が異なることがある。ここは、農家とシェフが似ているところであると思う。

2つ目の”類似性”は、1つ目の”類似性”の仕上がりや味の違いを生む原因にあたる、一段深いところにあたるのだが、同じものを作るのに、作る人によって、作り方に千差万別の違いがある、という点がよく似ていると思う。作り方には、材料と手順の違いがあり、材料については、シェフの食材に対し、農家の種と肥料が相当し、手順については、シェフのレシピに対し、農家の栽培手順が相当する。同じものを作るのに、作る人によって、作り方に1つ1つ細かな違いが存在し、シェフならシェフの数だけ、農家なら農家の数だけ、作り方があると言える。そしてその細かな違いは、当然、最終的な仕上がりや味の違いに反映される。農家が作物を作っているとき、シェフのように、仕上がりや味を作り込んでいるとあまり意識されないかもしれないが、していることは同じであると思う。

最後3つ目の”類似性”は、2つ目の”類似性”の作り方の違いを生む原因にあたる、最も深いところにある、作り方に対するそもそもの考え、哲学がある、という点がよく似ていると思う。どのような仕上がり・味にしたいのか。きれいな見た目なのか、複雑で力強い味わいなのか、とにかく糖度が高いのがいいのか、それとも繊細で優しい味を求めるのか。または、そもそも味や仕上がりを重要視せず、コストを押さえ、気軽に楽しんで欲しい、或いは、全く気にせず、とにかく大量生産・大量流通を目指す、という選択肢もあるかもしれない。まあそこまで言わなくても、仕上がりや味にそれなりに十分な考えや哲学を持って、作物の生産に臨んでいる農家は多いのではないだろうか。そして、これはシェフが考えや哲学を持って、料理に臨んでいることと同じであろう。

以上のように、人によって、表面的な仕上がりと味に違いがあること、作り方に違いがあること、作り方に対する考えや哲学があること、これらが、農家とシェフがとても良く似ているところであると思う。農家がシェフと比べられることはあまりないと思うが、本来は並んで立てるはずと思う。なぜなら、作り方の細かな違いを生むのは創造性の表れであり、シェフの仕事が食に対して創造的な仕事であるとされるならば、農家の仕事も、同様に食に対して創造的な仕事と見なされてもいいはずだ。また、作り方に対する哲学についても、シェフの仕事においてそれが芸術や美と見なされるのであれば、農家の仕事でも同様に、芸術や美と見なされてもいいはずだ。農家の仕事は、シェフの仕事と同じく、十分に、創造的であり、芸術的な仕事である。農家は、自身の仕事が、そのような仕事であるという認識はあまり持っていないと思うが、その意識と誇りを持って、仕事に臨んでも良いと思う。

このように、農家とシェフの類似性、その共通する創造性や芸術性を考えてみた。そこでその観点から、改めて自身の美意識と生産哲学を振り返ってみたい。

結論から言うと、自分が目指している芸術性、美意識は、複雑で力強く、一方で華やかさを兼ね備え、調和のとれた味である。そして、それを実現するための生産哲学は、科学的に論理的に正しい考え方で作物に過不足なく栄養を与え、元気に力強く育て、その味を実現することである。なお、具体的な味を決める要因については、前回ブログ「野菜の味を決めるもの」で記した通りである。

そして、そのような美意識、生産哲学を持っていると気付いたきっかけ、思う理由がいくつかあるので、3つほど紹介したいと思う。

1つ目は、就農してまだ間もない頃、テレビ取材が入った時、お客さんが自分の人柄について質問され、「作っている野菜の味のように力強い人だ」と、答えられたことがある。これは、自分の野菜を買い求めて頂いているお客様に、そう思われているんだなと認識出来たと共に、度々思い出しては、やはりそれが自分の目指しているところ、実現しようとしているところなのだなと、何度も思い直している。

2つ目は、前回ブログでも記した通り、これまでに飲んだ人生で一番美味しいワイン、Chateau Pichon Longueville Comtesse de Lalande 1989 の経験によるものがある。実に複雑で芳醇で、刻々と味と香りが変わり、実に圧倒的で、身体全体が味と香りに包まれるものであった。味自体は、実にしっかりとしたボルドーのPauillacの作りで、力強く奥深いベリーの洗練され調和された味でありながら、一方で、ただ単に固く、極みを求めるのではなく、同時に華やかであり、豊かさがあった。自分が野菜で目指している味は、正にそういう味だ。いや、逆に言うと、自分の味の好みがそうであったから、そのワインが人生で一番美味しいワインであったと思えるのかもしれない。でもおそらくその両方、自分の味の好みとそのワインの経験が、相互に影響を与え、現在の野菜の味に対する美の感覚に影響を与えたのだろう。

3つ目は、味は野菜の成分に由来するものであるのだから、味が複雑で力強くあるためには、その成分が多種にわたり、多量に含まれていないと実現できないだろう、という、ごく自然な推定がある。そして、多種多量の成分が含まれるためには、それだけ成長が良く、過不足のない養分を吸い、たっぷり光合成を行って、十分に栄養を蓄えていなければ実現できないだろう、という、ごく自然な推定の続きもある。逆に、養分が不足したとき、生育が悪いときに、味が薄くなったり、悪くなったりするのは、これまでのブログで記してきた通りである。

以上のきっかけや理由で、自分が目指す仕上がりと味の美意識、生産哲学を説明できると思う。求めている味は、複雑で力強く、一方で華やかで、調和のとれた美しい味である。そしてそれらはそのまま当園の味のスタイルに繋がっており、日々の生産と出荷の中で、実現しようと努力している。

最後に、この美しさは、今後更に磨きをかけ、お客様へご提供して行きたいと思う。そしてそれは、当園の経営理念そのものである。

「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」

地産地消に思うこと

地産地消という言葉は、市民権を得て根付き、かなりの年月が経ったように思う。そして、地産地消は、単に地元で生産されたものを地元で消費するという活動を指すに止まらず、食料安全保障(食料自給率)、食の安心・安全、食育、そして最近は持続可能性・SDGsの考え、その時々の社会的背景や時代の要請も取り込みながら発展し、社会から一定の支持を得ていると思う。
ただ、そのような正しい考え方であると思う地産地消だが、実際の取り組みや主張の内容には、疑問を抱かざるを得ないことが少なからずあり、個人的には無条件で賛同出来ず、きっちりと是々非々の賛否を示して臨むべきことと思っている。
そこで今回は、地産地消の考え方を、まず整理し、次に疑問に思う点を取り上げ、最後にどのように扱われるべきかを論じて行きたいと思う。

まず、そもそも地産地消という考えは、昭和のバブル期と前後して、農産物の大量生産・大量輸送の体制が全国的に構築され、効率的な流通が実現した一方、低い鮮度などのデメリットが顕在化し、そこを埋めるために始まった地域内消費から、自然発生的に生まれた考えではないだろうか。特に地方においては、すぐ隣の畑で作っているものなのに、わざわざ東京の市場に一度持って行かれ、そしてまた地元のスーパーに戻ってきて、消費者が実際に手にするときには鮮度を失い、美味しくも無くなっている。せっかく地元で作っているものなのだから、そのまま地元で買い求め、新鮮で美味しいうちに頂こう、というのが、ごく自然な流れであったのだろう。しかも、この新しいルートは、明確なメリットが消費者と生産者双方に存在する。消費者にとっては、ただ単により新鮮で美味しいものを買い求められるようになっただけではなく、農家が直接出品する農産物は中間流通コストが削減されており、スーパーより安く買えるという更に大きなメリットもあった。一方の生産者にとっても、それまでの市場出しでは、厳しい規格や数量を守っても、安い手取りにしかならないところを、比較的自由に販売出来るにもかかわらず、手取りがそこそこあって有難いものであった。このように、生産者と消費者のニーズがマッチし、経済的な合理性を持ったが故に、平成初めの頃から、道の駅も含めた直売所が、全国的な広がりをみせたのではないだろうか。そして、直売所の広がりと共に、地産地消という考えも広まり、支持されるようになったのではないだろうか。

