「農家は馬鹿にされている」静岡県知事の発言から一般的に思うこと

先日、静岡県知事が農業を含む職業差別発言をしたことが問題となった。その発言の内容自体は、言語道断、そのような発言をする人が最も頭脳・知性が低いのではないのかと思うのだが、その発言に対する批評はさておき、その発言内容の、農業者を馬鹿にしているような風潮が、社会一般に元々あるのではないかということの方が、むしろ自分としては気になったのである。今回の発言は、その風潮、考えが底流にあり、それが少し現れただけのことではないだろうか。そして、農家は社会から馬鹿にされている、というこの考えは、何も自分が勝手に一人で思っていることではなく、多くの篤農家、特に、本気で人生を懸けて農業をしている篤農家と、共通している認識であると思う。そのような話をこれまで自分はそのような方々としてきたし、そのような話も聞いてきた。そこで今回は、「農家は馬鹿にされている」ということを、この機に改めて考え直し、その悔しい胸の内を明かしていきたいと思う。

農家は馬鹿にされている、と思う局面は数多くある。今回のように表立つところは、一昔よりもう少し前の時代までは、もっとあからさまで、農家は臭い、汚いなど、悪口を言われるようなことも、普通にあったようだ。今の時代、そういうことは大分少なくなってきていると思うが、それでも、表立たないところでは、馬鹿にされている、見下されていると思うところが沢山ある。そして、農家は静かに、深く傷ついている。そのような表立たないところでの、でも深刻な、馬鹿にされていると感じる局面を3つまずあげたい。

1つ目は、農業の関連業界者が、知った口を利いて、農家に接してくるところがある。農業の業界関連者には、行政、研究機関、マスコミ、コンサル、ベンチャー、などが含まれる。彼らが彼らなりに農業について知っていることがあり、同時に農家が知らないことがあるのは否定しない。しかし、同時に、あるいはそれ以上に、彼らが知らず、農家が知っていることの方が、山ほど多くあるのに、農家に対して上から目線で、自分達の方が、さも知っている、さも分かっているような口を利かれるのには、実に馬鹿にされた思いになるのである。更に、”教えてあげている”、”してあげている”、という態度で接されると、より一層、見下されているように感じる。また時に、その口の利き方は、必ずしも傲慢な態度でなされる訳ではなく、”農家のために” という善意をもってされることが多く、これがむしろ厄介で、この ”農家のために” という考え方自体が、農業の実情や農家の本当の思いを理解せず、勝手な思い込みでされていることが多く、これは、少し形を変えた、農家を軽んじ、馬鹿にしているだけのことに過ぎない。特に、ベンチャーやコンサルがよく言う、”農業のために” ”農家のために” というときほど、的外れであることはない。

2つ目は、農業に関する議論が、農家不在で行われている、或いは参加していても重視されていないところがある。農業に関する議論がなされるとき、その多くは農家以外の農業関連業界者でなされることが多いようだ。農家のいないところで、農業の話をして盛り上がるのは、直接的には農家に何の害もないことではあるのだが、それで業界の片隅で勝手に盛り上がった、農業の現場の実際とかけ離れた変な主張や雰囲気を社会に拡散されるのは、良い迷惑で、それはただ単に、農業を馬鹿にしているようにしか見えないのである。また、農業に関する議論に、農家が加わるときもあるようだが、自分がこれまで見聞きしてきた範囲で、農家の意見が尊重されていることは少ないようだ。農業のことを良く知っているのは農家の方であるはずなのに、どういう訳か、農家よりも関連業界者の意見の方が、権威付けられ、有難がられる。これは誠に不思議なことで、日本の歴史の中で長く続いた農家の身分の低さが、無意識のうちに社会全体に継承でもされているのだろうか。そしてその様なことが起こる度に、農家は静かに深く傷ついている。

3つ目は、畑で実際に起こる些細なことであるのだが、農家は何故かよく気軽に声を掛けられる、ということがある。これは、就農当初のブログ記事「農家に声をかけるということ」に書いた通りで、その考えは今も変わらないのであるが、声を掛ける人は悪気はなくても、声を掛けられる農家には、いい迷惑でしかなく、その根底には、農家を軽く見ている意識があるとしか思えないのである。

以上、表立たないところでの「農家は馬鹿にされている」と思う局面3つと農家の本音となる。いずれも、無意識のうちに多くの人が農家に接するときの態度になっているのではないかと思う。だからこそ、普段は意識されないけれど、しかし、社会の根底に厳として存在する、農家に対する認識であると思う。

一方で、「農家は馬鹿にされている」ことに対して、社会一般だけがその責を負う訳ではなく、農家自身も十分に責任の一端があると思う。ここでは3つ理由をあげたい。

1つ目は、何より、農家自身がこの仕事を良く思わず、自らを卑下してきた。経営的な理由に因るところが大きいだろうが、農業の仕事は子供に継がせたくないと農家自身が考え、継がせるにしても、「農業の仕事をするのに、勉強など必要ない。むしろ、勉強などして賢くなったら、この仕事が馬鹿らしくなって出来なくなるから、しない方が良い。」などと、これは少し古い考え方ではあるが、農家自身がそのような考え方をしてきた。これでは、社会からそのような目で見られても、致し方ないだろう。

2つ目は、この点は語られることは少ないのだが、事実として、戦後長らく、農業界は人材流出産業であることはあっても、人材流入産業であることはなかった。最近は、多少の新規参入はあるものの、新規参入組は、現実にはそのほとんどが失敗例で、一部の僅かな成功例が業界全体を牽引するほどの力にはなっていない。いずれにしても、歴史的には、少し目端が利く人、より機会を得ようとする人なら、農業という業界に見切りをつけてきたのが事実であった。それで、農業界が、社会の他産業と比較して、人材競争力のある業界と言えるだろうか。そうではないと思うのである。

3つ目は、農家の習慣や作法は、現代日本のビジネス社会に、馴染み難いところがあり、逆に言うと、農家が社会一般の人を相手に渡り合える、スキル・能力をこれまで十分持ってこなかったと言えるのではないか。農業の世界では、和を尊ぶことが最優先され、論理的な主張の正しさや正しい主張を伝えることは好まれない。それで、農家自身が、そのような力を磨かず、自らの立場や主張を正しく分析し、適切に伝える能力を獲得することに繋がってこなかったのではないだろうか。しかしそれでは、現代のビジネス性の観点からは、議論の相手としては不足となる。前述の、農業の議論が農家抜きでなされるのは、そのような理由もあるのかもしれない。

以上のように、農家の側にも、馬鹿にされるのに十分な理由がある。そして、農家も含めた社会全体が、農家を馬鹿にするような風潮に結果としてなっているのだろう。しかしながら、もちろん、それで良しとされることではなく、農業の仕事は頭脳・知性の低い人がする仕事と卑下することは、決して許されることではないだろう。

