ニュースリリース ー 浜銀総合研究所 機関誌に当園がエッセイを寄稿しました

横浜銀行グループのシンクタンク、浜銀総合研究所の発行する機関誌 Best Partner(ベストパートナー)2023年1月号に、当園がエッセイを寄稿しました。
https://www.yokohama-ri.co.jp/html/publication/bestpartner/index.html

【Kanagawa Style】農業の可能性は無限大
古川原 琢 JTFファーム株式会社(古川原農園) 代表取締役

当園の様々な取り組みをご紹介すると共に、それらを通じた農業の限りない可能性について言及しております。
一般向けではありませんが、ご覧可能な方は、ぜひご覧頂ければと思います。

ニュースリリース ー 当園の横浜産露地バナナ収穫が日本農業新聞で取り上げられました

本日11月25付けの日本農業新聞 首都圏版で、当園の横浜産露地バナナの収穫について、大きく取り上げて頂きました。
「横浜市でバナナたわわ コストかけず露地栽培」
https://www.agrinews.co.jp/rural/index/119563

今年のバナナは、保温と施肥の工夫で出来が良く、去年の初収穫のものにに比べ、身の入りが良い状態でした。また、このバナナの品種が特徴の、バニラの様な香りと甘さがしっかり現れていました。

横浜で露地バナナを栽培させることは、現在大変珍しいことではありますが、営利で露地バナナの栽培が可能であることを示すことができたことは、農業業界において、大変意義のあることと思います。また、このような取り組みをきっかけに、地域の農業がより広く知られ、地域農業の振興に繋がることを願って已みません。

当園は、今後も農業の更なる可能性を追求し、その地平を切り開いて参ります。

追熟完了後のバナナ

ニュースリリース ー 当園がテレビ東京「種から植えるTV」で取り上げられました

当園が、テレビ東京のファームバラエティ番組「種から植えるTV」 2022年11月27日の放送で取り上げられました。
https://www.tv-tokyo.co.jp/taneue/

テーマは、ジャンボ落花生の収穫と、これまで当園が開発してきた除草ドローンについてでした。撮影当日の除草ドローンは、電波の受信状況が悪く、安定した運転になりませんでしたが、その有効性について、十分示すことができたのではないかと思います。

当園は、今後も除草ドローンの開発を続けると共に、製品化と普及を目指し、日本の農業発展のため、力を尽くして参ります。

2021年12月頃の除草ドローンの実験の様子:

完全自動運転で除草。40m畝の間を1往復半。3分頃と6分半頃に自動転回。

農業でPDCAを説く愚

農業でPDCAは意味が無い、と言うのではない。十分意味はあるけれども、工業の世界ほど万能では無い、と言いたいのである。おそらく、この事実は、過去、指摘されたことはほぼ無いのではないだろうか。しかしながら、農業界においても、「PDCA」や「カイゼン」や「トヨタ式」が、声高に叫ばれることがある今、実はそれらがそれほど意味がある訳ではない、と正しく理解されることは極めて重要であると思う。更に言うと、この事実は、農家なら無意識のうちに普通に理解していることにもかかわらず、一方の農家以外の業界関係者は全く知りもしないという、天と地ほどのギャップがあるという事実も、この事実が正しく理解される重要性を、より増しているように思う。

本題に入る前に、まず「PDCA」や「カイゼン」や「トヨタ式」を自分が語る資格についてご説明したいと思う。単なる一農家が、俄か仕立ての中途半端な、インテリ層によくありがちな頭でっかちな知識で、語る訳ではないからである。自分の場合、これらを学び、習得する2つの大きなステップがあった。
1つ目は、学生時代、他学部聴講で受けた経済学部の授業、トヨタ式の研究で高名な藤本隆宏教授の「生産マネジメント入門」の本を基にした、教授の授業を受け、学んだところにある。この授業は、自分がメーカーの素晴らしさに気付き、メーカーに就職することになった大きなきっかけとなった授業でもあるのだが、その授業では、日本のものづくりの強さ、トヨタ式の凄さ、それらを人生哲学にまで昇華させるほどの知の体系として、学ぶことができた。よく本屋のビジネス書の棚に並んでいる、「PDCA」や「カイゼン」や「トヨタ式」に言及した、非常に表面的で薄っぺらいハウツー本とは全く次元が異なる、実に学問的によく検証され体系的に纏められ、その上で組織文化や経営までを論理の体系に組み込んだ、総合的で圧倒的な知、思想、哲学であった。その知に触れることができたのは非常に幸いなことで、自分の中で非常に深く強く揺り動かされるものがあった。
2つ目は、そうして就職したメーカーで営業・マーケティングの仕事に就いたのではあるが、最初の数年で工場の生産管理の仕事を行い、そこで、工場の大幅な改革に成功したところにある。自分が最初に仕事を引き継いだ時は、現場の長でさえもどこで何を作っているのか全く分からず、計画通りの生産、生産量が全く満たされず、不良を山の様に出す工場で、まさに混迷の最中にあった。そこで、先述の授業を学んだことを基に、特別なことは何もせず、ただ当たり前のことを当たり前のように行い、その背景にある、思想と哲学を切々と説いていった。これらは、特に誰からの支援を受けることなく自分単独で、いや、正直、トヨタほどの会社でなければ、その重要性を理解できる人はいないであろうが、実行し、成果を上げることができた。そして、自分が担当を離れる時には、計画通りの生産を行い、生産量を出し、不良品は僅かで、しかも技術開発まで出来る現場に変わっていた。その過程で、現場の荒れていた人心は前向きになり、希望が持てる職場に変わっていたことは言うまでもない。そのように、学んだことをただ愚直に実行し、大きな成果を上げることができたのは、本当に貴重な経験であった。自分の中で生産管理に自信が持てるようになり、そして会社員時代の最も印象に残る仕事となった。