そして、冒頭で触れたように、地産地消には、前記生産者と消費者のニーズのマッチによる地域内生産消費に止まらず、様々な社会文脈上の意味も付け加えられてきた。食料安全保障(食料自給率)に関しては、日本の低い食料自給率を背景に、地元のものを積極的に消費することが、ひいては国産農産物の消費拡大に繋がるとされた。食の安心・安全については、地元産で顔が見える関係の取引で、食の安心に寄与するものとされた。食育に関しては、食の生産と消費の現場が切り離された現代社会において、地域内での物理的・精神的な距離の近さを活かし、生産現場と食の理解を促進する役割を期待された。そして最近の持続可能性・SDGsに関しては、農業と表裏一体の地域社会の活性化や輸送コストの削減を期待されているようだ。

ただし、これらの意味付けについては、あくまでも後付けの理由であり、前記の経済的合理性から自然に生まれ、広まった考えとは性格を異にするものだろう。考え方自体は、決して100%間違っているとは言えないが、十分に当たっているとも言えないのではないか。地元産農産物を消費することが、外国産農産物の消費を代替することも”あるかもしれない”、地元産のものを食べるほうが、安心で”あるかもしれない”、生産現場が近いことで、食の理解に繋がることも”あるかもしれない”、地域社会の活性化や輸送コストの削減に繋がることも”あるかもしれない”。地産地消がそれらの社会的要請に応えるのに、少なくとも短期的に経済合理性を持つことは無く、あるいは追加のコストを必要とし、しかも、直接的な因果関係では結ばれず、副次的な効果として多少結果として伴うだけのことだろう。

そして、この話の流れのまま、地産地消の考え方について疑問に思うところに議論を移していきたい。ここでは3つほど、考える視点を提供したいと思う。

まず1つめの視点は、地産地消のアピールをするときに、真に消費者にとってのメリットを提供できていないのではないか、ということである。これはどちらかと言うと、生産者含む販売側の問題であるのだが、そこで売っているものは、本当に地元産のものでしか生むことの出来ない価値を持っているものであろうか?他の地域から同程度のものを簡単に調達できるのではないだろうか?そのように思ってしまう場面が多々あるのである。特に最近は、流通網がさらに発達し、遠くの産地からでも地元産のものと変わりない位の鮮度で手に入れられ、むしろより鮮度が高いことさえある。そのような状況で、単に地元産というだけで価値があるとすれば、それは合理性など全くないことで、もしそこに価値を見出すのだとしたら、それはほとんど宗教的な盲信と同じである。百歩譲って、地元産に対して親近感を持つことはできても、本質的に価値が多く備わっている訳では無く、もしその親近感に頼るのだとしたら、それは単なる甘えであろうし、真の顧客価値を無視した、独善的な価値基準でしかない。そして更につけ加えると、もし親近感が高じて郷土愛が来るのだとしたら、郷土愛自体は素晴らしいものではあるが、これはナショナリズムに通じる単なる思考停止でしかないように思う。

次に2つめの視点は、前記1つめと重なるところで、むしろそれをより俯瞰的に捉えた考え方になるのであるが、地産地消というそれ自体が、無条件に肯定され、目的化されていないか、ということである。地産地消の活動自体は、生産と販売のギャップを埋め、これまで届けることができていなかった顧客価値を届けるところに意味がある。だから、地産地消自体は、その様な顧客価値を届けるという目的を達成するための手段でしかなく、決して目的であることはない。しかしながら現実には、地産地消であるだけで称賛され、地産地消活動のゴールを、地産地消それ自体に設定しているようにしか見えないことが多くあるのである。これでは論理の循環であり、手段の目的化に他ならない。手段の目的化は、この人間社会ではよく見られることであるし、これは一種の心理学で言う学習効果でもあるのであろうが、混同すべきではなく、ましてや、盲目的に地産地消を称賛すべきではない。

最後に3つめの視点は、前述2項に比べるとかなり小さい話になってしまうのであるが、持続可能性・SDGsの考え方で言及される、フードマイレージという概念は、とんでもない詭弁であるということである。フードマイレージとは、農産物の移動距離を捉えて、その輸送距離が長いとそれだけ輸送コストがかかり、輸送に伴う燃料消費のCO2がより排出される、という考え方らしいが、農産物1つ1つの輸送距離の絶対値など何の意味もあるはずも無く、正しく重要なのは農産物の”単位あたり”の輸送距離やCO2含む輸送コストであるはずである。そうすると、地域内で小規模で生産消費活動をするよりも、実は遠方で大量生産し大量輸送する方が、”単位あたり”の輸送距離やコストは低いかもしれない。そこをきちんと検証した上で、よりコストの低い方法を選択すれば良いだけのことで、輸送距離の絶対値だけをセンセーショナルに取り上げるフードマイレージは、実にミスリーディングで、論理的に全く正しくない詭弁であると思う。

以上、地産地消の考え方について疑問に思うところに対する3つの視点となる。纏めると、地産地消活動によって、本当に地産地消だからこそ提供できる価値を、提供できているのか、その提供するところを忘れて、地産地消であるだけで良しとしていないか、というところである。

その上で締め括りとして、地産地消がどうあるべきかについて考えてみたい。
これは、地産地消だからこそ提供出来る顧客価値が何であるのか、よく考え、確かに実行することに尽きる。それは他の地域からでは手にいれることの出来ない、新鮮で美味しい農産物であることがまず第一で、その上で、顔が見える安心感、食育機能、地域社会の維持発展への貢献となるだろう。逆に気をつけるべき点として、地産地消それ自体をゴールとしないこと、前述の様々な顧客価値の優先順位を間違えないこと、きちんと顧客価値を実現できているか常に冷静に一歩引いてチェックすること、である。

最後の最後で爆弾発言のようであるが、現在の地産地消活動の多くは、ある一定以上の市民の支持を得られていないと思う。これは、消費者が直感的に、地元産の農産物にそこまで価値を感じられずにいると共に、地産地消活動の正当性に疑問を感じているからではないだろうか。実際、自分が見る限り、地産地消活動の多くは、それが好きな人の内輪のサークル活動、もっと言うと宗教的・布教的活動に止まっているようにしか見えない。しかしながら、上記の地産地消が本来あるべき姿を注意深く捉え直し、正しく顧客価値を提供できる活動になることが出来れば、今後もっと広く市民の支持を集め、より社会の大きな流れとなれるのであろう。

なぜ野菜の高騰は家計を直撃するのか

少し前、野菜の値段は高いものが多かった。そして、野菜の高騰で家計に影響が出るという、マスコミ報道も少なからずあった。直感的には理解できる内容である。一方で、生鮮野菜の家計に占める割合は数%なので、野菜の価格変動は家計に影響しないという記事もあった。そこで思ったのは、野菜の高騰が家計を直撃している/していない、という主張は、そもそも適切で正しいのだろうか。また、その理由を論じた情報を、ほとんど見つけられなかったのだが、野菜の高騰が家計を直撃すると報道されるのは何故だろうか。こちらについても、大胆かつ行動経済学の考え方を用いながら、考察を深めて行きたいと思う。