実際に、多くの農家の方は、頭も体もフルに使って、頑張って良い仕事をしている。その努力は、生半可なものではなく、社会一般の人がとても想像できないところである。特に、篤農家の方においては、どの産業の、どの素晴らしい仕事にも負けないくらい、とても創造的で、斬新な仕事をしている。ただ残念なことに、それが社会に伝わらず、知られず、また評価もされていないだけのことである。その辺が正しく適切に、社会に伝われば、農業の仕事に対する社会の評価も変わっていくのではないか。農家が過剰評価されることは避けなければならないが、現在のように過少評価されているのは、是正されるべきだろう。本来、農家は社会に対し、対等であるはずだ。今後そのようになることを強く願うばかりである。そして自分自身においては、農家の正当な評価を伝える努力を、今後も続けて行きたいと思う。

ニュースリリース ー (株)ロブストス – 当園 共同開発 定植用穴開け器用ピンを日本農業新聞でご紹介頂きました

農業機械部品の特注製作を行う(株)ロブストス様と、当園が副担当で共同開発した、定植用穴開け器用ピンを、本日付けの日本農業新聞の営農(全国)面でご紹介頂きました。

既製品の穴開け器用ピンは、ネギ苗を植えるための道具として市販されており、先端形状が平らで、マルチ畝にセル苗用などの穴開けとして使用するには、マルチ片が高確率で発生、その回収にかなり手間がかかり、不向きなものでした。
そこで、マルチ片を発生させないことを目指し、(株)ロブストス様が研究・開発、当園が評価を重ね、マルチ片がほぼ発生しないピンの開発に成功しました。そのピンは、先端が尖っているだけでなく、滑らかな曲線を描きながら尖る形状により、マルチ片をほぼ発生させないことを特徴としています。また、その形状により、穴開けの抵抗が少なく、穴開けが軽くなるという省力化の副次効果もあります。
なお、今回開発ピンの形状は、その新規性が認められ、特許庁に意匠権として登録されています。

今回開発の穴開け器用ピンは、農業生産の様々な作物や場面で使用できるもので、その応用範囲は広いものです。ぜひ多くの農業生産現場で、ご使用頂ければと思います。(製品お問い合わせ先:(株)ロブストス https://www.robustus.co.jp/

当園は、日本農業発展の為、今後も、各種農業技術の開発も含めて、力を尽くして参ります。

動画:新規開発 定植用穴開け器用ピン、既製品とのマルチ片発生比較

マルチ片発生数
既製品ピン 3/5
新規開発ピン 0/5

撮影日気象条件
晴天 気温15℃ 南風7m/s
気温低く、風強く、マルチがピンと張っており、既製品でも、マルチ片が発生しにくい条件下ではありました。

 

農家とシェフの類似性、当園の味のスタイルの考察

農家とシェフはとても良く似ていると思う。それは、単に双方とも食べ物を作っているからだけではなく、同じ物を作っても、その仕上がり、味わいが、作る人によって大きな差があるところが、とても良く似ていると思う。そしてその差は、作る人それぞれの作り方、更に言うと、美意識、哲学、までが反映された結果であるというところも、とても良く似ていると思う。そこで今回は、農家とシェフの類似性について考えを纏め、今一度その観点から自身の美意識と生産哲学を省み、当園の味のスタイルまで再考していきたいと思う。

まず、農家とシェフの”類似性”について、表面的なところから深いところまで、3点あげたいと思う。

1つ目の最も表面的な”類似性”は、同じ物を作っても、その仕上がり、味わいが、作る人によって大きな差が出る点が、よく似ていると思う。そしてこれは、次のようにたとえると分かり易いと思う。カレーには、専門店のカレーから食堂のカレーまであり、同じカレーと呼ばれるものであっても、ときに別物と思うほどにまで違うことがある。(なお、食堂のカレーが悪いとか品質が低い、ということを言いたくて、このように言っている訳では無い。食堂のカレーは、自分も大好きだし、よく注文するし、いつも大変お世話になっている。ここでの意図は、同じカレーと言われるものであっても、仕上がりと味が全く違う、と指摘したい点にある。)これと同じことが、農作物についても言える。同じ姿形をして、同じと認識される農産物であっても、食べると全く味が異なることがある。ここは、農家とシェフが似ているところであると思う。

2つ目の”類似性”は、1つ目の”類似性”の仕上がりや味の違いを生む原因にあたる、一段深いところにあたるのだが、同じものを作るのに、作る人によって、作り方に千差万別の違いがある、という点がよく似ていると思う。作り方には、材料と手順の違いがあり、材料については、シェフの食材に対し、農家の種と肥料が相当し、手順については、シェフのレシピに対し、農家の栽培手順が相当する。同じものを作るのに、作る人によって、作り方に1つ1つ細かな違いが存在し、シェフならシェフの数だけ、農家なら農家の数だけ、作り方があると言える。そしてその細かな違いは、当然、最終的な仕上がりや味の違いに反映される。農家が作物を作っているとき、シェフのように、仕上がりや味を作り込んでいるとあまり意識されないかもしれないが、していることは同じであると思う。

最後3つ目の”類似性”は、2つ目の”類似性”の作り方の違いを生む原因にあたる、最も深いところにある、作り方に対するそもそもの考え、哲学がある、という点がよく似ていると思う。どのような仕上がり・味にしたいのか。きれいな見た目なのか、複雑で力強い味わいなのか、とにかく糖度が高いのがいいのか、それとも繊細で優しい味を求めるのか。または、そもそも味や仕上がりを重要視せず、コストを押さえ、気軽に楽しんで欲しい、或いは、全く気にせず、とにかく大量生産・大量流通を目指す、という選択肢もあるかもしれない。まあそこまで言わなくても、仕上がりや味にそれなりに十分な考えや哲学を持って、作物の生産に臨んでいる農家は多いのではないだろうか。そして、これはシェフが考えや哲学を持って、料理に臨んでいることと同じであろう。

以上のように、人によって、表面的な仕上がりと味に違いがあること、作り方に違いがあること、作り方に対する考えや哲学があること、これらが、農家とシェフがとても良く似ているところであると思う。農家がシェフと比べられることはあまりないと思うが、本来は並んで立てるはずと思う。なぜなら、作り方の細かな違いを生むのは創造性の表れであり、シェフの仕事が食に対して創造的な仕事であるとされるならば、農家の仕事も、同様に食に対して創造的な仕事と見なされてもいいはずだ。また、作り方に対する哲学についても、シェフの仕事においてそれが芸術や美と見なされるのであれば、農家の仕事でも同様に、芸術や美と見なされてもいいはずだ。農家の仕事は、シェフの仕事と同じく、十分に、創造的であり、芸術的な仕事である。農家は、自身の仕事が、そのような仕事であるという認識はあまり持っていないと思うが、その意識と誇りを持って、仕事に臨んでも良いと思う。

