日本と日本の農業を想うブログ

注目

農業の現場で起きていることは、一般に思われていることやメディアの報道とは相当違う。
そのようなギャップを冷静且つ論理的に、そして時に日本社会全体まで俯瞰して、書き綴っていくブログです。畑での作業風景、作物の生育状況等の掲載は、情報漏洩防止の観点から基本的に本ブログの対象外とさせて頂きます。

続・農家の”資格”

もう3年も前になるが、「農家の”資格”」という記事を書いた。その記事では、農家である/なしは、社会的文脈によって定義づけられるとした。今でも、社会的な観点から考える定義は、その時から変わるところがない。しかしながら、自分個人の思いとしては、大分違うようになってきたと思う。それは、自身の経営が発展し、同時に周りの環境が変わったからかもしれない。今回は、その個人的な思いとしての、「農家の”資格”」について、考えを纏めたいと思う。

その農家の”資格”=農家として認められるのか否か、についてであるが、表面的に捉えられるところと、直ぐに捉えられない精神的なところ、の2つの判断ポイントがあると思う。

まず、表面的に捉えられるところであるが、農家として人を認められるのか否かは、仕事をする時間や労力の大半を、農業に費やしているか否か、ということになると思う。農家は、兼業が多い。また、農外収入の方が多いことが多い。特に都市近郊農業においては。なので、他にすべき仕事があったり、得る収入もあったりするのではあるが、そのような中でも、農業を仕事の中心に据えて、時間と労力の大半を農業に注いでいるか否かは、重要な点であると思う。農家の言葉を使えば、「毎日」「朝から晩まで」「畑に出て」「よくやっているな」ということになると思う。もちろん、これらの条件を満たせば、農家として良い農家だ、ということにはならないのではあるが、農家同士の会話でよく出てくる「あいつは農家をよくやってる/やってない」という言葉とその判断基準は、間違っていないと思う。

次に、精神的なところについてであるが、前記、時間や労力の大半を農業に費やすことによって生まれる、心の持ちよう、在り方、があると思う。それはこれまでこのブログ他記事に書いてきた通りであるが、全ての苦難や運命を引き受けて、それでも尚、前に進もうとする希望の意志、生きるか死ぬか(≒生活できるかできないか)のギリギリの線でも日々闘い、それでも決して諦めようとしない生の意志、とでも言えばいいであろうか。草や虫が、日々必死に生きようとしている、その生命の輝きと同じところである。
だから、農家ならば、台風被害を嘆いたりはしない。何があっても、心折れたりはしない。ましてや、だから半年遊びに行こうなどと、冗談でも絶対に言ったりはしない。この仕事の収入で出来ない買い物をして、見せびらかしたり、配り回ることはしない。

余談が続くようであるが、”自分は農家だ”という言葉は、農家をやっていない人ほど、不思議と言いたがる。そもそも、本当に農家をやっている人は、むしろ、自分が農家である境遇を惨めにさえ思っているので、そう言いたがらないものだ。だから、自分は農家であると、言って回る人は、ほとんどの場合、大して農業をしていない人である。逆説的のようであるが、それが真実である。なお、極端な例では、農業に関わったことがあるだけの人が自分を農家呼ばわりすることさえある。農業に関わることと、農業で生きていくことは、天と地ほどの差、と言うよりはるかに大きい、上記人生観と世界観の達観の有無があるというのに。だから、更に言うと、農家がよく言う「農業やってから言え」という言葉は、単なるポジショントークではなく、農家の達観した人生観と世界観を踏まえた、非常に意味の重い言葉なのである。

以上、農家の”資格”の判断ポイントを個人的に思う点について、纏めてみた。日々、農業の仕事を行い、きちんとした心構えを持つ人間こそが、農家と呼ばれるに相応しい。そして、自分がそのようであることを誇りに思うと共に、幸せに思う。そしてまた、そのような仲間達と共に、これからの農業を切り拓いて行きたいと思う。