まず、野菜の高騰が家計を直撃していないという主張の、家計に占める割合の小ささは、根拠として妥当でないだろう。家計の中で削ることのできない固定的な経費、住居、水道光熱、交通通信、教育費など、出費の多くは既に確定しており、それ以外も削るのが難しい、あるいは削りたくない出費を更に差し引けば、野菜の出費は全体の数%しかないと無視できるほどに小さくはない。野菜価格高騰による出費増は、他の出費の調整で吸収できない程ではないだろうが、考えに入れる必要がある程度のインパクトは持つだろう。だから、早速結論を言うと、野菜の高騰は家計を直撃している/していない、の両方とも言えない、が最も正しいのではないだろうか。

だから、直撃している/いない、という事実よりも、直撃していると感じてしまう心理を正しく理解することの方が、野菜の高騰が家計を直撃すると報道される理由の理解に、必要ではないだろうか。そして、行動経済学の考え方を照らし合わせて考えると、そのように感じてしまう心理には十分な理由がある、と思うのである。ここではその理由を3つ挙げたいと思う。

まず1つ目は、野菜の値段には、他の出費に比べて、もともとシビアであるということ。行動経済学の用語の、”メンタル・アカウンティング(心の家計簿)” で、どの勘定、どの使い途になるかによって、そもそもお金の価値の重みが違う、と説明されるように、趣味などの遊興費には、気前良くお金を使えるのに、野菜などの食費は、少しでも節約しようとする。だから、野菜の価格の上昇は、厳しく感じてしまうのであろう。

次に2つ目であるが、野菜は食材の中で最も価格が乱高下しやすい特徴があるにもかかわらず、そもそも人は行動経済学で言う、”損失回避性(同じものを得るよりも、失う方が約2倍大きく感じる)” がある為、野菜価格が上げ下げする中で、高騰時にはより大きな痛みを感じ易いのだろう。
改めて考えてみると、野菜ほど、価格が乱高下する消費財は他に無いのではないだろうか。計画生産が難しい生鮮品の中でも、穀物や畜産物の価格変動はまだ緩やかだし、果物や魚介類は、シーズンや年毎の変動はあっても、野菜のように短期間で2倍も3倍も上がったり下がったりする食材は無い。だから、野菜の価格には反応し易いし、更にその反応が習慣化しているのではないか。
そして、野菜の価格が乱高下する中で、人の損失回避性の性格によって、価格上がったときに痛みを強く感じ、家計を直撃する感覚に繋がるのだろう。

最後に3つ目であるが、野菜はとにかく目に付く食材であり、野菜の価格の上昇が、あたかも家計にまで影響を及ぼすような、大きなウェイトを出費の中で占めているかのような感覚に至るのであろう。行動経済学で言う、”代表性ヒューリスティック(一部の情報を基に、全体を代表するものとして、簡易に判断する方法)” とは正確には違うが、目立つものが実際より大きな影響を持つものとして捉えられるところは共通しており、野菜はそのように捉えられるのだろう。
そしてまた改めて考えると、野菜は、スーパーで売られている商品の中心を成す重要なアイテムであり、店頭、或いは、店に入って直ぐの場所で、お店の顔となり、売り場に彩りを加え、また集客の為に、並べられているものである。そして実際、店にとっては、野菜は売上の主要な部分を占めており、一方の客にとっては、それを求めて来店する。野菜の小売の売り場での地位は十分に高く、消費者心理に大きな影響を及ぼすだけのことはある。

以上、野菜の高騰が家計を直撃していると感じてしまう、尤もな理由3つとなる。人は、従来の経済学が想定する合理的経済人(瞬時にあらゆる必要な情報を集め、分析し、最適解を導き出せて、しかもその時間と労力のコストはゼロのように低い)とは程遠く、行動経済学が想定する限定合理的経済人(合理的経済人の反対で、しかも、お金や時間、労力の価値自体もその時々で変化する)であるのが現実である。いやむしろ、”限定合理的”などと、まるで否定的な表現をされるのは不適切で、所与の諸制約や諸環境下で、お金や労力や時間など全てのコストやその時々の価値の変化をひっくるめて、合理的に判断しようとするのが現実の人間ではないだろうか。このように人を合理的主体として捉えると、野菜の高騰が家計を直撃していると感じてしまうだろうことは不思議ではないのである。そしてその様に、マスコミの報道では伝えられるのだろう。

マスコミの報道が必要以上に、事実を煽るのはもちろん良くないことである。しかしながら、これも人間社会の1つの側面、1つの真実であり、そこを冷静に捉えて、自らの購買行動の参考にすれば良いのではないか。そして、値段が下がった局面では、おそらく年末にかけて野菜の価格はかなり下がると予想しているが、その利得は損失に比べ感じ難いものであっても、ぜひそのお買い得感を最大限に感じて頂き、より多くの野菜をお求め頂ければと思う。

 

「現場感覚」定義の”現場感覚”

”現場感覚”という言葉は、この農業業界において、非常に乱用されているように思う。これはきっとこの農業業界は、現場と現場以外の距離が遠く、それに伴う弊害が大きく、”現場感覚”の多少によって、その弊害の解決能力の高さを示せる業界と思われているからなのであろう。だから、この言葉を使うのは専ら、農家以外の業界関係者であって(そもそも農家は現場そのものであるので、使う必要が無い)、そのような人達が、”現場を知っています”や”現場感覚があります” などと言うのを、よく耳にするのである。しかしながら、はっきり言うと、”現場感覚”を主張されるときほど、疑わしく思うときは無い。そしてこれは、決して自分一人の勝手な考えではなく、多くの農家が示す、ごく自然な反応であるとも思う。
今回は、疑わしく思う理由3つをまず考え、最終的に、真の「現場感覚」で定義される”現場感覚”がいかなるものか、を考察してみたい。

まず、疑わしく思う理由の1つ目は、現場の農家の人生観・仕事観や意識に関するところであるが、現場と現場以外で埋め難い大きなギャップがあるからと思う。そのギャップについては、これまでこのブログで書き綴ってきた様々なことが該当するのであるが、自分の生活、命を繋ぐため、厳しい自然に翻弄されながらも、必死に闘い、そこで収穫物、収入を何とか得ている、という思いが、主なところであろう。完全成果主義でその上、運が悪ければ、生きていけなくなるかもしれない。このプレッシャーに耐えるには、自身の経験と照らし合わしても、勤め仕事時代の10倍の強い精神力が必要で、人生観、仕事観、世界観が大きく変るものであった。この意識の差は、現場経験の有無によって、大きな差が生まれるところではないか。

疑わしく思う理由の2つ目は、農家の現場仕事上のオペレーションや技術に関するところであるが、農家が仕事をする際に見ている世界は、普通の人が見る世界と大きく異なっている、というところにある。これは農家の目線は普通の人と違うとも言えるし、普通の人が見ていない、見えていない部分が、農家には見えている、ということでもある。これも、これまでこのブログで書いてきたことであるが、農業の現場は実に複雑系で、変動要因・攪乱要因が山の様にあり、これを把握し理解することは実に困難なことである。農家は、ここを経験と勘を活用しながら、その大半を認知し、カバーしている。それでも、農家でさえ想定しないことが次々と起きるのが、農業の現場である。実際に日々困難に直面し、格闘していない人が、そんな簡単に経験していない複雑系、予測不可能な農業の現場を理解できるのだろうか。全くそうは思わないのである。