このように、農家とシェフの類似性、その共通する創造性や芸術性を考えてみた。そこでその観点から、改めて自身の美意識と生産哲学を振り返ってみたい。

結論から言うと、自分が目指している芸術性、美意識は、複雑で力強く、一方で華やかさを兼ね備え、調和のとれた味である。そして、それを実現するための生産哲学は、科学的に論理的に正しい考え方で作物に過不足なく栄養を与え、元気に力強く育て、その味を実現することである。なお、具体的な味を決める要因については、前回ブログ「野菜の味を決めるもの」で記した通りである。

そして、そのような美意識、生産哲学を持っていると気付いたきっかけ、思う理由がいくつかあるので、3つほど紹介したいと思う。

1つ目は、就農してまだ間もない頃、テレビ取材が入った時、お客さんが自分の人柄について質問され、「作っている野菜の味のように力強い人だ」と、答えられたことがある。これは、自分の野菜を買い求めて頂いているお客様に、そう思われているんだなと認識出来たと共に、度々思い出しては、やはりそれが自分の目指しているところ、実現しようとしているところなのだなと、何度も思い直している。

2つ目は、前回ブログでも記した通り、これまでに飲んだ人生で一番美味しいワイン、Chateau Pichon Longueville Comtesse de Lalande 1989 の経験によるものがある。実に複雑で芳醇で、刻々と味と香りが変わり、実に圧倒的で、身体全体が味と香りに包まれるものであった。味自体は、実にしっかりとしたボルドーのPauillacの作りで、力強く奥深いベリーの洗練され調和された味でありながら、一方で、ただ単に固く、極みを求めるのではなく、同時に華やかであり、豊かさがあった。自分が野菜で目指している味は、正にそういう味だ。いや、逆に言うと、自分の味の好みがそうであったから、そのワインが人生で一番美味しいワインであったと思えるのかもしれない。でもおそらくその両方、自分の味の好みとそのワインの経験が、相互に影響を与え、現在の野菜の味に対する美の感覚に影響を与えたのだろう。

3つ目は、味は野菜の成分に由来するものであるのだから、味が複雑で力強くあるためには、その成分が多種にわたり、多量に含まれていないと実現できないだろう、という、ごく自然な推定がある。そして、多種多量の成分が含まれるためには、それだけ成長が良く、過不足のない養分を吸い、たっぷり光合成を行って、十分に栄養を蓄えていなければ実現できないだろう、という、ごく自然な推定の続きもある。逆に、養分が不足したとき、生育が悪いときに、味が薄くなったり、悪くなったりするのは、これまでのブログで記してきた通りである。

以上のきっかけや理由で、自分が目指す仕上がりと味の美意識、生産哲学を説明できると思う。求めている味は、複雑で力強く、一方で華やかで、調和のとれた美しい味である。そしてそれらはそのまま当園の味のスタイルに繋がっており、日々の生産と出荷の中で、実現しようと努力している。

最後に、この美しさは、今後更に磨きをかけ、お客様へご提供して行きたいと思う。そしてそれは、当園の経営理念そのものである。

「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」

野菜の味を決めるもの

野菜の味は何で決まるのか、色々な意見があると思うが、自分もそこに一意見を加えたいと思う。当園の経営理念「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」を掲げているように、作るものの味は、当園において、最も重要視されるべきものであり、日々全ての生産活動における最も根本的な拠りどころ・判断基準となるべきところである。なので、野菜の味を構成するものについて、どのように考え、どのように栽培に繋げているか、説明責任があるように思う。また、その説明の内容は、まるで思い付きのように要素を羅列するのではなく、論理的に体系的に構築された一つの価値基準の体系として、示されるべきと思う。

まず本論に入る前に、自身が味を語る資格について、少し話をしたいと思う。味を語る資格が無ければ、ここでの話は全て無意味なものとなってしまうからである。
その資格の根拠なのであるが、日々現在の仕事において、味を見極め、研鑽を積んでいるからだけではない。この仕事を始めるまでも、ずっと味に対するこだわりを持ち続けてきた。少年期から美味しいものが好きで、自分で試行錯誤をしながら、料理やお菓子作りに励んできた。特にティラミスは得意中の得意で、これまでに作った回数は軽く3桁に上っていて、自分の基準ではあるが、見つければ必ず買い求めてきた他と比べても、人生で一番美味しいティラミスが作れると思っている。また、学生時代にワインの道に足を踏み入れ、買い求めて飲んだ、Chateau Pichon Longueville Comtesse de Lalande 1989 は、今に至るまで、人生で一番美味しいワインであった。口に入れるとまるで液体を飲んでいるのではなく、香りだけを口に含んでいるようで、むしろ全身が香りに覆われているようであった。また、ビロードに触れているかのような滑らかな飲み口、芳醇で複雑に刻々と変わる香りは、圧巻であった。人生5本目に開けたワインがそうであったのだから、よりワインと食への興味が強まったのは、もちろん言う間でもない。そして社会人になってからは、それなりに食べ歩いたと思う。無茶苦茶たくさん行ったというわけではないが、それでも、いわゆる星付きのお店を含めて、色々なお店を訪れ、食の経験を積めたと思う。
そして、それらなどの経験を通して、もし味覚に、絶対音感のように、絶対感覚があるとするならば、自分は絶対味覚を持つことができたのではないかと思う。美味しいものから、そうでないものまで、その時々の状況に左右されず、1つの確かな尺度の上で、正確に味を測ることができているのではないかと思う。

前置きが長くなったが、味について語らせて頂けるとして、自分は、野菜の味を決める要因は、3つの基本要因と2つの付加要因からなると思う。3つの基本要因とは、品種、施肥、生育。2つの付加要因とは、鮮度、旬である。

そしてまた話が逸れるようであるが、それぞれについて詳しく説明する前に、なぜこのような切り分け方をしたのか、の説明が必要に思う。そうしないと、これら5つの要因が、味の決定要因として必要十分を満たしているのか否か、分からないからである。また、それらを体系的に統一させて、味との関連性の説明も必要であろう。

まず、切り分け方の説明になるが、基本要因の3つは、工業の世界で使われる「品質」の概念を、同じように農業に当てはめ、考えられる要因である。工業の世界の「品質」の概念は、モノそのものの”質”を確かに正しく捉えており、農業の世界においても、”質”の根本を捉えるのに、非常に有用である。付加要因の2つは、工業の世界の「品質」の概念を当てはめて考えられない部分、それは農業の世界が工業の世界と異なり、時間に関して品質が変動するからであるが、そこから考えられる要因である。