農業体験をしない訳

自分は農業体験を商売として行っていない。また、したくもないと思っている。理由は単純で、農業が楽しいとか、面白いとか、気持ちいいとか、思って欲しくないからである。以前のブログで記したように、その様な感情は、農業のほんの一面でしかない。だから、そのような部分だけを切り売りして、間違った農業のイメージを、意図しようと意図せざるとも、広げるようなことはしたくないのである。農家にとって、特に新規就農者にとって、農業の観光業化は、現金獲得の手っ取り早い手段なのかもしれないが、たとえ、金銭的利益になると分かっていても、自分は行いたくないのである。そう思うのは、農業を生業とし、農業で飯を食う苦労を分かっている者の誇りのせいかもしれない。しかしながら、この思いは、ほとんどの農家と通じる、農家の間で一般的な感情に思う。

なお、ここで言う農業体験の定義は、所謂、観光農園や芋掘りなど、収穫を客自らが行い、その成果物を客が消費あるいは持ち帰るものは含まない。それは、対価の主たる目的が、農作業では無く、成果物であることがはっきりしているからだ。その逆で、対価の主たる目的に、成果物が無く、農作業である場合を、ここでの”農業体験”の定義としたいと思う。

その農作業を対価とした農業体験なのであるが、確かに、農家でない一般の人が、農業体験によって、楽しみや面白味を覚え、リフレッシュした気持ちになるのはよく分かる。なぜなら、自分も以前は同じ側にいた人間だからだ。事務所で椅子に座り続けて仕事をする人間にとって、屋外で陽に当たり風に吹かれ、土にまみれて体を動かすのは、何とも気分爽快なことであろう。
しかしながら、農業を生業とし、生計を立てるために、作物を栽培し販売する、その為の農作業で農家が思うこととは、天と地ほどの差がある。そこに楽しみや面白味を感じる余裕は無い。リフレッシュした気持ちなど、生まれようもない。確かに、自分自身も研修時代は、農作業は手放しで楽しかった。何の責任も重圧も無く。しかし、いざこの仕事で生計を立てるとなってから、農作業で感じるものは、焦りや疲れ、苦しい感情でしかなかった。

だからこそ、農作業が面白いなどと言われても、苦々しく思う他ないのである。そして、思ってもいない“農業の面白さ”を売りにして、商売が出来るなどと到底思えないのである。普通の農家の、普通の感情に従えば、普通に出てくる結論であると思う。

一方で、農作業を面白いと思う人が現実に多くいることは分かるし、それは否定できない。それにお金を払いたい人がいることも分かる。そして、そのような需要がある限り、市場原理として、供給の出し手が現れ、需要と供給が一致するのも分かる。ニーズが現に有り、自由な経済活動で解決されていくのであれば、それは社会的には正しいことではないだろうか。

しかしながら、そこには、農業の現状や農家の思いは正当に反映されていない。農業体験の取引の中に含まれていない。いや、そもそも、そのような農家の思いは、取引できる対象ではない。だからと言って、農家の率直な思いに反し、一面的な農業の良さを取引の対象とすることは、好ましいことなのであろうか?そして、農業の一面的な良さのイメージが、大方の事実に反して、強化されるのは、好ましいことなのであろうか?

ここまで考えた時、農家の思いを正当に取引の中に含めることができる農業体験であるならば、自分も農業体験をしても良いのではないかと気が付いた。そのような農業体験が成立するのかどうかは分からないのではあるが。そもそも、この農家の率直な思いを正当に理解してほしい、というのが、本ブログを書き始めてからずっと共通する、根底に流れる考えでもある。最後に結論をひっくり返すようであるが、農家の思いを正当に反映させ、取引が成立するような農業体験を売ることを、今後考えて行こう。