それで本題のPDCAが農業でなかなか適用できない理由なのであるが、一言で言うと、とても単純なことで、自然相手にする農業では、外乱・攪乱要因が非常に大きく、また変動要素は山のようにあり、工業と同じように一定の生産条件を整えることが出来ない、というのが理由である。条件とは、その年の気候、過去一か月、一週間、前日、当日の天気、その時の日射、気温、風向、風速、土の湿り気具合、作物の生育状態、などなど、挙げれば恐らく切りがなく、そして、同じ作業が、それらほんの少しの条件の違いによって、かかる時間が何倍も変わったり、精度が著しく落ちたりする。カイゼンの視点で言えば、「標準なくしてカイゼンなし」なのであるが、そもそもその”標準”を作ることが出来ないのが、農業の特色なのである。ここを勘違いしてはならない。この点は、篤農家ほど良く分かっており、篤農家ほど良く言う、「毎年が一年生である。」と言う言葉に端的に表されている。毎年が異なる条件下で、毎年が初めての状況で仕事を行うからである。そして実際、そこで育った作物の姿形は毎年異なっており、素人目には全く区別がつかないところなのであるが、玄人の目には、結構大きく違うのである。

そして、そのような条件の中で、農家は状況に応じて柔軟に仕事をしている。そこでより重要になり、頼りになってくるのは、実は「経験と勘」である。PDCAのマインドは大事だし、否定するところではないのであるが、PDCAを厳格に適用できない以上、それと同等或いはそれ以上に大切になってくるのが「経験と勘」である。ここに、農業における経験と勘の重要性があり、PDCAの限界がある。
また更に言うと、PDCAにしろ、経験と勘にしろ、農家の仕事は年に一回しか出来ない仕事が多く、何十年のベテラン農家でも、実は数十回の経験しかしたことがない、という特殊な業界の事情がある。工場での仕事のように日に何百回、何千回繰り返しする仕事ではないので、フィードバックが遅く、少なく、習熟に時間がかかる。だからこそ、PDCAでも、経験と勘でも、どちらでも良いのではあるが、それら両方を踏まえた総合的な判断力、これが農業において、最も重要なものになってくるのだろう。

ここまで、生産条件についての話をしていたが、そのような最終的な結果として、収穫がまた大きく変動してくるところも、農業の難しいところである。ほんの一雨、ほんの一風で、作物が全滅することなど、普通にあることだ。予想もしなかった、ほんのちょっとした条件の違いによって、収穫が大きく変わってくる。環境制御が全く出来ない露地作の場合は、特にそうである。だから、PDCAの実行という観点からすると、とてもではないが、手間暇コストをかけて、それに見合うのかと言われると、あまり当てはまらない側面がある。生産条件のみならず、最終的な結果の収穫も大きく変動する、という意味でも、PDCAは、実に農業では扱いにくく、万能な道具では無いのである。

最後に、冒頭で触れた、農家と業界関係者の理解のギャップについて話をしたい。
まず、ギャップがどのような現状かを説明すると、農家は、上記の理由如何に関わらず、工業的な改善方法や手法に全く無知で無頓着である、という面は確かにあるが、同時に、そのような方法や手法で上手く行くものでもない、ということを、理解せずとも分かっている。一方、業界関係者は声高に、「PDCA」はじめ、「カイゼン」やら「トヨタ式」やらを叫び、一気に農業の現状を打破する、素晴らしい御告げを啓示したような雰囲気を、業界の一部でよく作る。ただ現実には、それほど意味や効果がある訳ではないので、結局は単なる空騒ぎで、いつの間にか有耶無耶になって、そのような話は消えて行く。この様な話は、この業界で常に繰り返し起きていて、過去その手の話が上手く行ったことがないのを農家は経験的によく知っているので、表面的には有難く聞いて、裏では冷ややかに聞いている。これが農家と業界関係者のギャップの現状である。何という認知、理解のギャップなのであろう。