話を進め、工業の世界で使われる「品質」の概念から考えられる基本要因の3つについて話をしようと思うのだが、まずその前に、工業の世界で「品質」は、「設計品質」と「製造品質」に分かれるとされている。そもそも設計でどの程度の品質を達成しようとしているのかが「設計品質」であり、そしてその設計に対してどこまで製造で実現できるのかが「製造品質」である。自動車業界でたとえて言うと、設計品質は、高級車の設計か大衆車の設計か、の差によって測れる品質であり、製造品質とは、高級車の設計であっても、その設計通りにどこまで作れているか、で測れる品質のことである。そこで、農業における要因を、「設計品質」と「製造品質」それぞれに分けて考えてみたい。
「設計品質」に該当し、考えられる基本要因は、「品種」しかないだろう。生産前から野菜そのものが持ち合わせている資質はそれしかない。なお、品種とは、血筋あるいは血統として言い表されることもできるかもしれない。
「製造品質」に該当し、考えられる基本要因は、「施肥」の内容と状況、「生育」の良さ、この2つでほぼ決まっていると、これまでの経験から感じている。栽培中に品質に影響を与える、天気その他の要因も、もちろん無い訳ではないのだが、先程2つと比べると、それほどの影響があるようには思わないのである。
以上の「品種」「施肥」「生育」の3つが、工業の品質の概念を当てはめて考えられる、野菜の味の品質を決める基本要因であるように思う。そして、これらはあくまでも味という「品質」のベースで、基本であるように思う。

次に、付加要因の2つは、工業の品質の概念を当てはめられない、産業として農業が工業と異なり、時間に関して品質が変動するという部分、から説明される要因であるが、時間の関わり方は、消費者まで渡るのに時間がかかることと、一年のどのタイミングで作っているのか、という2つの時間の関わり方がある。
消費者まで渡るのに時間がかかることは、まさに「鮮度」そのものである。工業製品でも製造後の品質劣化が無い訳ではないだろうが、生鮮品である農作物はクリティカルで、工業の品質の概念だけでカバーしきれていない。そこで、設計品質と製造品質以外に、「流通品質」とでも言うべき品質の概念を、付け足して考えるのが相応しいだろう。但し、注意しなければならないのは、「鮮度」自体は、生産される品質自体を決める要因ではなく、生産終了後からの品質の劣化あるいは保持を規定しているに過ぎない、という点である。だから自分は、「鮮度」は、基本要因ではなく、付加要因であると思う。
一年のどのタイミングで作るのかは、「旬」と言う言葉で言い表されるだろう。基本要因を同じにして作っても、作る時季によって、野菜の味は大分異なる。甘さ、風味、肉質など、ときに別物と思えるほど変わってくる。これは、農業が工業に比べ、品質に影響を与える、気温を中心とした生産条件の季節変動が大きいからであり、これも工業の品質の概念ではカバーしきれていないところである。そして、「旬」についても、自分は、基本要因になるとは考えていない。詳しくは後述するが、基本要因が揃っていれば、旬に関わらず、十分に美味しく、旬については、そこからの変動であるとしか思えないからである。

また長くなったが、論理的に体系的に纏めると、以上の5つが、味を決める要因になると思う。工業の品質の概念を当てはめて導き出される3つの基本要因、「品種」「施肥」「生育」、工業の品質の概念を当てはめられないところから導き出される2つの付加要因、「鮮度」「旬」、である。

そしてここまで話をして、やっとのようであるが、ここからようやく、これら5つの要因について、具体的に詳しく話をしていきたいと思う。

1つ目の「品種」についてであるが、味のほとんどを決めているのは、品種であると思う。果物が品種で味が全然違うように、野菜においても、品種で全然味が違うものである。ここは一般にあまりよく知られていないところである。1つの野菜で、見た目の区別がつきにくくても、数十~数百の品種があり、そしてそれらにはそれぞれ特徴がある。その中で、一般に市場に流通し、スーパーの店頭に並んでいる野菜の品種は、味を特徴とするのではなく、作り易さ、収量の良さ、輸送性の良さ、棚持ちの良さ、姿形の良さ、を特徴とし、味に特徴が無いことがほぼ全てと言って間違いないだろう。味にそんなに差が無いと思われる小松菜でさえも、山ほど品種があり、一般に流通している品種は、市場性は高いものの、味が良くないものがほとんどである。だから、ほとんど笑い話にしかならないが、小松菜を作っている農家が、出荷用には作り易い品種を作って、自家消費用には、味の良い品種をわざわざ作っていたりなんかもする。この話に限らず、逆に言うと、味を特徴とする品種は、本当に美味しく、ただ、作られることは少なく、一般に流通することも少ないのである。これは残念なことであるが、社会的にはそれが正解なのだろう。

2つ目の「施肥」についてであるが、肥料の種類と量によって、味は大きく変わってくる。まず種類について、使う肥料の種類は、野菜に味濃く反映される。化学肥料を使った場合、良く言うとクセが無く、悪く言うと無味無臭の仕上がりになる。一方、有機肥料を使うと、材料それぞれ特有の味が出る。植物系の材料を使った場合、まるで樹液や白ワインを思わせる青々しい香りとやさしい甘みが乗り、動物系の材料を使った場合、味噌や醤油のような出汁を思わせる旨味とコクのある甘味が乗る。また有機肥料は、作物によって、味がとても良くなる相性の良い肥料があり、それは昔からの言い伝えの通りであったりする。味の好みは人それぞれと思うが、自分は、有機肥料を使って作られた野菜の方が断然美味しいと思う。あと、肥料の量についてであるが、多過ぎても少な過ぎても味が悪くなり、適正でないと良い味にならない。多いとエグミ、アクが出易く、よく知られるところでは、肥料を吸い過ぎたほうれん草がそうである。一方、こちらはほとんど知られていないが、肥料が足らないと、味と香りに欠け、特有の渋のようなエグミを感じさせる。このようなエグミを感じる野菜は、自然栽培の野菜に散見される。また、肥料が足らないという点で話をすると、肥料が切れてくると、味が薄くなる。これは自身の栽培においても、夏のトマトやきゅうりなどでは、収穫の最後に肥料を使い切る様にしているので、収穫の最後で出したものは、お客様から甘くなくなったね、とご意見を頂くことも実際にある。そのご意見は有難く頂戴するのであるが、それほどまでに、肥料が適正量効いていることは大事である。肥料の適正量については、以前、「奇跡のリンゴを食べてみた」というブログ記事に詳しく記載したことがあるので、そちらもご参照頂きたい。

3つ目の「生育」についてであるが、理想の生育をした野菜は、やはり味がしっかりとして、瑞々しく、硬くなく、逆に生育の悪いものは、味が薄く、水分に欠け、硬い。生育の悪化は、病気や虫、風や雨などでの傷み、追肥や管理の遅れなど、実に様々な理由で起きる。あと、前項の「施肥」と若干重なるところがあり、施肥量が崩れると、あっという間に生育が乱れ、病気や虫を呼び込み、さらに生育が悪化するという悪循環に落ち込む。やはり、美味しくできるものは、作物全体が見た目にも生き生きとして伸びが良く、丈夫でしっかりと大きく育っている。美味しさは溜め込んだ養分であるのだから、養分をしっかりと作れるような樹や葉を持ち、十分に栄養を作っている、生育が良い、というのは、味の良さには重要なところであろう。