疑わしく思う理由の3つ目は、上記1つ目と2つ目を踏まえ、農家が到達する、考え方、心の持ちようがあることである。それは、1つ目の、厳しい自然環境、農業の仕事を経て、自身の存在を大きな自然環境の中のほんの一部として位置付け、理解する、謙虚な姿勢。「農業の仕事の成果は、努力半分、運半分」、「自分の運命も草や虫と同じ」、など。2つ目の、複雑系の困難な仕事を目の前にして、自身が未だ未熟であることを知る「無知の知」の悟り。「毎年が一年生」、「農業は一生勉強」、など。これら2つは、多くの篤農家に共通する、実に謙遜して奥ゆかしい態度である。農業を極めようとする農家達が謙虚になるのに、なぜ現場以外の人に、知った口を利かれなければならないのだろうか。もちろん、知っている部分もあるだろう。それを否定することはない。しかしながら、知った上でそれでも知らないとするのが、本来取るべき態度ではないだろうか。

以上が、現場外の人から”現場感覚”という言葉を使われた時に疑わしく思う理由である。いずれにしても、現場の農家の考えや精神に強く反するところであると思う。

では、それらを踏まえて、本当に現場の人間である農家が考える、真の「現場感覚」による”現場感覚”は、どのようなものになるのであろうか。簡単に言えば、上記の疑う理由の裏返しがそのまま当てはまるのであろう。農家の人生観、仕事観の理解に努め、農家の目線を理解するよう努め、謙虚でいることである。

しかし、改めて考えると、実はこれらの感覚は、別に農業に限らず、一次産業ではもちろん共通する感覚で、更に言うと、社会一般のあらゆる現場、生産現場や販売現場など、を理解する際に求められる感覚と同じではないだろうか。

それは端的に言うと、勝手な思い込みの色眼鏡で見ず、現場の目線で、出来事や考えを理解し、ありのままに理解する、ということである。そして、これは非常に簡単なことのように聞こえて、ほとんどの人が出来ない、最も難しいことでもある。立場が違うと、考え方や価値基準が異なってくるにもかかわらず、自身の基準で現場をどうしても判断してしまうからである。”人は、自らが見たいと欲する現実しか、見ようとはしない。” 農業の現場では特に、上記のように立場や考えに大きな差があるので、より難しいのではないだろうか。

現場の理解という意味で、販売現場の話ではあるが、とても参考になる話があるので、取り上げたいと思う。それは、セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問の鈴木敏文氏が言われる、”お客様のために考えるのではなく、お客様の立場で考えろ” ※1、という考え方である。鈴木氏は、またこのようにも言う。”「お客様のために」と言いつつ、無意識のうちにも、売り手やつくり手の都合を押しつけていることが多い” ※2。”「お客様のために」では、お客様が何を感じているのかはわからない。「お客様の立場」というのは、「お客様がどう感じるか」を考えるということです。” ※1。

この現場理解の考え方は、農業の現場の理解にそのまま当てはめられるのではないか。農家のために考えるのではなく、農家の立場、目線に立って、農家がどう感じているか、考える。農家の喜びと怒り、哀しみと楽しみを、同じ目線で感じる。特に普通の農家は、表立って自分の考えを、意見が対立する場合は尚更、言わないものである。そのような状況で、農家の声なき声を聞き、この心奥深くの思いを知ることができているのであろうか。そこを知り、考えられることが、真の現場感覚ではないだろうか。

そして、前述の様に、現場の農家は、現場外の人との考え方、価値観に大きな差があることを十分認識し、理解する努力を常に怠らず、常に謙虚であること。これが、本当に現場の人間の農家が考える、真の「現場感覚」による”現場感覚”であると思う。

最後に余談ながら、この現場感覚を良く理解している/理解していない業界関係者が、どのような人達か、について触れたいと思う。
意外に思われるかもしれないが、一番理解しているのは、農業に関わる行政機関の人達に多い。市、県、国の各レベルにおいてもいずれも、もちろん現場に近ければ近いほど、良く理解していると感じる。あと、行政機関ではないが、農協も同様である。これは、農家の現実を現場で、日々見て、話しているからであろう。そして、おそらく最も重要なことは、これらの人々は、農家の上に立つ立場でありながら、実は現代的に言うと、農家に行政サービスを提供している、農家をお客様のように扱ってくれる人達であり、だから、その距離感を農家もよく分かっていて、農家は本音を、不平不満を、結構遠慮無しにぶつけることが多い。時には、突き上げるようなことさえある。だから、行政機関の人達は、ある意味、身を持って農家の現実や考え方を理解しており、故に、現場感覚をよくお持ちなのであろう。
逆に、最も理解していないと思われるのは、農家が”先生”と呼ぶ人達の多くと、ベンチャーの人達である。先述のように、農家は表立って、自分の考えを、特に悪口は言わないものである。だから、表では”先生”の話を大変有難く聞き、裏では「何言ってんだ」「じゃあ自分でやってみろ」と話している。でもこの農家の考えは、その通りであると思う。そして、ベンチャーの人達については、開発系から流通系まですべからく該当する。事業を行うのに持っている強い思いで目が曇り、現実を見れないからであろう。

最後は変な話になったが、本当に現場の人間の農家が考える、真の「現場感覚」による”現場感覚”への理解が広がることを強く願う。そして、現場と現場以外のギャップが少しでも埋められ、この業界の弊害が少しでも解消されれば、と思う。

参考資料
※1 ”なぜセブンは最強コンビニなのか…それは「お客のため」ではなく「お客の立場」で考えているからだ” 「小売の神様」鈴木敏文の経営哲学 President Online
https://president.jp/articles/-/54005
※2 ”間違いの第一歩は「これは売れる」の思い込み” 鈴木敏文「顧客本位の経営」(3)  President Online https://president.jp/articles/-/31394

 

農業生涯現役宣言 (農家が働き続けるその理由)

自分は、身体が動かなくなるまで、畑に出続けると思う。だから、ここに農業生涯現役宣言をしたいと思う。そしてこの考えは、農家ならば決して特別な考えではなく、多くの農家が考えていることであると思う。腰がものすごく曲がって、歩くのも覚束ない農家のお爺さんが、亡くなられる直前まで畑に出続けていることなど、よくある光景で、よくある話なのだ。何が農家をそうさせるのか。何が農家をそう駆り立てるのか。そこには浅い理由だけではなく、これまでこのブログで書き綴ってきたことと共通する深い理由もあるのではないかと思う。そこで今回は、宣言と共に、その様々な理由について話をしたいと思う。浅い理由から深い理由まで、全部で5つの理由をあげたいと思う。

まず1つめは、農業は他の自営業と同じく、定年が無いから、と言えるだろう。自分が続けられる/続けようと思う限りは、いつまでも続けられる。むしろ、農家は一般の人と違い、生産手段を有している状況であるから、使い続けようと思うのかもしれない。また、長年仕事として続けた農業が日常の習慣となり、その習慣を続けようと思うのかもしれない。

2つめは、収入面から、農業を続けていくのに十分な理由があるからであると思う。卑しい話になるが、会社員が定年して手厚い厚生年金で暮らせる程、普通の農家は年金を得られないので(農業者年金という厚生年金に相当する付加年金はある。ただし、入っているという話をあまり聞いたことが無い)、働かざるを得ない、という側面もある。また、暮らすには十分な状況であっても、孫の為に小遣いを稼ぎたい、という願望を持つ人もいる。(その為にダンピング的な過当競争が起こり、専業農家が苦労するという側面があるが、ここでは深堀りしない。)