このギャップは非常に埋め難いものがある。農業の仕事で、ちょっとした違いで、いつもの何倍もの時間がかかり、或いは、何度もやり直す羽目になる苦労をした経験がない、業界関係者には、この農家の本当の思いは分からないことだろう。その中で、上から目線の、自分は何か知っているとか、教えてあげるなどのような態度は、農家の神経を逆撫ですることに他ならない。業界関係者は、どこまで行っても、農家に並ぶことは出来ない存在であり、そのことを正しく理解し、農家に敬意を払い、農家の目線・本当の思いに寄り添っていくべきだろう。
一方、農家の側も、もっと学問的で体系的な知識や思考を備えることが求められているとも言える。学問や知識は、勿論そのまま現場で使えるものではないのではあるが、それが基礎となり、足腰となり、自分の仕事を高めてくれる手段になるからである。農家が自らの経験や勘に、普遍性を持った知識を取り入れた時、今はまさにそれが求められている時代であると思うが、農家はこれまでの姿を一回り上回り、次世代を切り拓いて行ける農家となれるのだろう。

農家はもっと減っていいのか

農家はもっと減っていい、と言い切ってしまっていいのだろうか。自分はそんな単純な話ではないと思うのである。
確かに、農業の産業的な側面から言えば、間違いないだろう。農業が経営として成立し、産業として競争力を持つには、集約化が進み、強い少数の経営体が残る方が良いのだろう。また、自分もこれまでその様な旨の投稿をいくつも書いてきてた。しかし、農業の社会的な側面、農業は地域コミュニティと一体不可分であり、また、地域コミュニティの上に日本の農業が成立していることを鑑みれば、農家が減ることは、マイナスでしかない。また、地域コミュニティ、つまり農家がこれまで担ってきた、神社、お寺、お祭りなど地域の様々な活動が滞り、日本の伝統的な良さ、美しさが失われることに繋がることでしかない。本当にそれでいいのだろうか。今回は、そのような話をして、改めて日本の農業の将来を考えてみたい。ここでは3つの視点から主に考えてみよう。

まず視点の1つ目は、そもそも農業は、周りの他の多くの農家に支えられて、はじめて成立している、ということである。自分自身においても、自身が農業を営む横浜の土地は、都市農業で、小規模零細、縮小傾向の土地柄であり、繋がりの強さは、地方や産地、稲作地帯と比べるとかなり弱いと思うが、それでもお互い支え合って農業をしているという感覚を強く持つしかないのである。

些細なことのようであるが、日々の仕事の中で、「ちょっと手伝って」「ちょっと教えて」「ちょっと助けて」など、お互い助け合いながら仕事をしている。そして、農作業の合間合間に立ち寄ったり、話をしたり、その中にヒントになることが沢山含まれており、自身の経営のプラスに繋がっている。
また、それに止まらず、土地の貸し借りや人の紹介、行政手続きの円滑化など、周りの人々のサポートがあって、仕事を次の展開に繋げることができるのである。

あと、普段は意識しないところではあるが、自分が農業をしやすい環境があるのは、周りで他の人が農業をしているからである。直接的には、畑の隣は畑であるのが、一番農業をし易い環境であって、これが荒地や山林、住宅などであっては、そうはいかない。まさか、一帯の畑を全て独占して自分が管理するようなことは、現実には有り得ないので、隣の畑、近隣の畑を管理する人がいてはじめて、自分も畑をしやすくなるのである。また、間接的には、地域で起きる様々な農業上の問題や課題に、近隣の農家と一丸となって取り組むことで、農業の環境を維持し、守ることができる。農業は、外部効果が非常に高いのが、産業としての特性であるが、意識しないレベルにおいてさえも、お互いに支え合って行っているのが実際である。

次に視点の2つ目であるが、地域コミュニティは、農家社会とほぼ重なるところで、地域の様々な活動や共同作業は、農家が中心になって支えている、ということである。活動には、集落の神社、お寺、お墓、お祭り、町内会、などがあり、共同作業には、農道や用水の維持管理作業などがある。