生き方としての農業、ビジネスとしての農業

農業を始める動機は、主として、生き方として農業を目指す場合と、ビジネスとして農業を目指す場合に、大きく分かれると思う。なお、自分は後者を目指している、と思っていた。それは、このブログ初回に記したように、農業はビジネスチャンスと思っていたからである。
しかしながら、最近、自分は必ずしもそうではないのではと思うようになった。また同時に、生き方として目指す農業と、ビジネスとして目指す農業は、そんなにきれいに分かれるものでないことにも気がついた。
そこで今回、「農業で目指すもの」という古くて新しいこの問題を、改めて考え直し、整理してみたいと思う。

まずそもそも、そのように考えるようになったきっかけなのであるが、農業を始めてそれなりの年月が過ぎ、見聞が広まる中で、経営的に自分よりはるかに大きく、短期間で、成功している事例を数多く見聞きしてきたからである。そして逆に自身を省みたとき、自分は変わらず小規模で、ビジネスとして間違っていたのではないかと、疑問を持つようになった。
この差はどこから生まれたのだろう。自分の何が悪かったのか/不足していたのか。逆に、大きく成功している事例では、何が違い、何が良かったのだろう。

ビジネスとして農業の正解と不正解の差を考える中で、大きく成功している事例で共通していそうな決定要因が2つ見えてきた。
1つは、”資本の集中投下”。資金調達してでも、しっかり投資をしている。栽培施設か農業機械。更に、ある作物専用である場合も多い。言い換えれば、ピンポイントで大規模な”資本の集中投下”をしている。当然、その様になれば、生産効率は上がり、経営としても上手く行きやすくなるのだろう。
あともう1つは、”事業拡大可能な環境”で経営していること。簡単に言うと、都市近郊でない場所。農業の売上は、やはり面積に大きく制限される。売上の上限の殻を破ってさらに大きくなるには、面積を増やすしかない。そうなると、より大規模に経営発展可能な場所であることは必須であろう。

そう思うと、自分の場合、そのどちらにもあてはまらない。投資はなるべくしないスタンスで長らくきた。その上、少量多品目という、資本の集中投下の効果の出にくい経営を行ってきた。また、都市近郊で、なかなか規模拡大が難しい状況にあった。とは言え、結果論としては、ビジネスとしては間違っていた、と言わざるを得ない。
資本の投下が不十分であったことは、最近その考えを改め、機械装備を充実させ、経営が上向いたことで、改めて再認識した。少量多品目経営については、最近、品目により選択的拡大をするようになって、その生産効率の良さに驚いた。
あと、就農地の選択については、良くなかったかどうかを判断することは正直難しい。都内から近く、有利販売が出来る良い立地であるからである。特に就農当初の経営成立にはプラスに働いたはずであろう。とは言え、規模拡大という点で、良い立地でないことは確かである。

ここまで考えたとき、自分はビジネスとしての農業を志向していたにも関わらず、意外とそうでなかったと気付かされた。そもそも、ビジネスとして不正解であったのは、ビジネス上の選択を間違えたと言うより、それ以前の問題として、生き方として農業の仕方の一部を選択していたから、と言う方が適切なのかもしれない。

生き方として農業を志すというのは、今となっては皮肉のようであるが、自分は非常に否定的に思ってきた。生き方としての農業とは、簡単に想像がつくところで、”農業のある暮らしをしたい”、”田舎暮らしをしたい”、”会社勤めはできないけれども、農業ならできるかもしれない”、などの考えがある。しかしながらこれらは、農業の現実を知らない人の、ただの妄想に過ぎない。以前のブログに書いたように、農業で生きるには、収入面で、サラリーマンよりずっと強いプレッシャーに晒され、ずっと強い精神力を求められる。生き方として農業を行う人生があってもいいとは思うが、経済性が伴って初めて、農業のある生き方ができる。だから、自分は生き方として農業を志したいなど、微塵も思ったことは無かった。