3つめは、畑の維持管理という側面から、農業を続ける、という選択肢が取られ易い。特に、後継者不足で、他に畑の面倒を見る人がいない場合、自分がどんなに高齢になっても、続けざるを得ない。畑を畑でなくす、つまり放置して荒地、耕作放棄地にする、という選択肢は、そういう畑も増えてきてはいるのではあるが、農家ならば、なかなか取ることの出来ない選択肢である。それは土地が荒れ、畑として維持できないと、場合によっては相続税の納税猶予が解除される、自分の子への相続のときに不利になる、というつまらない理由があるだけでなく、自身が慣れ親しんだ、ある意味、自分の命が養われた場所を捨てることと同じでもあるからである。また、畑を荒らすと、病害虫や雑草の温床となり、周囲の他の農家、同じ村の人に迷惑を与えることになるので、地域共同体の中で生活をしている農家としては、周りに迷惑をかけ、村の輪を乱すようなことは、とても出来ない。この様に、言及されることはほとんど無いが、農業は、撤退障壁が非常に高い、特殊な産業である。

4つめは、農家としての美学がある。前項で触れた、畑を綺麗に管理しておきたい、自分の目の黒いうちは、畑のままで置いておきたい、というのは、普通の農家ならば普通に思うことだ。また、うちの家業は代々農家であって、自分は死ぬまで農家である、というのも立派な生き方である。また、農家としてプロフェッショナルであればある程、これは農家に限らないのだろうが、一生、腕を磨き続けようとするプロフェッショナリズムは、褒め称えられるべきことであると思う。

最後に5つめは、これが最も深い理由に思うのだが、これまでのブログでも書き記してきたように、多くの農家が無意識のうちに考えている、農業者だからこそ得られる価値観があると思う。つまり、農業は自然相手に行う仕事であり、その自然の中では、生きるために常に闘い続けることが当然である、という考えがある。むしろ、常に闘い続けることこそが、生きることそのものであり、それが、自然の中で、自然と共に生きる、生命本来の姿、あり方である。だから自身の運命は、すぐ隣にある草や虫と同じ様に、少しの雨や風で滅びるかもしれないし、あるいは天候に恵まれて栄えるかもしれない。その中で出来ることは、ただ、休みなく一生懸命働き続けることしか無い。だから、生きるとはどういうことか、身をもって痛感している農家ならば、身体が動く限り、この仕事を辞めようなどと思わないのではないか。

以上、農家が生涯仕事をし続けようとする理由について纏めてみた。その理由は様々で、目先の利益に関するところから、人生観に関するところまである。そして、どれも十分な理由で、納得の行く理由であると思う。一般にはあまり知られていない理由もあると思うが、農家は実に合理的主体として合理的に、自身の仕事を続ける判断をしていると思う。

その中で、自分も多くの農家と同じように、一生、身体が動かなくなるまで、この仕事を続けて行こう。自分の仕事がどんなに発展して、変容したとしても、足元の土を握りしめ、この大地に、畑に、立ち続けていこう。

農業でPDCAを説く愚

農業でPDCAは意味が無い、と言うのではない。十分意味はあるけれども、工業の世界ほど万能では無い、と言いたいのである。おそらく、この事実は、過去、指摘されたことはほぼ無いのではないだろうか。しかしながら、農業界においても、「PDCA」や「カイゼン」や「トヨタ式」が、声高に叫ばれることがある今、実はそれらがそれほど意味がある訳ではない、と正しく理解されることは極めて重要であると思う。更に言うと、この事実は、農家なら無意識のうちに普通に理解していることにもかかわらず、一方の農家以外の業界関係者は全く知りもしないという、天と地ほどのギャップがあるという事実も、この事実が正しく理解される重要性を、より増しているように思う。

本題に入る前に、まず「PDCA」や「カイゼン」や「トヨタ式」を自分が語る資格についてご説明したいと思う。単なる一農家が、俄か仕立ての中途半端な、インテリ層によくありがちな頭でっかちな知識で、語る訳ではないからである。自分の場合、これらを学び、習得する2つの大きなステップがあった。
1つ目は、学生時代、他学部聴講で受けた経済学部の授業、トヨタ式の研究で高名な藤本隆宏教授の「生産マネジメント入門」の本を基にした、教授の授業を受け、学んだところにある。この授業は、自分がメーカーの素晴らしさに気付き、メーカーに就職することになった大きなきっかけとなった授業でもあるのだが、その授業では、日本のものづくりの強さ、トヨタ式の凄さ、それらを人生哲学にまで昇華させるほどの知の体系として、学ぶことができた。よく本屋のビジネス書の棚に並んでいる、「PDCA」や「カイゼン」や「トヨタ式」に言及した、非常に表面的で薄っぺらいハウツー本とは全く次元が異なる、実に学問的によく検証され体系的に纏められ、その上で組織文化や経営までを論理の体系に組み込んだ、総合的で圧倒的な知、思想、哲学であった。その知に触れることができたのは非常に幸いなことで、自分の中で非常に深く強く揺り動かされるものがあった。
2つ目は、そうして就職したメーカーで営業・マーケティングの仕事に就いたのではあるが、最初の数年で工場の生産管理の仕事を行い、そこで、工場の大幅な改革に成功したところにある。自分が最初に仕事を引き継いだ時は、現場の長でさえもどこで何を作っているのか全く分からず、計画通りの生産、生産量が全く満たされず、不良を山の様に出す工場で、まさに混迷の最中にあった。そこで、先述の授業を学んだことを基に、特別なことは何もせず、ただ当たり前のことを当たり前のように行い、その背景にある、思想と哲学を切々と説いていった。これらは、特に誰からの支援を受けることなく自分単独で、いや、正直、トヨタほどの会社でなければ、その重要性を理解できる人はいないであろうが、実行し、成果を上げることができた。そして、自分が担当を離れる時には、計画通りの生産を行い、生産量を出し、不良品は僅かで、しかも技術開発まで出来る現場に変わっていた。その過程で、現場の荒れていた人心は前向きになり、希望が持てる職場に変わっていたことは言うまでもない。そのように、学んだことをただ愚直に実行し、大きな成果を上げることができたのは、本当に貴重な経験であった。自分の中で生産管理に自信が持てるようになり、そして会社員時代の最も印象に残る仕事となった。

それで本題のPDCAが農業でなかなか適用できない理由なのであるが、一言で言うと、とても単純なことで、自然相手にする農業では、外乱・攪乱要因が非常に大きく、また変動要素は山のようにあり、工業と同じように一定の生産条件を整えることが出来ない、というのが理由である。条件とは、その年の気候、過去一か月、一週間、前日、当日の天気、その時の日射、気温、風向、風速、土の湿り気具合、作物の生育状態、などなど、挙げれば恐らく切りがなく、そして、同じ作業が、それらほんの少しの条件の違いによって、かかる時間が何倍も変わったり、精度が著しく落ちたりする。カイゼンの視点で言えば、「標準なくしてカイゼンなし」なのであるが、そもそもその”標準”を作ることが出来ないのが、農業の特色なのである。ここを勘違いしてはならない。この点は、篤農家ほど良く分かっており、篤農家ほど良く言う、「毎年が一年生である。」と言う言葉に端的に表されている。毎年が異なる条件下で、毎年が初めての状況で仕事を行うからである。そして実際、そこで育った作物の姿形は毎年異なっており、素人目には全く区別がつかないところなのであるが、玄人の目には、結構大きく違うのである。

そして、そのような条件の中で、農家は状況に応じて柔軟に仕事をしている。そこでより重要になり、頼りになってくるのは、実は「経験と勘」である。PDCAのマインドは大事だし、否定するところではないのであるが、PDCAを厳格に適用できない以上、それと同等或いはそれ以上に大切になってくるのが「経験と勘」である。ここに、農業における経験と勘の重要性があり、PDCAの限界がある。
また更に言うと、PDCAにしろ、経験と勘にしろ、農家の仕事は年に一回しか出来ない仕事が多く、何十年のベテラン農家でも、実は数十回の経験しかしたことがない、という特殊な業界の事情がある。工場での仕事のように日に何百回、何千回繰り返しする仕事ではないので、フィードバックが遅く、少なく、習熟に時間がかかる。だからこそ、PDCAでも、経験と勘でも、どちらでも良いのではあるが、それら両方を踏まえた総合的な判断力、これが農業において、最も重要なものになってくるのだろう。