4つ目の「鮮度」についてであるが、野菜の種類にもよるが、鮮度で決定的に味が違う野菜が多い。最も味の劣化が早いところでは、とうもろこし、エンドウ・枝豆などの未熟豆は、収穫してから半日が勝負で、なす・きゅうりなどの果菜類、菜花・ブロッコリー・アスパラガスなどの芽物は、収穫してから一日が勝負である。逆に鮮度があまり重要でない野菜、むしろ時間をおいて追熟させた方が良い野菜などもあるのだが、全体的には鮮度が良い方が良いものが多く、だから朝採りであることが重要な場合が多い。また、新鮮なものほど、水分が多く、瑞々しい食感になるので、美味しく感じられる。鮮度についても、以前、「アロマフルな話 ー 鮮度が重要な野菜、重要でない野菜」というブログ記事に纏めたことがあるので、より詳しくはそちらをご参照頂きたい。

5つ目の「旬」についてであるが、一年の「旬」のピークにある野菜は、特別に美味しいと思う。夏野菜の夏の時季のもの、トマトやきゅうりなどは、甘味も風味もいっぱいだし、冬野菜の冬の時季のもの、大根や人参や法蓮草にしても、甘味が全然違う。しかしながら、先程少し触れたように、基本要因の3つ「品種」「施肥」「生育」を満たした野菜は、旬を外していても、とても美味しいのである。確かに、甘味はそれほどでないかもしれない、風味も落ちるかもしれない。大根なんかは、夏近くなってくると、甘味などほとんど無く、激辛になる。それでも、美味しいものは淡泊なりに、あるいはその辛味の中に、味に美しさがある。味は、甘味や風味だけで、単純に評価できないものであると思う。それ以上の真理や美が存在するものと思う。だから、おそらく世間の大方の評価と違って、「旬」は野菜の味を決める付加的な要因であると思う。

以上、野菜の味を決める5つの要因についての考えになる。そして最後に、各要因が味を決める割合なのだが、6割が「品種」、2割が「施肥」、残り2割が「生育」と考えている。そこに「鮮度」による生産後の品質劣化があり、「旬」による変動がある。これが10数年これまで味にこだわり農業をやってきて得た、そしてその期間の大方変わっていない考えである。これからも、味を何よりも大事に、作物を育てていこう。同時に、味に対する考え方自体を鍛え上げて行こう。そしてまた、美と真理を追い求めて行こう。

地産地消に思うこと

地産地消という言葉は、市民権を得て根付き、かなりの年月が経ったように思う。そして、地産地消は、単に地元で生産されたものを地元で消費するという活動を指すに止まらず、食料安全保障(食料自給率)、食の安心・安全、食育、そして最近は持続可能性・SDGsの考え、その時々の社会的背景や時代の要請も取り込みながら発展し、社会から一定の支持を得ていると思う。
ただ、そのような正しい考え方であると思う地産地消だが、実際の取り組みや主張の内容には、疑問を抱かざるを得ないことが少なからずあり、個人的には無条件で賛同出来ず、きっちりと是々非々の賛否を示して臨むべきことと思っている。
そこで今回は、地産地消の考え方を、まず整理し、次に疑問に思う点を取り上げ、最後にどのように扱われるべきかを論じて行きたいと思う。

まず、そもそも地産地消という考えは、昭和のバブル期と前後して、農産物の大量生産・大量輸送の体制が全国的に構築され、効率的な流通が実現した一方、低い鮮度などのデメリットが顕在化し、そこを埋めるために始まった地域内消費から、自然発生的に生まれた考えではないだろうか。特に地方においては、すぐ隣の畑で作っているものなのに、わざわざ東京の市場に一度持って行かれ、そしてまた地元のスーパーに戻ってきて、消費者が実際に手にするときには鮮度を失い、美味しくも無くなっている。せっかく地元で作っているものなのだから、そのまま地元で買い求め、新鮮で美味しいうちに頂こう、というのが、ごく自然な流れであったのだろう。しかも、この新しいルートは、明確なメリットが消費者と生産者双方に存在する。消費者にとっては、ただ単により新鮮で美味しいものを買い求められるようになっただけではなく、農家が直接出品する農産物は中間流通コストが削減されており、スーパーより安く買えるという更に大きなメリットもあった。一方の生産者にとっても、それまでの市場出しでは、厳しい規格や数量を守っても、安い手取りにしかならないところを、比較的自由に販売出来るにもかかわらず、手取りがそこそこあって有難いものであった。このように、生産者と消費者のニーズがマッチし、経済的な合理性を持ったが故に、平成初めの頃から、道の駅も含めた直売所が、全国的な広がりをみせたのではないだろうか。そして、直売所の広がりと共に、地産地消という考えも広まり、支持されるようになったのではないだろうか。

そして、冒頭で触れたように、地産地消には、前記生産者と消費者のニーズのマッチによる地域内生産消費に止まらず、様々な社会文脈上の意味も付け加えられてきた。食料安全保障(食料自給率)に関しては、日本の低い食料自給率を背景に、地元のものを積極的に消費することが、ひいては国産農産物の消費拡大に繋がるとされた。食の安心・安全については、地元産で顔が見える関係の取引で、食の安心に寄与するものとされた。食育に関しては、食の生産と消費の現場が切り離された現代社会において、地域内での物理的・精神的な距離の近さを活かし、生産現場と食の理解を促進する役割を期待された。そして最近の持続可能性・SDGsに関しては、農業と表裏一体の地域社会の活性化や輸送コストの削減を期待されているようだ。

ただし、これらの意味付けについては、あくまでも後付けの理由であり、前記の経済的合理性から自然に生まれ、広まった考えとは性格を異にするものだろう。考え方自体は、決して100%間違っているとは言えないが、十分に当たっているとも言えないのではないか。地元産農産物を消費することが、外国産農産物の消費を代替することも”あるかもしれない”、地元産のものを食べるほうが、安心で”あるかもしれない”、生産現場が近いことで、食の理解に繋がることも”あるかもしれない”、地域社会の活性化や輸送コストの削減に繋がることも”あるかもしれない”。地産地消がそれらの社会的要請に応えるのに、少なくとも短期的に経済合理性を持つことは無く、あるいは追加のコストを必要とし、しかも、直接的な因果関係では結ばれず、副次的な効果として多少結果として伴うだけのことだろう。

そして、この話の流れのまま、地産地消の考え方について疑問に思うところに議論を移していきたい。ここでは3つほど、考える視点を提供したいと思う。

まず1つめの視点は、地産地消のアピールをするときに、真に消費者にとってのメリットを提供できていないのではないか、ということである。これはどちらかと言うと、生産者含む販売側の問題であるのだが、そこで売っているものは、本当に地元産のものでしか生むことの出来ない価値を持っているものであろうか?他の地域から同程度のものを簡単に調達できるのではないだろうか?そのように思ってしまう場面が多々あるのである。特に最近は、流通網がさらに発達し、遠くの産地からでも地元産のものと変わりない位の鮮度で手に入れられ、むしろより鮮度が高いことさえある。そのような状況で、単に地元産というだけで価値があるとすれば、それは合理性など全くないことで、もしそこに価値を見出すのだとしたら、それはほとんど宗教的な盲信と同じである。百歩譲って、地元産に対して親近感を持つことはできても、本質的に価値が多く備わっている訳では無く、もしその親近感に頼るのだとしたら、それは単なる甘えであろうし、真の顧客価値を無視した、独善的な価値基準でしかない。そして更につけ加えると、もし親近感が高じて郷土愛が来るのだとしたら、郷土愛自体は素晴らしいものではあるが、これはナショナリズムに通じる単なる思考停止でしかないように思う。