しかしながら、結論から言えば、それでも自身の農業のやり方に、自分の生き方の志向を織り交ぜてきたと言える。投資はするとしても、少量多品目の経営を止めたいと思うだろうか?いや、日々の食卓を彩る数多くの野菜を作るのを止めはしないだろう。都市近郊経営を止めて、地方に移住するだろうか?いや、自分は、都市の便利で機会溢れる暮らしを捨てることはしないだろう。自分の農業経営の幾つかの条件は、ビジネス性より、生き方を優先していた。

そしてここに、生き方として目指す農業と、ビジネスとして目指す農業が、はっきり相反する考えではなく、その境は連続的である、とも気付かされたのである。そして、農業を実際に行う際には、生き方として目指す農業とビジネスとして目指す農業の間の、どこかを選択することになるのであろう。そこには絶対的な解は無い。解は自身で導き出すしかない。但し、勿論、両立が必要なのは間違いない。どちらか一方が欠けても、農業の持続性が欠けてしまう。

そして再び自身の農業の目指すところを省みると、やはり創業時と変わるところが無い。あくまでも経営理念「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」に忠実に、数多くの野菜を作り、お客様にご提供していきたい。その上で、他の生き方の考えと織り交ぜながら、現状で出来ることを出来る限り行い、それでもその可能性は無限大であるのだから、その可能性を追い求め、ビジネスとしての成功も追い求めて行けるはずだ。

ニュースリリース ー 当社の野菜の取り扱い店舗が増えました

当社(古川原農園)の野菜を、10月より自然食品F&F仙川店に、11月より横浜ランドマーク店に新規出荷開始しました。また、横浜ジョイナス店の出荷曜日を変更し、週2回に増やしました。現在、お取り扱い頂いている店舗を纏めますと、以下の通りです。

自然食品F&F http://www.shizensyoku-ff.com/
・自由ヶ丘店       毎週 日、火、木曜 15時頃~
・日吉店         毎週 日、火、木曜 14時頃~
・グランツリー武蔵小杉店 毎週 日、火、木曜 14時半頃~
・玉川高島屋店      毎週 金曜 15時頃~
・仙川店         毎週 金曜 15時頃~
・横浜ランドマーク店   毎週 日、木曜 14時半頃~
・横浜ジョイナス店    毎週 日、木曜 15時半頃~

いずれの店舗でも、午前中~昼過ぎに収穫(一部除く)した、最高の鮮度の野菜を並べて頂いています。
当社は、経営理念「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」に沿って、お客様に喜んで頂ける美味しい野菜をご提供する為、今後も努力を続けて参ります。

ニュースリリース ー 当社が横浜産露地バナナの収穫に成功しました

今月5日、当社が露地で栽培するバナナを収穫することに成功しました。
(タウンニュース港北区版12月2日号でご紹介頂きました。)
https://www.townnews.co.jp/0103/2021/12/02/602477.html

当地横浜でバナナを露地で栽培することは、大変珍しいことですが、①耐寒性の強い品種を選び、②これまでの野菜栽培の経験と技術を活かして無事冬越しさせた、ことにより、無事収穫に至りました。
また、収穫したバナナを追熟させ、食味を確認したところ、甘味がいっぱいで、この品種が特徴とするバニラ香の非常に良い香りがする、大変美味しいバナナとなっておりました。なお、栽培が一般的でない作物を栽培する場合においても、食味が一般に流通するものより良いものを作ることは、当社が経営理念に掲げる通り、重要な点です。

ホップ栽培と同様に、当地で栽培が一般的で無い作物に挑戦することは、農業の限りない可能性を示す一面であると共に、農業の大変面白い一面でもあります。このような取り組みをきっかけに、地域で農業が盛んに行われていることが話題になり、地元の農業への理解が深まることを願って已みません。