ここまで、生産条件についての話をしていたが、そのような最終的な結果として、収穫がまた大きく変動してくるところも、農業の難しいところである。ほんの一雨、ほんの一風で、作物が全滅することなど、普通にあることだ。予想もしなかった、ほんのちょっとした条件の違いによって、収穫が大きく変わってくる。環境制御が全く出来ない露地作の場合は、特にそうである。だから、PDCAの実行という観点からすると、とてもではないが、手間暇コストをかけて、それに見合うのかと言われると、あまり当てはまらない側面がある。生産条件のみならず、最終的な結果の収穫も大きく変動する、という意味でも、PDCAは、実に農業では扱いにくく、万能な道具では無いのである。

最後に、冒頭で触れた、農家と業界関係者の理解のギャップについて話をしたい。
まず、ギャップがどのような現状かを説明すると、農家は、上記の理由如何に関わらず、工業的な改善方法や手法に全く無知で無頓着である、という面は確かにあるが、同時に、そのような方法や手法で上手く行くものでもない、ということを、理解せずとも分かっている。一方、業界関係者は声高に、「PDCA」はじめ、「カイゼン」やら「トヨタ式」やらを叫び、一気に農業の現状を打破する、素晴らしい御告げを啓示したような雰囲気を、業界の一部でよく作る。ただ現実には、それほど意味や効果がある訳ではないので、結局は単なる空騒ぎで、いつの間にか有耶無耶になって、そのような話は消えて行く。この様な話は、この業界で常に繰り返し起きていて、過去その手の話が上手く行ったことがないのを農家は経験的によく知っているので、表面的には有難く聞いて、裏では冷ややかに聞いている。これが農家と業界関係者のギャップの現状である。何という認知、理解のギャップなのであろう。

このギャップは非常に埋め難いものがある。農業の仕事で、ちょっとした違いで、いつもの何倍もの時間がかかり、或いは、何度もやり直す羽目になる苦労をした経験がない、業界関係者には、この農家の本当の思いは分からないことだろう。その中で、上から目線の、自分は何か知っているとか、教えてあげるなどのような態度は、農家の神経を逆撫ですることに他ならない。業界関係者は、どこまで行っても、農家に並ぶことは出来ない存在であり、そのことを正しく理解し、農家に敬意を払い、農家の目線・本当の思いに寄り添っていくべきだろう。
一方、農家の側も、もっと学問的で体系的な知識や思考を備えることが求められているとも言える。学問や知識は、勿論そのまま現場で使えるものではないのではあるが、それが基礎となり、足腰となり、自分の仕事を高めてくれる手段になるからである。農家が自らの経験や勘に、普遍性を持った知識を取り入れた時、今はまさにそれが求められている時代であると思うが、農家はこれまでの姿を一回り上回り、次世代を切り拓いて行ける農家となれるのだろう。

農家はもっと減っていいのか

農家はもっと減っていい、と言い切ってしまっていいのだろうか。自分はそんな単純な話ではないと思うのである。
確かに、農業の産業的な側面から言えば、間違いないだろう。農業が経営として成立し、産業として競争力を持つには、集約化が進み、強い少数の経営体が残る方が良いのだろう。また、自分もこれまでその様な旨の投稿をいくつも書いてきてた。しかし、農業の社会的な側面、農業は地域コミュニティと一体不可分であり、また、地域コミュニティの上に日本の農業が成立していることを鑑みれば、農家が減ることは、マイナスでしかない。また、地域コミュニティ、つまり農家がこれまで担ってきた、神社、お寺、お祭りなど地域の様々な活動が滞り、日本の伝統的な良さ、美しさが失われることに繋がることでしかない。本当にそれでいいのだろうか。今回は、そのような話をして、改めて日本の農業の将来を考えてみたい。ここでは3つの視点から主に考えてみよう。

まず視点の1つ目は、そもそも農業は、周りの他の多くの農家に支えられて、はじめて成立している、ということである。自分自身においても、自身が農業を営む横浜の土地は、都市農業で、小規模零細、縮小傾向の土地柄であり、繋がりの強さは、地方や産地、稲作地帯と比べるとかなり弱いと思うが、それでもお互い支え合って農業をしているという感覚を強く持つしかないのである。

些細なことのようであるが、日々の仕事の中で、「ちょっと手伝って」「ちょっと教えて」「ちょっと助けて」など、お互い助け合いながら仕事をしている。そして、農作業の合間合間に立ち寄ったり、話をしたり、その中にヒントになることが沢山含まれており、自身の経営のプラスに繋がっている。
また、それに止まらず、土地の貸し借りや人の紹介、行政手続きの円滑化など、周りの人々のサポートがあって、仕事を次の展開に繋げることができるのである。

あと、普段は意識しないところではあるが、自分が農業をしやすい環境があるのは、周りで他の人が農業をしているからである。直接的には、畑の隣は畑であるのが、一番農業をし易い環境であって、これが荒地や山林、住宅などであっては、そうはいかない。まさか、一帯の畑を全て独占して自分が管理するようなことは、現実には有り得ないので、隣の畑、近隣の畑を管理する人がいてはじめて、自分も畑をしやすくなるのである。また、間接的には、地域で起きる様々な農業上の問題や課題に、近隣の農家と一丸となって取り組むことで、農業の環境を維持し、守ることができる。農業は、外部効果が非常に高いのが、産業としての特性であるが、意識しないレベルにおいてさえも、お互いに支え合って行っているのが実際である。

次に視点の2つ目であるが、地域コミュニティは、農家社会とほぼ重なるところで、地域の様々な活動や共同作業は、農家が中心になって支えている、ということである。活動には、集落の神社、お寺、お墓、お祭り、町内会、などがあり、共同作業には、農道や用水の維持管理作業などがある。

神社やお寺、お祭りには、現代日本人にも通じる日本の心の原点でもある、森羅万象への敬い、畏れ、そして祈りがよく表れており、実に美しく、心動かされるものがある。そして、農道や用水の維持管理作業では、各自の受益の大小にかかわらず皆で行い、共有財産を共同行動で支えるという、素晴らしい農村の伝統、コミュニティの良さがあり、これが日本社会の行動規範の原点なのだろうと感心する。

これらの活動や共同作業は、とにかく手がかかるので、多数の小規模農家がいて、はじめて支えられる。だから、2割の農業生産額しか占めないからと、8割の大多数の小規模農家を切り捨てることは、これらの活動や共同作業を切り捨て、そして、そこにある日本の心や日本社会の原点を切り捨てることに他ならない。それは本当に良いことなのであろうか。少なくとも、地域で農業を行い、地域の一員となった自分は今、それらに残って欲しいと、そしてその価値があると思っている。

最後に視点の3つ目であるが、現状で競争力を持たないと思われる零細多数の農家は、時間軸を取り入れたより広い視点から見ると、将来も同様に競争力を持たないとは限らない、ということである。言い換えると、現状を静的に理解するのではなく、時間によって変動していくと動的に理解すると、結果が違ってくる可能性がある、ということである。そしてそこで重要な要因となるものが、技術発展である。小さい農業でも効率を高め、競争力を強化できる技術発展はある。それは自分が発明したカニフォーク植えや草取りロボットなども該当する。また、歴史的に言うと、高度成長期に普及した田植え機やコンバインなども該当する。これらは、機械化貧乏の原因になったとか、零細多数の農家を残す要因となった、と直ぐに批判されるのであるが、これらは、当時の社会的背景と重なって、小規模でも農業が成立することを可能にした技術革新ではないのか。そして同様の技術発展の余地が、現在の小規模農業に多いに残されているように感じられるのは、自分の思い過ぎではないと思うが、どうだろうか。