次に2つめの視点は、前記1つめと重なるところで、むしろそれをより俯瞰的に捉えた考え方になるのであるが、地産地消というそれ自体が、無条件に肯定され、目的化されていないか、ということである。地産地消の活動自体は、生産と販売のギャップを埋め、これまで届けることができていなかった顧客価値を届けるところに意味がある。だから、地産地消自体は、その様な顧客価値を届けるという目的を達成するための手段でしかなく、決して目的であることはない。しかしながら現実には、地産地消であるだけで称賛され、地産地消活動のゴールを、地産地消それ自体に設定しているようにしか見えないことが多くあるのである。これでは論理の循環であり、手段の目的化に他ならない。手段の目的化は、この人間社会ではよく見られることであるし、これは一種の心理学で言う学習効果でもあるのであろうが、混同すべきではなく、ましてや、盲目的に地産地消を称賛すべきではない。

最後に3つめの視点は、前述2項に比べるとかなり小さい話になってしまうのであるが、持続可能性・SDGsの考え方で言及される、フードマイレージという概念は、とんでもない詭弁であるということである。フードマイレージとは、農産物の移動距離を捉えて、その輸送距離が長いとそれだけ輸送コストがかかり、輸送に伴う燃料消費のCO2がより排出される、という考え方らしいが、農産物1つ1つの輸送距離の絶対値など何の意味もあるはずも無く、正しく重要なのは農産物の”単位あたり”の輸送距離やCO2含む輸送コストであるはずである。そうすると、地域内で小規模で生産消費活動をするよりも、実は遠方で大量生産し大量輸送する方が、”単位あたり”の輸送距離やコストは低いかもしれない。そこをきちんと検証した上で、よりコストの低い方法を選択すれば良いだけのことで、輸送距離の絶対値だけをセンセーショナルに取り上げるフードマイレージは、実にミスリーディングで、論理的に全く正しくない詭弁であると思う。

以上、地産地消の考え方について疑問に思うところに対する3つの視点となる。纏めると、地産地消活動によって、本当に地産地消だからこそ提供できる価値を、提供できているのか、その提供するところを忘れて、地産地消であるだけで良しとしていないか、というところである。

その上で締め括りとして、地産地消がどうあるべきかについて考えてみたい。
これは、地産地消だからこそ提供出来る顧客価値が何であるのか、よく考え、確かに実行することに尽きる。それは他の地域からでは手にいれることの出来ない、新鮮で美味しい農産物であることがまず第一で、その上で、顔が見える安心感、食育機能、地域社会の維持発展への貢献となるだろう。逆に気をつけるべき点として、地産地消それ自体をゴールとしないこと、前述の様々な顧客価値の優先順位を間違えないこと、きちんと顧客価値を実現できているか常に冷静に一歩引いてチェックすること、である。

最後の最後で爆弾発言のようであるが、現在の地産地消活動の多くは、ある一定以上の市民の支持を得られていないと思う。これは、消費者が直感的に、地元産の農産物にそこまで価値を感じられずにいると共に、地産地消活動の正当性に疑問を感じているからではないだろうか。実際、自分が見る限り、地産地消活動の多くは、それが好きな人の内輪のサークル活動、もっと言うと宗教的・布教的活動に止まっているようにしか見えない。しかしながら、上記の地産地消が本来あるべき姿を注意深く捉え直し、正しく顧客価値を提供できる活動になることが出来れば、今後もっと広く市民の支持を集め、より社会の大きな流れとなれるのであろう。

なぜ野菜の高騰は家計を直撃するのか

少し前、野菜の値段は高いものが多かった。そして、野菜の高騰で家計に影響が出るという、マスコミ報道も少なからずあった。直感的には理解できる内容である。一方で、生鮮野菜の家計に占める割合は数%なので、野菜の価格変動は家計に影響しないという記事もあった。そこで思ったのは、野菜の高騰が家計を直撃している/していない、という主張は、そもそも適切で正しいのだろうか。また、その理由を論じた情報を、ほとんど見つけられなかったのだが、野菜の高騰が家計を直撃すると報道されるのは何故だろうか。こちらについても、大胆かつ行動経済学の考え方を用いながら、考察を深めて行きたいと思う。

まず、野菜の高騰が家計を直撃していないという主張の、家計に占める割合の小ささは、根拠として妥当でないだろう。家計の中で削ることのできない固定的な経費、住居、水道光熱、交通通信、教育費など、出費の多くは既に確定しており、それ以外も削るのが難しい、あるいは削りたくない出費を更に差し引けば、野菜の出費は全体の数%しかないと無視できるほどに小さくはない。野菜価格高騰による出費増は、他の出費の調整で吸収できない程ではないだろうが、考えに入れる必要がある程度のインパクトは持つだろう。だから、早速結論を言うと、野菜の高騰は家計を直撃している/していない、の両方とも言えない、が最も正しいのではないだろうか。

だから、直撃している/いない、という事実よりも、直撃していると感じてしまう心理を正しく理解することの方が、野菜の高騰が家計を直撃すると報道される理由の理解に、必要ではないだろうか。そして、行動経済学の考え方を照らし合わせて考えると、そのように感じてしまう心理には十分な理由がある、と思うのである。ここではその理由を3つ挙げたいと思う。

まず1つ目は、野菜の値段には、他の出費に比べて、もともとシビアであるということ。行動経済学の用語の、”メンタル・アカウンティング(心の家計簿)” で、どの勘定、どの使い途になるかによって、そもそもお金の価値の重みが違う、と説明されるように、趣味などの遊興費には、気前良くお金を使えるのに、野菜などの食費は、少しでも節約しようとする。だから、野菜の価格の上昇は、厳しく感じてしまうのであろう。

次に2つ目であるが、野菜は食材の中で最も価格が乱高下しやすい特徴があるにもかかわらず、そもそも人は行動経済学で言う、”損失回避性(同じものを得るよりも、失う方が約2倍大きく感じる)” がある為、野菜価格が上げ下げする中で、高騰時にはより大きな痛みを感じ易いのだろう。
改めて考えてみると、野菜ほど、価格が乱高下する消費財は他に無いのではないだろうか。計画生産が難しい生鮮品の中でも、穀物や畜産物の価格変動はまだ緩やかだし、果物や魚介類は、シーズンや年毎の変動はあっても、野菜のように短期間で2倍も3倍も上がったり下がったりする食材は無い。だから、野菜の価格には反応し易いし、更にその反応が習慣化しているのではないか。
そして、野菜の価格が乱高下する中で、人の損失回避性の性格によって、価格上がったときに痛みを強く感じ、家計を直撃する感覚に繋がるのだろう。