当社は、今後も農業における様々な挑戦に果敢に取り組み、その地平を拡げて参ります。

・収穫直後

・追熟後
 

・生育途中

・開花

ニュースリリース ー 当園のホップが使われる「横浜港北フレッシュホップエール」が出荷開始

横浜ビール様と5年前より取り組んでいる当園の横浜市港北区産のホップを使ったフレッシュホップビールが、10月21日より横浜ビール様から出荷が開始されました。

今年のビールはこれまでのIPAのスタイルからペールエールのスタイルにビールが変わり、同時に、商品名が「横浜港北フレッシュホップエール」に変わりました。瓶の販売では、ラベル絵柄に、当園代表が収穫に参加頂いた皆様と一緒に収穫している風景がそのまま見事に描かれています。

年々進化する当園のホップを使ったフレッシュホップビールを、ぜひ一人でも多くの方に楽しんで頂ければと思います。そして、横浜の地で、農業が営まれ、農家が懸命に仕事をしていることを、ぜひ知って頂ければと思います。

当園は、ホップ栽培を通じ、地域と地域農業の発展の為に、今後も力を尽くして参ります。

 

ニュースリリース ー アグリテックグランプリで当社が三井化学賞を受賞

9月18日、株式会社リバネスの主催するアグリテックグランプリにファイナリストとして出場し、三井化学賞を受賞しました。
 
アグリテックグランプリ詳細についてはこちら。
発表内容は、「小型除草ドローンで農家を草取りの苦労から解放する」で、東京大学大学院農学生命科学研究科 生物機械工学研究室と共同開発している、小型除草ドローンについてでした。実際に農家が苦労している草取りの問題を解決するために、最先端の技術を用いながら、現場に寄りそう技術開発をしている点をご評価頂きました。
今回の受賞を励みとして、今後更に実用と普及を目指して開発を進めて参ります。
 
下記リンク先動画は、最近の自動運転の様子です。当社圃場では、既に実用開始しております。
 
 
 
 

ニュースリリース ー小型除草ドローンの開発について

※本件は、2021年6月2日 日本農業新聞 営農面(全国面)にて、ご紹介頂きました。こちらから記事をご覧頂けます→https://www.agrinews.co.jp/farming/index/10084

当社は、東京大学大学院農学生命科学研究科 生物機械工学研究室と共同で、野菜畑で使う小型除草ドローンを開発しました。野菜畑の畝間や通路の除草は、農家は大変苦労するところで、特に繁忙期や夏の酷暑の時期に大きな負担となるものですが、その負担を除くことを目指したものです。

今回開発したドローンの特徴しては、①RTK-GNSSの誘導技術を用いて、決められたルートを正確に走行すること ②農家が実際に取り扱い可能な小型で、その限られた空間に収まる、省力、省エネルギー機構であること ③地面の凸凹に対応してより確実に草を取り除く機構であること を特徴としております。

これらの特徴により、野菜畑の草取りを省力化することで、有機農業などで最大2割の生産性向上を果たすことができると試算しています。また、大型機械による作業が難しい、都市農業や中山間農業などの小規模農業、直売所向けなどを目指した多品目栽培農業により適合し、日本の様々な形態の農業に貢献できるものと考えております。

また、製品化した際の販売価格は、農家が十分に買える価格帯を想定しており、普及の実現を大きく後押しするものと考えております。

当社は、小型除草ドローンを通じて、地域と日本の農業に貢献できるよう、今後も開発を継続し、製品化を目指して参ります。

動作状況の動画:

アロマフルな話ースナップエンドウ

絶対にスーパーで買わない野菜、同列1位。それがスナップエンドウ(あとは枝豆ととうもろこし)。一般に売られているものは、おそらくそのものの本当の価値の10分の1も満たしていない。それ位、全くの別物なのである。採りたての本当に美味しいものは、甘さ、瑞々しさ、シャキシャキ感が全く違う。今日は、その本当に美味しいスナップエンドウについて、その美味しさに必要なポイントを3つあげたいと思う。