少し話は逸れるのではあるが、田植え機やコンバインは、小規模農家を生き残らせ、農村コミュニティを維持する力になったと捉えられると思うのだが、そのような積極的な評価はできないものなのだろうか。何でもかんでもすぐ批判の姿勢で、問題としか捉えることができない日本の風潮は本当にいかがなものかと思う。そして、論理的に正しくは、全て問題と思われるものは、問題である以前に過去の結果であり、更に言うと、過去の合理的選択の上に生まれた結果である、という事実を正しく認識すべきである。問題とすぐ捉えてしまうのは、ただ単に、自らの願望によって認識を捻じ曲げているだけに過ぎない。

以上、2つの農業の社会的な側面と1つの技術発展による状況変化の観点から、農家が減ることが良いと、簡単に言うことができないことを論じてきた。少し前のブログでも書いたが、農業は、産業的な側面と社会的な側面があり、それら全てを見ることが必要である。そしてその結果は、なかなか割り切れない結果となるかもしれない。だからこそ、農業には特有の難しさがあるのだろう。

生産管理のMBAの教科書にも書かれている有名な言葉がある。
「強くなくては生きてはいけない、優しくなければ生きている意味が無い。」
(If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive. 蛇足だが、最後を”生きている資格がない”と訳すのは、実にセンスが無いと思う。)
その本から引用すると、”企業にとっての利害関係者には…従業員、サプライヤー、地域社会なども含まれる。彼らも含めて全体をバランスよく満足させられなければ…競争力自体の低下を招くおそれがある。” これは、企業に限らず、強い少数の農業経営体についても、同様に言えることだ。強い少数の農業経営体も、地域コミュニティを大事にし、その上に成り立っていることを正しく認識すべきだろう。

ここまでの思考の枠組みを得て、最後に、少し日本の農業の将来について考えてみよう。残念ながら、農家が今後より一層減る傾向は変わらないだろう。それが経済的に理にかなっているからである。そして、集約が進み、少数の強い農業経営体の存在感が大きくなることは間違いないだろう。そして、それと共に、地域コミュニティ、農村社会は弱体化し、日本の心や農村の伝統を伝える催しなども消えていくのだろう。とても寂しい限りである。たとえ、時代が変われば、伝統も文化も変わるものであるとしても。そして、地域の共有財産である農道や用水を共同作業で維持管理する手が足らなくなったとき、残された少数の強い農業経営体は、どのような行動に出るのであろうか?

でも一方で、少し楽観視もしている。2022年の生産緑地問題で、当初の予想を裏切り、農地が意外と残ったように、農業や農家がまだしぶとく残っていく可能性も十分にある。生源寺先生が言われることに全くの同感であるのだが、”数集落に少なくとも一戸の専業農家、その周囲には安定兼業や定年帰農の農家、さらに野菜程度は自分で作る元農家。これが現実的で持続性のある農村のかたちだと思う。”

参考図書:
生源寺眞一「農業と農政の視野」農林統計出版、2010年
生源寺眞一「日本農業の真実」ちくま新書、2011年
藤本隆宏「生産マネジメント入門」日本経済新聞社、2001年

休日の必要性

農業の世界でも、世間一般の働き方改革の流れに合わせて、休日を取れるように働こう、という流れになっているようだ。いやむしろ、農業でも休みが取れる経営が良い経営で、取れない経営が悪い経営だ、というくらいの論調さえある。しかしながら、自分はそこに強い違和感を抱かざるを得ないのである。それは本当に”正しい”価値基準に基づく判断なのだろうか?ある特定の価値基準の押し付けではないだろうか?

具体的な議論に入る前に、農業の休みの取り方の現状を再確認してみる。確かに、農業を仕事としていると、休みを取れることは少ない。ピーク作業時には、休み無しに連日やることに追われて働かなければいけないし、作物は人間の都合に合わせて生育を止めてくれないので、収穫の仕事など始まったら待った無しの状況になる。特に、一日でその姿形を大きく変えてしまう、きゅうりやなすなどの生り物を作っていると、毎日採り続けなければならないので、その長い収穫期間中は、一日も休むことなどできない。これが更に、自分の様に多品目経営をしていると、大体常に手元に何かしらの苗があり、毎日その水やりが欠かせず、それだけでもその日の仕事がある、とカウントできるなら、それこそ年中無休とまではいかなくても、年間360日くらいの労働日数となる。農業のスタイルによって農繁期や農閑期の差があるけれども、農業を本業で生業としている人には、なかなか休みが取れないのが実情ではないだろうか。

しかしながら、休みが取れないという事実と、休みが取れないのが悪いということは、イコールで繋がらないと自分は考える。その理由は、一般的な農業者の価値観によるところと、自分個人の価値観によるところがある。

まず、一般的な農業者の価値観による理由であるが、自然相手に仕事をしている農業者として、自然と湧き上がってくる思いがある。それは、先程も触れたように、日々成長を続ける作物を前にして、作物の都合に合わせて仕事をするものであり、また、自分が日々、生き残りの闘いを繰り広げている草や虫、或いは、天候が、自分を待ってくれる訳ではないので、自分の仕事は自然の成り行きに応じてしなければいけない、という思いがある。農業の仕事は、自分を取り囲む、全ての自然の事象が回る中で、自分がその片隅で仕事をしているだけに過ぎず、全ての自然が常に動き続けているように、自分も動き続けなければいけない。だから、そこに休むとか休みが必要という概念は、そもそも生まれないし、存在もしないのである。人間の思考の勝手な産物である、”休み”など、自然界にはそもそも当てはまらない。そして同様に、農業の仕事にも当てはまらない。自分はただ、虫や草の様に、ただ動き続けるだけのことなのである。そして、これが自然の中で、自然と共に生きる、生命本来の姿なのである。これが農業を営み、農業で暮らすものの、ごく自然な思い、価値観なのではないだろうか。だから余談ではあるが、この感覚を持つに至らない、この仕事で暮らしを立てたことがない人に、休みを取りましょうなどと言われると、ただ心外に思うしかないのである。農業者は全く別の世界で暮らしている。

次に、自分個人の価値観による理由であるが、仕事とはそもそも、休みの必要な苦しいことでなければならないのだろうか?確かに苦しいところが無い訳では無いが、この考え方は、近代以降の経済学が前提とする、労働は対価を得る為の苦役であり、人はなるべくそれを少なくしようとするのが合理的な行動である、という考えに、世の中毒され過ぎていないだろうか?自分は、資本主義を信奉しているし、経済原理主義者であるとは思うが、この点だけはどうしても納得がいかない。自分にとって、農業の仕事は、趣味であり、仕事であり、そして、自己実現であり、社会貢献である。したいこと、しなければならないことが山ほどあり、その中で成したいこと、成さねばならぬことが山ほどある。そこに休みは必要なのであろうか?いや、休みが必要という考えが、そもそも適切なのであろうか?少し話がずれるが、欧米の社会エリートは、本当に休みなく働いていると聞く。自分は、ある意味、社会の最底辺の一次産業の一生産者に過ぎないので、重ね合わせるのは間違っているだろうが、仕事に自身の成功と社会への貢献を重ね合わせられたとき、自然とそのような判断と結果になってくるのではないだろうか?