最後に3つ目であるが、野菜はとにかく目に付く食材であり、野菜の価格の上昇が、あたかも家計にまで影響を及ぼすような、大きなウェイトを出費の中で占めているかのような感覚に至るのであろう。行動経済学で言う、”代表性ヒューリスティック(一部の情報を基に、全体を代表するものとして、簡易に判断する方法)” とは正確には違うが、目立つものが実際より大きな影響を持つものとして捉えられるところは共通しており、野菜はそのように捉えられるのだろう。
そしてまた改めて考えると、野菜は、スーパーで売られている商品の中心を成す重要なアイテムであり、店頭、或いは、店に入って直ぐの場所で、お店の顔となり、売り場に彩りを加え、また集客の為に、並べられているものである。そして実際、店にとっては、野菜は売上の主要な部分を占めており、一方の客にとっては、それを求めて来店する。野菜の小売の売り場での地位は十分に高く、消費者心理に大きな影響を及ぼすだけのことはある。

以上、野菜の高騰が家計を直撃していると感じてしまう、尤もな理由3つとなる。人は、従来の経済学が想定する合理的経済人(瞬時にあらゆる必要な情報を集め、分析し、最適解を導き出せて、しかもその時間と労力のコストはゼロのように低い)とは程遠く、行動経済学が想定する限定合理的経済人(合理的経済人の反対で、しかも、お金や時間、労力の価値自体もその時々で変化する)であるのが現実である。いやむしろ、”限定合理的”などと、まるで否定的な表現をされるのは不適切で、所与の諸制約や諸環境下で、お金や労力や時間など全てのコストやその時々の価値の変化をひっくるめて、合理的に判断しようとするのが現実の人間ではないだろうか。このように人を合理的主体として捉えると、野菜の高騰が家計を直撃していると感じてしまうだろうことは不思議ではないのである。そしてその様に、マスコミの報道では伝えられるのだろう。

マスコミの報道が必要以上に、事実を煽るのはもちろん良くないことである。しかしながら、これも人間社会の1つの側面、1つの真実であり、そこを冷静に捉えて、自らの購買行動の参考にすれば良いのではないか。そして、値段が下がった局面では、おそらく年末にかけて野菜の価格はかなり下がると予想しているが、その利得は損失に比べ感じ難いものであっても、ぜひそのお買い得感を最大限に感じて頂き、より多くの野菜をお求め頂ければと思う。

 

「現場感覚」定義の”現場感覚”

”現場感覚”という言葉は、この農業業界において、非常に乱用されているように思う。これはきっとこの農業業界は、現場と現場以外の距離が遠く、それに伴う弊害が大きく、”現場感覚”の多少によって、その弊害の解決能力の高さを示せる業界と思われているからなのであろう。だから、この言葉を使うのは専ら、農家以外の業界関係者であって(そもそも農家は現場そのものであるので、使う必要が無い)、そのような人達が、”現場を知っています”や”現場感覚があります” などと言うのを、よく耳にするのである。しかしながら、はっきり言うと、”現場感覚”を主張されるときほど、疑わしく思うときは無い。そしてこれは、決して自分一人の勝手な考えではなく、多くの農家が示す、ごく自然な反応であるとも思う。
今回は、疑わしく思う理由3つをまず考え、最終的に、真の「現場感覚」で定義される”現場感覚”がいかなるものか、を考察してみたい。

まず、疑わしく思う理由の1つ目は、現場の農家の人生観・仕事観や意識に関するところであるが、現場と現場以外で埋め難い大きなギャップがあるからと思う。そのギャップについては、これまでこのブログで書き綴ってきた様々なことが該当するのであるが、自分の生活、命を繋ぐため、厳しい自然に翻弄されながらも、必死に闘い、そこで収穫物、収入を何とか得ている、という思いが、主なところであろう。完全成果主義でその上、運が悪ければ、生きていけなくなるかもしれない。このプレッシャーに耐えるには、自身の経験と照らし合わしても、勤め仕事時代の10倍の強い精神力が必要で、人生観、仕事観、世界観が大きく変るものであった。この意識の差は、現場経験の有無によって、大きな差が生まれるところではないか。

疑わしく思う理由の2つ目は、農家の現場仕事上のオペレーションや技術に関するところであるが、農家が仕事をする際に見ている世界は、普通の人が見る世界と大きく異なっている、というところにある。これは農家の目線は普通の人と違うとも言えるし、普通の人が見ていない、見えていない部分が、農家には見えている、ということでもある。これも、これまでこのブログで書いてきたことであるが、農業の現場は実に複雑系で、変動要因・攪乱要因が山の様にあり、これを把握し理解することは実に困難なことである。農家は、ここを経験と勘を活用しながら、その大半を認知し、カバーしている。それでも、農家でさえ想定しないことが次々と起きるのが、農業の現場である。実際に日々困難に直面し、格闘していない人が、そんな簡単に経験していない複雑系、予測不可能な農業の現場を理解できるのだろうか。全くそうは思わないのである。

疑わしく思う理由の3つ目は、上記1つ目と2つ目を踏まえ、農家が到達する、考え方、心の持ちようがあることである。それは、1つ目の、厳しい自然環境、農業の仕事を経て、自身の存在を大きな自然環境の中のほんの一部として位置付け、理解する、謙虚な姿勢。「農業の仕事の成果は、努力半分、運半分」、「自分の運命も草や虫と同じ」、など。2つ目の、複雑系の困難な仕事を目の前にして、自身が未だ未熟であることを知る「無知の知」の悟り。「毎年が一年生」、「農業は一生勉強」、など。これら2つは、多くの篤農家に共通する、実に謙遜して奥ゆかしい態度である。農業を極めようとする農家達が謙虚になるのに、なぜ現場以外の人に、知った口を利かれなければならないのだろうか。もちろん、知っている部分もあるだろう。それを否定することはない。しかしながら、知った上でそれでも知らないとするのが、本来取るべき態度ではないだろうか。

以上が、現場外の人から”現場感覚”という言葉を使われた時に疑わしく思う理由である。いずれにしても、現場の農家の考えや精神に強く反するところであると思う。

では、それらを踏まえて、本当に現場の人間である農家が考える、真の「現場感覚」による”現場感覚”は、どのようなものになるのであろうか。簡単に言えば、上記の疑う理由の裏返しがそのまま当てはまるのであろう。農家の人生観、仕事観の理解に努め、農家の目線を理解するよう努め、謙虚でいることである。

しかし、改めて考えると、実はこれらの感覚は、別に農業に限らず、一次産業ではもちろん共通する感覚で、更に言うと、社会一般のあらゆる現場、生産現場や販売現場など、を理解する際に求められる感覚と同じではないだろうか。