神社やお寺、お祭りには、現代日本人にも通じる日本の心の原点でもある、森羅万象への敬い、畏れ、そして祈りがよく表れており、実に美しく、心動かされるものがある。そして、農道や用水の維持管理作業では、各自の受益の大小にかかわらず皆で行い、共有財産を共同行動で支えるという、素晴らしい農村の伝統、コミュニティの良さがあり、これが日本社会の行動規範の原点なのだろうと感心する。

これらの活動や共同作業は、とにかく手がかかるので、多数の小規模農家がいて、はじめて支えられる。だから、2割の農業生産額しか占めないからと、8割の大多数の小規模農家を切り捨てることは、これらの活動や共同作業を切り捨て、そして、そこにある日本の心や日本社会の原点を切り捨てることに他ならない。それは本当に良いことなのであろうか。少なくとも、地域で農業を行い、地域の一員となった自分は今、それらに残って欲しいと、そしてその価値があると思っている。

最後に視点の3つ目であるが、現状で競争力を持たないと思われる零細多数の農家は、時間軸を取り入れたより広い視点から見ると、将来も同様に競争力を持たないとは限らない、ということである。言い換えると、現状を静的に理解するのではなく、時間によって変動していくと動的に理解すると、結果が違ってくる可能性がある、ということである。そしてそこで重要な要因となるものが、技術発展である。小さい農業でも効率を高め、競争力を強化できる技術発展はある。それは自分が発明したカニフォーク植えや草取りロボットなども該当する。また、歴史的に言うと、高度成長期に普及した田植え機やコンバインなども該当する。これらは、機械化貧乏の原因になったとか、零細多数の農家を残す要因となった、と直ぐに批判されるのであるが、これらは、当時の社会的背景と重なって、小規模でも農業が成立することを可能にした技術革新ではないのか。そして同様の技術発展の余地が、現在の小規模農業に多いに残されているように感じられるのは、自分の思い過ぎではないと思うが、どうだろうか。

少し話は逸れるのではあるが、田植え機やコンバインは、小規模農家を生き残らせ、農村コミュニティを維持する力になったと捉えられると思うのだが、そのような積極的な評価はできないものなのだろうか。何でもかんでもすぐ批判の姿勢で、問題としか捉えることができない日本の風潮は本当にいかがなものかと思う。そして、論理的に正しくは、全て問題と思われるものは、問題である以前に過去の結果であり、更に言うと、過去の合理的選択の上に生まれた結果である、という事実を正しく認識すべきである。問題とすぐ捉えてしまうのは、ただ単に、自らの願望によって認識を捻じ曲げているだけに過ぎない。

以上、2つの農業の社会的な側面と1つの技術発展による状況変化の観点から、農家が減ることが良いと、簡単に言うことができないことを論じてきた。少し前のブログでも書いたが、農業は、産業的な側面と社会的な側面があり、それら全てを見ることが必要である。そしてその結果は、なかなか割り切れない結果となるかもしれない。だからこそ、農業には特有の難しさがあるのだろう。

生産管理のMBAの教科書にも書かれている有名な言葉がある。
「強くなくては生きてはいけない、優しくなければ生きている意味が無い。」
(If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive. 蛇足だが、最後を”生きている資格がない”と訳すのは、実にセンスが無いと思う。)
その本から引用すると、”企業にとっての利害関係者には…従業員、サプライヤー、地域社会なども含まれる。彼らも含めて全体をバランスよく満足させられなければ…競争力自体の低下を招くおそれがある。” これは、企業に限らず、強い少数の農業経営体についても、同様に言えることだ。強い少数の農業経営体も、地域コミュニティを大事にし、その上に成り立っていることを正しく認識すべきだろう。

ここまでの思考の枠組みを得て、最後に、少し日本の農業の将来について考えてみよう。残念ながら、農家が今後より一層減る傾向は変わらないだろう。それが経済的に理にかなっているからである。そして、集約が進み、少数の強い農業経営体の存在感が大きくなることは間違いないだろう。そして、それと共に、地域コミュニティ、農村社会は弱体化し、日本の心や農村の伝統を伝える催しなども消えていくのだろう。とても寂しい限りである。たとえ、時代が変われば、伝統も文化も変わるものであるとしても。そして、地域の共有財産である農道や用水を共同作業で維持管理する手が足らなくなったとき、残された少数の強い農業経営体は、どのような行動に出るのであろうか?