更に話がずれるようであるが、関連した話として、仕事における休みの有無と知的生産性は、全く関連せず、知的生産性は、休みが無くても落ちるものではないと思う。いや、むしろ、知的生産性ほど、時間と肉体的労力の制約を受けないものはなく、逆に、これまでの経験上、追い込まれた時ほど、良い閃きやアイデアが生まれるものである。仕事における知的生産性を維持するための休みは必要で無い、という意味でも、休みは必要とならない、という点も付け加えておく。

以上の話を纏めると、一般的な農業者の価値観においても、自分個人の価値観においても、農業の仕事で休みが必要という考えは、そもそも当てはまらない。だから、休みが取れないことが悪いのかどうかの判断はできない、というのが相応しい答えであると思う。そしてそのような世間一般と別の価値基準が、理解され、尊重されることがあっても良いと思う。
ひとまず自身においては、ただ自然が回り動くように、自分も動き続け、前へ進もう。
自社と地域と日本全体の農業の為に。

副業的農家の存在意義と農業政策が産業・社会政策となる理由

最近書いてきたブログでは、農家と呼ばれるに相応しい基準や、生業として農”業”をしていると言えるのかという基準などについて、手厳しく論じてきた。そこでは、副業的農家と呼ばれるような人々の多くの地位に対し、疑問を呈し、否定的な考えを示してきた。この、精神的にも経営的にも強靭でなければ農家とは言えない、という自分の考えが将来変わることは決して無いと思う。しかしながら、またこれまでのブログとも矛盾するようではあるが、先程の意味で”弱小”と捉えられる農家の人達を実際に目の前にして、その人達の努力や存在を否定できるのかと言われると、とてもそんな気持ちにはなれないのである。

それは、ひとえに、そのような人々が、同じ農家社会・地域社会を形作る一員だからである。同じ共同体に属し、共通の利益を共有している仲間であるからである。見かけ上の共通の利益は何もないようで、共にそれぞれ農業をしている、という事実だけで、既に共通の利益を共有している。なぜなら、自分が農業が出来る、やりやすくなるのは、近くで別の人が農業をすることで、自らが農業が出来る、やりやすい環境が、様々な点で整えられるからである。農業は、非常に外部効果の高い特異な産業であり、自分のすることが周囲に容易に大きく影響し、周りのすることも自分に大きく影響する。だから、たとえ共通の利益を共有しないようでも、同じ共同体の一員で、同じ農家社会・地域社会を形作る限り、既に共通の利益を共有している。だからこそ、その人達がどんなに弱小と捉えられる農家の人であっても、無碍に扱うことなど到底できないのである。

そのように考えると、小規模零細で、農業以外の収入が主たる副業的農家の位置付けは、低くされることも、また高くされることも無いと思う。更に言うと、結果として副業的農家であっても、農家として生き残れるのであれば、経営的・産業的に正解でなくても、社会的には正解なのではないかと思う。そして、これも1つの正しい農業のあり方なのではないかと思う。そして、自分の周りの”弱小”とも捉えられる農家の人達は、十分にその役割と存在意義を果たしていると思う。

ここまで気付いたとき、農業政策は、純粋に産業政策のみであることは有り得ず、同時に社会政策にもならざると得ない、とも気付いたのである。ここに農業政策の難しさがあるのではないかと思う。短絡的に農業振興を図るのであれば、”強い”農家を育成するための産業政策のみをどんどん取れば良いのかもしれない。しかし、”強い”農家のみで、本当に”強い”農業産業が実現されるのであろうか?農業が地域社会や共同体の上に成立しており、また、外部効果の高い産業としての特異性を鑑みると、どうしても同時に社会政策の性格を帯びた農業政策を取らざるをえないのではないか?社会政策として、農家全体の底上げを図りながら、更に産業政策として”強い”農家の強化が、農業強化の為に必要な農業政策なのではないか?

あと、やや話がずれるが、農業の外部経済で、農業の”多面的機能”とも呼ばれる、景観や環境維持や教育機能などがあるが、基本的に自分はその辺の議論には、中立的な考えである。多面的機能は無い訳ではないと思うが、直接的に経済的な価値に置き換えるのが難しいだけに、農業そのものが産業として生み出す価値以上の価値が強調され過ぎるのは良くないことと思う。あくまでも産業としての農業が価値を生み出す主体であり、”多面的機能”については、副次的な効果として取り扱われるべきと思う。

今回は、副業的農家の役割と存在意義、そこから導き出される、農業政策が産業政策であると同時に社会政策となる理由について考えてみた。自分の周りには副業的農家の人の割合が多いが、皆、社会的な役割を立派に果たされている農家の人々であると思う。そして、そのような人々と”強く”生きる農家、双方の為になる農業政策が実行され、互いに繁栄できればと思う。

経営での評価一辺倒に異議あり

昨今の社会情勢を見ると、資本主義の行き過ぎが見直され、自社の利益よりも社会全体の持続性への貢献が重視されるようになってきているようであるが、どうやら日本の農業界においてはその逆で、経営の評価が、狭義の経営(規模、売上、利益)において、重視される風潮が広がってきているように思う。
これは、良い悪いの問題ではなく、社会的な文脈上そうなるのだろうと思う。現在、日本の農業界は、担い手の減少に伴う経営規模拡大や収益向上が求められている局面にあり、狭義の経営が重視されるのは、当然の帰結であると思う。しかし、どうもその風潮に強い違和感を感じずにはいられないのである。

確かに、営む農業が経営として成立していることは重要である。いや、必須条件である。それ無くして、持続性のある農業など存在しない。自分もそれを重視している。過去数回に渡って、その様な内容で、ブログ記事も書いてきた。規模や売上や利益が大きいことが望ましいことに間違いはない。そして、農業の世界で、そのようなビジネス上の成功は稀少であり、称えられ、持ち上げられてもいいと思う。更に言うと、それらは社会の必要を満たした結果であるだろうから、その意味でも望ましいと思う。
余談であるが、宅配型経営の評価には十分な注意が必要である。それは、たとえば2000円の生産物を1000円の送料を乗せて、3000円で売って、総額を売上としているケースが多いとみられるからである。また、ネット販売の場合、更に売上の3~5%の決裁手数料がかかる。なので、純農業生産高は売上の2/3程度で、逆に言うと、5割ほど売上をかさ増ししている可能性が高い。

さて本題に戻り、しかしながら、必要以上に、狭義の経営(規模、売上、利益)で成功を持ち上げることは正しいことなのであろうか?これには、痛烈な反論がある。規模や売上や利益を捉えて成功を称えるならば、それは、成金が自身の成功を自慢しているのと、本質的には何も変わらない、ということだ。何の意味もないことだ。
農業の世界であっても、ビジネス的に成功したということは、時流に乗って商売が上手く行った、というだけのことで、それ以上の何にでもない。顧客や社会のニーズを満たし、その対価を受け取った結果であるのが事実であっても、本当にこの世の多くの人を幸せにできた訳ではないのではないか。この社会に本当に貢献できた訳ではないのではないか。
最大多数の最大幸福という言葉がある。そして、この概念は、時間軸も取り入れると、非常に複雑なものになるが、その視点で考えると、少なくとも、一時の流行りやブームにしかならなかったものが、最大多数の最大幸福を実現したとは、言えないのではないか。ひと時の上手く行った経営が、長年に渡り、人や社会に幸福をもたらすとは、言えないのではないか。

だから自分は、経営での成功は、必要条件ではあっても、真の意味での成功ではないと思う。時代の波に洗われて消えてなくなるものは、真の成功ではないと思う。本当に重要なことは、時代の波に打たれても、なお残り続け、そして人類社会に貢献し続ける仕事の成果であると思う。自分は農業の世界でそのような仕事をして行きたいと思う。やりたいことは沢山ある。出来ることも沢山ある。人類社会に400年残り、貢献し続ける仕事をしよう。