それは端的に言うと、勝手な思い込みの色眼鏡で見ず、現場の目線で、出来事や考えを理解し、ありのままに理解する、ということである。そして、これは非常に簡単なことのように聞こえて、ほとんどの人が出来ない、最も難しいことでもある。立場が違うと、考え方や価値基準が異なってくるにもかかわらず、自身の基準で現場をどうしても判断してしまうからである。”人は、自らが見たいと欲する現実しか、見ようとはしない。” 農業の現場では特に、上記のように立場や考えに大きな差があるので、より難しいのではないだろうか。

現場の理解という意味で、販売現場の話ではあるが、とても参考になる話があるので、取り上げたいと思う。それは、セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問の鈴木敏文氏が言われる、”お客様のために考えるのではなく、お客様の立場で考えろ” ※1、という考え方である。鈴木氏は、またこのようにも言う。”「お客様のために」と言いつつ、無意識のうちにも、売り手やつくり手の都合を押しつけていることが多い” ※2。”「お客様のために」では、お客様が何を感じているのかはわからない。「お客様の立場」というのは、「お客様がどう感じるか」を考えるということです。” ※1。

この現場理解の考え方は、農業の現場の理解にそのまま当てはめられるのではないか。農家のために考えるのではなく、農家の立場、目線に立って、農家がどう感じているか、考える。農家の喜びと怒り、哀しみと楽しみを、同じ目線で感じる。特に普通の農家は、表立って自分の考えを、意見が対立する場合は尚更、言わないものである。そのような状況で、農家の声なき声を聞き、この心奥深くの思いを知ることができているのであろうか。そこを知り、考えられることが、真の現場感覚ではないだろうか。

そして、前述の様に、現場の農家は、現場外の人との考え方、価値観に大きな差があることを十分認識し、理解する努力を常に怠らず、常に謙虚であること。これが、本当に現場の人間の農家が考える、真の「現場感覚」による”現場感覚”であると思う。

最後に余談ながら、この現場感覚を良く理解している/理解していない業界関係者が、どのような人達か、について触れたいと思う。
意外に思われるかもしれないが、一番理解しているのは、農業に関わる行政機関の人達に多い。市、県、国の各レベルにおいてもいずれも、もちろん現場に近ければ近いほど、良く理解していると感じる。あと、行政機関ではないが、農協も同様である。これは、農家の現実を現場で、日々見て、話しているからであろう。そして、おそらく最も重要なことは、これらの人々は、農家の上に立つ立場でありながら、実は現代的に言うと、農家に行政サービスを提供している、農家をお客様のように扱ってくれる人達であり、だから、その距離感を農家もよく分かっていて、農家は本音を、不平不満を、結構遠慮無しにぶつけることが多い。時には、突き上げるようなことさえある。だから、行政機関の人達は、ある意味、身を持って農家の現実や考え方を理解しており、故に、現場感覚をよくお持ちなのであろう。
逆に、最も理解していないと思われるのは、農家が”先生”と呼ぶ人達の多くと、ベンチャーの人達である。先述のように、農家は表立って、自分の考えを、特に悪口は言わないものである。だから、表では”先生”の話を大変有難く聞き、裏では「何言ってんだ」「じゃあ自分でやってみろ」と話している。でもこの農家の考えは、その通りであると思う。そして、ベンチャーの人達については、開発系から流通系まですべからく該当する。事業を行うのに持っている強い思いで目が曇り、現実を見れないからであろう。

最後は変な話になったが、本当に現場の人間の農家が考える、真の「現場感覚」による”現場感覚”への理解が広がることを強く願う。そして、現場と現場以外のギャップが少しでも埋められ、この業界の弊害が少しでも解消されれば、と思う。

参考資料
※1 ”なぜセブンは最強コンビニなのか…それは「お客のため」ではなく「お客の立場」で考えているからだ” 「小売の神様」鈴木敏文の経営哲学 President Online
https://president.jp/articles/-/54005
※2 ”間違いの第一歩は「これは売れる」の思い込み” 鈴木敏文「顧客本位の経営」(3)  President Online https://president.jp/articles/-/31394

 

ニュースリリース ー 自然食品F&F アコルデ代々木上原店様で当園の野菜の販売が始まりました

2023年4月末より、自然食品F&F アコルデ代々木上原店様にて、当園の野菜の取り扱いを始めて頂きました。今後、毎週木曜日15時頃より、店頭に並びます。

販売される野菜は、他のF&F様店舗での販売同様、追熟・乾燥が必要なものを除き、当日に収穫を行います。F&F様と当園の強い協力関係により、野菜は畑から直送し、収穫終了後約1時間で店舗で販売開始します。農家でなければ手に入らないほどの最高鮮度の野菜をご提供し、野菜の真の採り立ての味と感動をご提供して参ります。

当園は、今後も当園の基本理念「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」実現のため、日々努力を重ねて参ります。

ニュースリリース ー ポッドキャスト「森田さんのバナナ予報」に出演しました

当園が栽培し、昨年ニュースとなった露地バナナをきっかけとして、気象予報士の森田正光さんが、ポッドキャスト「森田さんのバナナ予報」の取材にお越しになられました。その時の会話の様子が、ポッドキャスト「森田さんのバナナ予報」で配信されていますので、ぜひお聴き下さい。

森田さんのバナナ予報
https://nr9.jp/podcasts/program877.html
#12:バナナ訪問~横浜でバナナ!古川原農園に直撃!~
#13:バナナ訪問~脱サラして0からスタートした「古川原農園」!~

島バナナ協会活動レポート
https://shimabanana.jp/report/entry-694.html
「古川原農園 古川原 琢さんにバナナ栽培についてお話しいただきました 2023/1/21」

当園は、今後もバナナ栽培等を通じて、農業の更なる可能性に挑戦し、その地平を切り拓いて参ります。

ニュースリリース ー 自然食品F&F 広尾店、麻布十番店様で当園の野菜の販売が始まりました

今月17日より、自然食品F&F 広尾店、麻布十番店様にて、当園の野菜の取り扱いを始めて頂きました。今後、毎週金曜日15時頃より、店頭に並びます。

販売される野菜は、他のF&F様店舗での販売同様、追熟・乾燥が必要なものを除き、当日に収穫を行います。F&F様と当園の強い協力関係により、野菜は畑から直送し、収穫終了後約1時間で店舗で販売開始します。都内の中心地は、朝採り野菜を手に入れることが大変難しい場所ではありますが、それを越えて、農家でなければ手に入らないほどの最高鮮度の野菜をご提供し、野菜の真の採り立ての味と感動をご提供して参ります。

当園は、今後も当園の基本理念「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」実現のため、今回のF&F広尾店、麻布十番店様での販売開始、並びに、他店での販売において、本当に美味しい野菜のご提供に、日々努力を重ねて参ります。