でも一方で、少し楽観視もしている。2022年の生産緑地問題で、当初の予想を裏切り、農地が意外と残ったように、農業や農家がまだしぶとく残っていく可能性も十分にある。生源寺先生が言われることに全くの同感であるのだが、”数集落に少なくとも一戸の専業農家、その周囲には安定兼業や定年帰農の農家、さらに野菜程度は自分で作る元農家。これが現実的で持続性のある農村のかたちだと思う。”

参考図書:
生源寺眞一「農業と農政の視野」農林統計出版、2010年
生源寺眞一「日本農業の真実」ちくま新書、2011年
藤本隆宏「生産マネジメント入門」日本経済新聞社、2001年

ニュースリリース ー 当園のホップ栽培と横浜ビール様との取り組みが、TV等で取り上げられました

当園が7年前から栽培を始め、6年前より横浜ビール様で使用頂いているホップについて、その取り組みをテレビなどで取り上げて頂きました。

NHK BS プレミアム「ニッポンぶらり鉄道旅」9月7日本放送
「一生の仕事を探して 横浜市営地下鉄ブルーライン」
 ・・ホップ収穫~ホップ手揉み~ビールの釜に投入するまでを放映頂きました。
https://www.nhk.jp/p/buratetsu/ts/Z6WKLNWR93/episode/te/XZW1VG643L/

FM yokohama 「KIRIN PARKCITY YOKOHAMA」youtube公開動画
「KIRIN ビール講座 第4回目 ビールに欠かせない原料のホップについて」
https://youtu.be/-W2O0H5vbS8

日本農業新聞 8月13日 神奈川版トップニュース
 「ホップ収穫から農の魅力を発信」

タウンニュース港北区版 8月25日
「農業の魅力、広く伝える 1年越し ホップ栽培見学ツアー」
https://www.townnews.co.jp/0103/2022/08/25/638991.html

ホップ栽培を始めた時から目指していることですが、出来上がったビールを楽しんで頂くことをきっかけに、横浜でも農業が盛んに行われていることが広く知られ、横浜農業への理解が広まり、横浜農業の振興に繋がることを願って已みません。
当園は、今後もホップ栽培等を通して、地域の農業振興のため、力を尽くして参ります。

ニュースリリース ー 当園考案の画期的な玉ねぎ定植方法が現代農業で紹介されました

雑誌「現代農業」の最新号2022年9月号で、当園園主(JTFファーム株式会社 代表取締役社長 古川原 琢)が考案した、画期的な玉ねぎ定植方法が紹介されました。(p143、タイトル:タネバエ・雑草問題なし!タマネギ苗を100均カニフォークで高速定植)

※当発明は、2022年10月4日 日本農業新聞 首都圏面で、「カニフォークでの野菜定植を考案 効率化や害虫予防に」としても、取り上げて頂きました。

この方法は、時間と労力のかかる大変な玉ねぎ苗の定植作業を、楽に、早く、正確に行うことができるようにするものです。また、記事タイトルにあるように、100均ショップで手に入るカニフォーク1本で実現でき、非常に低コストで高メリットを生むことができることが大きな特徴です。また、それに止まらず、全マルチ栽培でマルチ穴の極小化を可能にすることで、玉ねぎの成長過程で必要になってくる非常に労力のかかる草取り作業を全く不要にし、タネバエの虫害も防ぐという、後工程の問題も一挙に完全解決する、玉ねぎ栽培全体における大幅な省力化を可能にする画期的な方法です。

この方法は、日本の多くの農家で導入可能で、農作業の省力化に大きく貢献できるものと考えております。少しでも多くの農家にこの方法を知って頂き、農家の作業を改善することで、日本農業の発展に寄与することができればと願うばかりです。
弊社は引き続き、自社と地域と日本全体の農業発展の為に、力を尽くして参ります。

タマネギ全マルチ栽培、カニフォーク定植の様子(※この動画では、苗はネギ苗で代用)

 

休日の必要性

農業の世界でも、世間一般の働き方改革の流れに合わせて、休日を取れるように働こう、という流れになっているようだ。いやむしろ、農業でも休みが取れる経営が良い経営で、取れない経営が悪い経営だ、というくらいの論調さえある。しかしながら、自分はそこに強い違和感を抱かざるを得ないのである。それは本当に”正しい”価値基準に基づく判断なのだろうか?ある特定の価値基準の押し付けではないだろうか?

