「農家は馬鹿にされている」静岡県知事の発言から一般的に思うこと

先日、静岡県知事が農業を含む職業差別発言をしたことが問題となった。その発言の内容自体は、言語道断、そのような発言をする人が最も頭脳・知性が低いのではないのかと思うのだが、その発言に対する批評はさておき、その発言内容の、農業者を馬鹿にしているような風潮が、社会一般に元々あるのではないかということの方が、むしろ自分としては気になったのである。今回の発言は、その風潮、考えが底流にあり、それが少し現れただけのことではないだろうか。そして、農家は社会から馬鹿にされている、というこの考えは、何も自分が勝手に一人で思っていることではなく、多くの篤農家、特に、本気で人生を懸けて農業をしている篤農家と、共通している認識であると思う。そのような話をこれまで自分はそのような方々としてきたし、そのような話も聞いてきた。そこで今回は、「農家は馬鹿にされている」ということを、この機に改めて考え直し、その悔しい胸の内を明かしていきたいと思う。

農家は馬鹿にされている、と思う局面は数多くある。今回のように表立つところは、一昔よりもう少し前の時代までは、もっとあからさまで、農家は臭い、汚いなど、悪口を言われるようなことも、普通にあったようだ。今の時代、そういうことは大分少なくなってきていると思うが、それでも、表立たないところでは、馬鹿にされている、見下されていると思うところが沢山ある。そして、農家は静かに、深く傷ついている。そのような表立たないところでの、でも深刻な、馬鹿にされていると感じる局面を3つまずあげたい。

1つ目は、農業の関連業界者が、知った口を利いて、農家に接してくるところがある。農業の業界関連者には、行政、研究機関、マスコミ、コンサル、ベンチャー、などが含まれる。彼らが彼らなりに農業について知っていることがあり、同時に農家が知らないことがあるのは否定しない。しかし、同時に、あるいはそれ以上に、彼らが知らず、農家が知っていることの方が、山ほど多くあるのに、農家に対して上から目線で、自分達の方が、さも知っている、さも分かっているような口を利かれるのには、実に馬鹿にされた思いになるのである。更に、”教えてあげている”、”してあげている”、という態度で接されると、より一層、見下されているように感じる。また時に、その口の利き方は、必ずしも傲慢な態度でなされる訳ではなく、”農家のために” という善意をもってされることが多く、これがむしろ厄介で、この ”農家のために” という考え方自体が、農業の実情や農家の本当の思いを理解せず、勝手な思い込みでされていることが多く、これは、少し形を変えた、農家を軽んじ、馬鹿にしているだけのことに過ぎない。特に、ベンチャーやコンサルがよく言う、”農業のために” ”農家のために” というときほど、的外れであることはない。

2つ目は、農業に関する議論が、農家不在で行われている、或いは参加していても重視されていないところがある。農業に関する議論がなされるとき、その多くは農家以外の農業関連業界者でなされることが多いようだ。農家のいないところで、農業の話をして盛り上がるのは、直接的には農家に何の害もないことではあるのだが、それで業界の片隅で勝手に盛り上がった、農業の現場の実際とかけ離れた変な主張や雰囲気を社会に拡散されるのは、良い迷惑で、それはただ単に、農業を馬鹿にしているようにしか見えないのである。また、農業に関する議論に、農家が加わるときもあるようだが、自分がこれまで見聞きしてきた範囲で、農家の意見が尊重されていることは少ないようだ。農業のことを良く知っているのは農家の方であるはずなのに、どういう訳か、農家よりも関連業界者の意見の方が、権威付けられ、有難がられる。これは誠に不思議なことで、日本の歴史の中で長く続いた農家の身分の低さが、無意識のうちに社会全体に継承でもされているのだろうか。そしてその様なことが起こる度に、農家は静かに深く傷ついている。

3つ目は、畑で実際に起こる些細なことであるのだが、農家は何故かよく気軽に声を掛けられる、ということがある。これは、就農当初のブログ記事「農家に声をかけるということ」に書いた通りで、その考えは今も変わらないのであるが、声を掛ける人は悪気はなくても、声を掛けられる農家には、いい迷惑でしかなく、その根底には、農家を軽く見ている意識があるとしか思えないのである。

以上、表立たないところでの「農家は馬鹿にされている」と思う局面3つと農家の本音となる。いずれも、無意識のうちに多くの人が農家に接するときの態度になっているのではないかと思う。だからこそ、普段は意識されないけれど、しかし、社会の根底に厳として存在する、農家に対する認識であると思う。

一方で、「農家は馬鹿にされている」ことに対して、社会一般だけがその責を負う訳ではなく、農家自身も十分に責任の一端があると思う。ここでは3つ理由をあげたい。

1つ目は、何より、農家自身がこの仕事を良く思わず、自らを卑下してきた。経営的な理由に因るところが大きいだろうが、農業の仕事は子供に継がせたくないと農家自身が考え、継がせるにしても、「農業の仕事をするのに、勉強など必要ない。むしろ、勉強などして賢くなったら、この仕事が馬鹿らしくなって出来なくなるから、しない方が良い。」などと、これは少し古い考え方ではあるが、農家自身がそのような考え方をしてきた。これでは、社会からそのような目で見られても、致し方ないだろう。

2つ目は、この点は語られることは少ないのだが、事実として、戦後長らく、農業界は人材流出産業であることはあっても、人材流入産業であることはなかった。最近は、多少の新規参入はあるものの、新規参入組は、現実にはそのほとんどが失敗例で、一部の僅かな成功例が業界全体を牽引するほどの力にはなっていない。いずれにしても、歴史的には、少し目端が利く人、より機会を得ようとする人なら、農業という業界に見切りをつけてきたのが事実であった。それで、農業界が、社会の他産業と比較して、人材競争力のある業界と言えるだろうか。そうではないと思うのである。

3つ目は、農家の習慣や作法は、現代日本のビジネス社会に、馴染み難いところがあり、逆に言うと、農家が社会一般の人を相手に渡り合える、スキル・能力をこれまで十分持ってこなかったと言えるのではないか。農業の世界では、和を尊ぶことが最優先され、論理的な主張の正しさや正しい主張を伝えることは好まれない。それで、農家自身が、そのような力を磨かず、自らの立場や主張を正しく分析し、適切に伝える能力を獲得することに繋がってこなかったのではないだろうか。しかしそれでは、現代のビジネス性の観点からは、議論の相手としては不足となる。前述の、農業の議論が農家抜きでなされるのは、そのような理由もあるのかもしれない。

以上のように、農家の側にも、馬鹿にされるのに十分な理由がある。そして、農家も含めた社会全体が、農家を馬鹿にするような風潮に結果としてなっているのだろう。しかしながら、もちろん、それで良しとされることではなく、農業の仕事は頭脳・知性の低い人がする仕事と卑下することは、決して許されることではないだろう。

実際に、多くの農家の方は、頭も体もフルに使って、頑張って良い仕事をしている。その努力は、生半可なものではなく、社会一般の人がとても想像できないところである。特に、篤農家の方においては、どの産業の、どの素晴らしい仕事にも負けないくらい、とても創造的で、斬新な仕事をしている。ただ残念なことに、それが社会に伝わらず、知られず、また評価もされていないだけのことである。その辺が正しく適切に、社会に伝われば、農業の仕事に対する社会の評価も変わっていくのではないか。農家が過剰評価されることは避けなければならないが、現在のように過少評価されているのは、是正されるべきだろう。本来、農家は社会に対し、対等であるはずだ。今後そのようになることを強く願うばかりである。そして自分自身においては、農家の正当な評価を伝える努力を、今後も続けて行きたいと思う。