具体的な議論に入る前に、農業の休みの取り方の現状を再確認してみる。確かに、農業を仕事としていると、休みを取れることは少ない。ピーク作業時には、休み無しに連日やることに追われて働かなければいけないし、作物は人間の都合に合わせて生育を止めてくれないので、収穫の仕事など始まったら待った無しの状況になる。特に、一日でその姿形を大きく変えてしまう、きゅうりやなすなどの生り物を作っていると、毎日採り続けなければならないので、その長い収穫期間中は、一日も休むことなどできない。これが更に、自分の様に多品目経営をしていると、大体常に手元に何かしらの苗があり、毎日その水やりが欠かせず、それだけでもその日の仕事がある、とカウントできるなら、それこそ年中無休とまではいかなくても、年間360日くらいの労働日数となる。農業のスタイルによって農繁期や農閑期の差があるけれども、農業を本業で生業としている人には、なかなか休みが取れないのが実情ではないだろうか。

しかしながら、休みが取れないという事実と、休みが取れないのが悪いということは、イコールで繋がらないと自分は考える。その理由は、一般的な農業者の価値観によるところと、自分個人の価値観によるところがある。

まず、一般的な農業者の価値観による理由であるが、自然相手に仕事をしている農業者として、自然と湧き上がってくる思いがある。それは、先程も触れたように、日々成長を続ける作物を前にして、作物の都合に合わせて仕事をするものであり、また、自分が日々、生き残りの闘いを繰り広げている草や虫、或いは、天候が、自分を待ってくれる訳ではないので、自分の仕事は自然の成り行きに応じてしなければいけない、という思いがある。農業の仕事は、自分を取り囲む、全ての自然の事象が回る中で、自分がその片隅で仕事をしているだけに過ぎず、全ての自然が常に動き続けているように、自分も動き続けなければいけない。だから、そこに休むとか休みが必要という概念は、そもそも生まれないし、存在もしないのである。人間の思考の勝手な産物である、”休み”など、自然界にはそもそも当てはまらない。そして同様に、農業の仕事にも当てはまらない。自分はただ、虫や草の様に、ただ動き続けるだけのことなのである。そして、これが自然の中で、自然と共に生きる、生命本来の姿なのである。これが農業を営み、農業で暮らすものの、ごく自然な思い、価値観なのではないだろうか。だから余談ではあるが、この感覚を持つに至らない、この仕事で暮らしを立てたことがない人に、休みを取りましょうなどと言われると、ただ心外に思うしかないのである。農業者は全く別の世界で暮らしている。

次に、自分個人の価値観による理由であるが、仕事とはそもそも、休みの必要な苦しいことでなければならないのだろうか?確かに苦しいところが無い訳では無いが、この考え方は、近代以降の経済学が前提とする、労働は対価を得る為の苦役であり、人はなるべくそれを少なくしようとするのが合理的な行動である、という考えに、世の中毒され過ぎていないだろうか?自分は、資本主義を信奉しているし、経済原理主義者であるとは思うが、この点だけはどうしても納得がいかない。自分にとって、農業の仕事は、趣味であり、仕事であり、そして、自己実現であり、社会貢献である。したいこと、しなければならないことが山ほどあり、その中で成したいこと、成さねばならぬことが山ほどある。そこに休みは必要なのであろうか?いや、休みが必要という考えが、そもそも適切なのであろうか?少し話がずれるが、欧米の社会エリートは、本当に休みなく働いていると聞く。自分は、ある意味、社会の最底辺の一次産業の一生産者に過ぎないので、重ね合わせるのは間違っているだろうが、仕事に自身の成功と社会への貢献を重ね合わせられたとき、自然とそのような判断と結果になってくるのではないだろうか?

更に話がずれるようであるが、関連した話として、仕事における休みの有無と知的生産性は、全く関連せず、知的生産性は、休みが無くても落ちるものではないと思う。いや、むしろ、知的生産性ほど、時間と肉体的労力の制約を受けないものはなく、逆に、これまでの経験上、追い込まれた時ほど、良い閃きやアイデアが生まれるものである。仕事における知的生産性を維持するための休みは必要で無い、という意味でも、休みは必要とならない、という点も付け加えておく。

以上の話を纏めると、一般的な農業者の価値観においても、自分個人の価値観においても、農業の仕事で休みが必要という考えは、そもそも当てはまらない。だから、休みが取れないことが悪いのかどうかの判断はできない、というのが相応しい答えであると思う。そしてそのような世間一般と別の価値基準が、理解され、尊重されることがあっても良いと思う。
ひとまず自身においては、ただ自然が回り動くように、自分も動き続け、前へ進もう。
自社と地域と日本全体の農業の為に。

アロマフルな話 ー 鮮度が重要な野菜、重要でない野菜

久々に野菜の味について書いてみたいと思う。最近は小難ししいことを書くことが多かったが、気軽に読めて、為になる農業の話。

野菜には、味の決め手のひとつである「鮮度」が、重要な野菜と重要でない野菜がある。つまり、鮮度によって味が落ちやすい野菜と落ちにくい野菜がある。これは一般には意外と知られていないことに思う。更に言うと、その差には適切な科学的な理由があり、簡単な理由で説明がつくことは、もっと知られていないと思う。今回は、そのような話をしたいと思う。

まず、どういう野菜が鮮度が落ちやすい野菜なのかと言う理由なのであるが、これは一言で言い表すことが出来て、細胞の呼吸速度が速い部分の野菜は鮮度が落ちやすい。科学的に考えれば当然のことである。呼吸速度が速い部分は、収穫して栄養供給源から断たれてしまったら、自己の細胞内に蓄えてある養分を急速に使い果たすしかない。そして、これは多くの場合、甘味の元になる糖分から消費される。そして、甘味やその他の味のしない野菜となってしまうのである。

また、呼吸速度が速い部分の野菜とは、言い換えると、成長が急激な部位の野菜と同義である。成長が急激な部位の野菜、という方が現実には分かり易い。そこで、まず、その成長が急激な部位の、鮮度が落ちやすい野菜について、列記してみたいと思う。

1)未熟果を穫る生り物(実をとる野菜のことを農家はこのように呼ぶことが多い)の野菜。ナスやキュウリなどがこれにあたる。これらは1日というより、朝と晩で姿形を大きく変えてしまう。トウモロコシやオクラも、成長スピードが速く、収穫適期はほんの一瞬しかない。これらの果菜は、穫り立ては、一般のスーパーに売られているものと違い、甘さに満ち溢れているものだ。一方、完熟果で穫るトマトは既に成長が落ち着いてしまっているからなのか、意外と鮮度で味が変わり難い。

2)芽や花など成長点にあたる野菜。アスパラガスや菜の花、ブロッコリーなどがこれにあたる。春のものが多いであろうか。これらもまだ気温の低い春にあって、一雨降った翌朝などには、畑の景色が昨日までと全く違っていることなどよくあることである。これらも穫り立ては、実に甘く、穫った日だから味わえる、極上の味である。

3)未熟豆を利用する豆類。野菜として扱われるほとんどの豆類がこれに当たる。枝豆、空豆、生落花生、エンドウなど。どれも全て、味のピークのタイミングがとても短く、収穫に、常に細心の注意が求められる。そして言うまでもなく、穫ったその日と翌日では、甘みが大きく違う。穫ったその日のものを食べて頂ければ、これまで食べていたものは一体何だったんだろうと思って頂けるはずである。

以上、鮮度が重要な野菜について纏めてみた。色々あるが、その中でも鮮度が最も重要なものは、トウモロコシ、エンドウ、次に枝豆であろうか。これらは、穫って半日でも、味が落ちると自分は思う。だから、食べる直前に穫るのが一番である。トウモロコシは、お湯を茹でてから畑に穫りに行け、と言われるそうだが、正にその通りであると思う。

では逆に、鮮度が重要でない野菜についても纏めてみたいと思う。それらはこれまでと逆の、成長がゆっくりな野菜が該当する。

1)葉物野菜全般。これらは成長が遅い訳ではないのではあるが、それでも前述の鮮度が重要な野菜と比べれば緩慢である。だから、収穫後結構時間が経っても意外と味が悪くなっていなかったりする。小松菜などは、逆に熟成したような味に変わり、それはそれで美味しいと思う。更に、結球する葉物野菜、キャベツ、白菜などは、成長により時間がかかっている為か、より一層、収穫後時間が経っても味の変化が小さい。なお、葉物野菜でも例外が無い訳ではなく、モロヘイヤなどが該当する。そしてそのような野菜に共通しているのは、収穫後、自身が熱を持つ。葉物野菜でも、呼吸速度が速いものもあるようである。

2)根菜全般。前記葉物野菜以上に、鮮度の影響を受けないのが根菜である。成長も、もっとゆっくりである。これらは、保存も効くし、常備菜として扱われる性格のものである。だから、大根などは、抜き立てで決して悪いことはないのではあるが、大根穫り立てです、と言われても正直何の意味もない。むしろ、大根の鮮度を訴える売り手がいたら、疑った方が良いかもしれない。

3)乾燥、追熟が必要な一部の野菜。乾燥が必要なものでは、玉ねぎ、にんにくなど。追熟が必要なものでは、じゃがいも、かぼちゃ、さつまいもなど。ここまで来ると、むしろ鮮度とは違う概念になってきてしまうが、収穫から時間が経っている方が良い野菜もある。玉ねぎは、収穫直後は辛みが多いが、乾燥・保管する中で、段々辛みが抜け、甘味がより感じられる。じゃがいもやかぼちゃは、悪くなる寸前まで追熟したものが味のピークで甘味が最も強い。だから、皺々になったじゃがいも、へたの周りが崩れ始めたかぼちゃは、とても価値がある。さつまいもは、掘り立ては、ほとんど甘くないので、だから大学芋にでもしないと食べられない。最低1か月は追熟で寝かせて、焼き芋用の品種だと2か月は寝かせてからでないと、その味の良さが出ることはない。

以上、鮮度が重要でない野菜についても纏めてみた。重要でない、と言っても、時間の経過で萎れていたりしたら、もちろん食味も悪くなるので、その意味では鮮度も重要なのだが、今回その点は考慮していない。保管状態が良かったときに、時間の経過と共に味が悪くなり難いもの、という意味で纏めてある。

今回の記事では、鮮度が重要な野菜と重要でない野菜について、纏めてみた。これらの区別は、意外と理解されていないことに思う。それでも、この記事を参考に、単純な原理原則に従って区別されることをご理解頂き、今後のお買い物に活用して頂ければ幸いです。

 

副業的農家の存在意義と農業政策が産業・社会政策となる理由

最近書いてきたブログでは、農家と呼ばれるに相応しい基準や、生業として農”業”をしていると言えるのかという基準などについて、手厳しく論じてきた。そこでは、副業的農家と呼ばれるような人々の多くの地位に対し、疑問を呈し、否定的な考えを示してきた。この、精神的にも経営的にも強靭でなければ農家とは言えない、という自分の考えが将来変わることは決して無いと思う。しかしながら、またこれまでのブログとも矛盾するようではあるが、先程の意味で”弱小”と捉えられる農家の人達を実際に目の前にして、その人達の努力や存在を否定できるのかと言われると、とてもそんな気持ちにはなれないのである。

それは、ひとえに、そのような人々が、同じ農家社会・地域社会を形作る一員だからである。同じ共同体に属し、共通の利益を共有している仲間であるからである。見かけ上の共通の利益は何もないようで、共にそれぞれ農業をしている、という事実だけで、既に共通の利益を共有している。なぜなら、自分が農業が出来る、やりやすくなるのは、近くで別の人が農業をすることで、自らが農業が出来る、やりやすい環境が、様々な点で整えられるからである。農業は、非常に外部効果の高い特異な産業であり、自分のすることが周囲に容易に大きく影響し、周りのすることも自分に大きく影響する。だから、たとえ共通の利益を共有しないようでも、同じ共同体の一員で、同じ農家社会・地域社会を形作る限り、既に共通の利益を共有している。だからこそ、その人達がどんなに弱小と捉えられる農家の人であっても、無碍に扱うことなど到底できないのである。

そのように考えると、小規模零細で、農業以外の収入が主たる副業的農家の位置付けは、低くされることも、また高くされることも無いと思う。更に言うと、結果として副業的農家であっても、農家として生き残れるのであれば、経営的・産業的に正解でなくても、社会的には正解なのではないかと思う。そして、これも1つの正しい農業のあり方なのではないかと思う。そして、自分の周りの”弱小”とも捉えられる農家の人達は、十分にその役割と存在意義を果たしていると思う。

ここまで気付いたとき、農業政策は、純粋に産業政策のみであることは有り得ず、同時に社会政策にもならざると得ない、とも気付いたのである。ここに農業政策の難しさがあるのではないかと思う。短絡的に農業振興を図るのであれば、”強い”農家を育成するための産業政策のみをどんどん取れば良いのかもしれない。しかし、”強い”農家のみで、本当に”強い”農業産業が実現されるのであろうか?農業が地域社会や共同体の上に成立しており、また、外部効果の高い産業としての特異性を鑑みると、どうしても同時に社会政策の性格を帯びた農業政策を取らざるをえないのではないか?社会政策として、農家全体の底上げを図りながら、更に産業政策として”強い”農家の強化が、農業強化の為に必要な農業政策なのではないか?

あと、やや話がずれるが、農業の外部経済で、農業の”多面的機能”とも呼ばれる、景観や環境維持や教育機能などがあるが、基本的に自分はその辺の議論には、中立的な考えである。多面的機能は無い訳ではないと思うが、直接的に経済的な価値に置き換えるのが難しいだけに、農業そのものが産業として生み出す価値以上の価値が強調され過ぎるのは良くないことと思う。あくまでも産業としての農業が価値を生み出す主体であり、”多面的機能”については、副次的な効果として取り扱われるべきと思う。

今回は、副業的農家の役割と存在意義、そこから導き出される、農業政策が産業政策であると同時に社会政策となる理由について考えてみた。自分の周りには副業的農家の人の割合が多いが、皆、社会的な役割を立派に果たされている農家の人々であると思う。そして、そのような人々と”強く”生きる農家、双方の為になる農業政策が実行され、互いに繁栄できればと思う。