1つ目は、まず何より新鮮であること。採った日とその次の日だと、味がまるで違う。一晩越しただけでも、甘みがガクンと減ってしまう。農業高校の野菜の教科書に、貯蔵温度20℃で2日で、収穫直後の食味が、商品性の下限~甘さがなくなり淡泊な味になる、とある。確かにその通りに思う。でも、一般に流通しているものであれば、どうしたってそのようにならざるを得ない。「スナップエンドウって美味しいものだったんだ」という感想を頂くこともあるのだが、それも無理ないことに思う。本当に新鮮で美味しいスナップエンドウを食べるのは、収穫当日のものを手に入れることができる環境にでも無い限り、実現不可能なことなのである。或いは、同じく教科書によると、収穫後すみやかに0℃に冷やすと、2日ほどは、収穫直後の状態が保てるとある。産地直送の野菜であっても、そこまでされているだろうか。まさに、農家にのみ許された味、といっても過言ではないのかもしれない。

2つ目は、収穫のタイミングが適切であること。どう適切であるのかと言うと、実がパンパンに膨らんで、丸々と太った状態のタイミングで収穫されていること。これが、ほんの少し手前の、もう少し薄い状態で採ってしまうと、まるで味が違く、甘みがあまり無かったりする。一般に売られているスナップエンドウで、このような状態で並んでいるものは、ほとんど目にしないのであるが、なぜだろうか。樹が疲れて、収量が落ちるからなのであろうか。とにかく、市販されているスナップエンドウは薄過ぎる。これでは、料理の彩りにしかならないではないか、とさえ思うのである。口に入れた瞬間、口の中いっぱいに弾けて溢れ出す、あの甘さと瑞々しさと実に歯切れの良い食感を楽しむ為には、この太り具合がとても重要なのである。

3つ目は、収穫時期の終わりの方であること。これは個人的に非常に不思議に思うところなのであるが、収穫のピークが過ぎ、樹が弱り黄色くなってきたくらいの方が味が上がる。他の作物では全くそんなことは無く、樹が弱って黄色くなったりしたら、もう無味乾燥なものしか出来ないのに、このスナップエンドウだけは、逆に味が上がるのである。スナップエンドウの終わりの時季は、シーズン初めに比べ気温が大分上がっているから、その影響なのだろうか。いずれにしても、スナップエンドウは、名残が実に良い。

スナップエンドウについて知るところを纏めてみた。もし、美食が大罪であるならば、採りたての、良いタイミングで収穫されたスナップエンドウは、間違いなく罪である。そして、自分はその罪を作り続けている重罪人でしかない。そうでなくても、お客様にこんなに美味しく、他で手に入れることができないものをご提供してしまう自分は、大変罪深いなあと思っているのに。それでもなお、お客様には、採れたてで最高の状態のスナップエンドウをぜひお試し頂ければ、と思います。

命を育てる仕事は、奪う仕事

命を育てる仕事は、同時に、命を奪う仕事でもある。
直接的に命を奪うことで食物を得る畜産農業に限らず、作物を育てる耕種農業も、多くの命を奪うことで成立している。
この事実は、世間一般には想像すらされず、もちろん理解もされていないことに思う。しかしながら、この事実は、今改めてここで言及する価値があると思う。なぜなら、農業と自然の厳しさを正しく理解して頂きたいからである。そしてまた、この事実が、生きる厳しさ、日々努力し続ける意味、を的確に教えてくれるからである。今回は、そのような話をしたいと思う。

まず、普通の人が農業という言葉を聞いて思い浮かべるシーン、田んぼに稲が豊かに実り、或いは、畑に多くの野菜が育っている、果実が木にたわわに実っている、そして、蝶が舞い、鳥が鳴き、たくさんの生命とそのエネルギーが満ち溢れ、喜びと幸せに満ちた場面、というのは、単なる幻想に過ぎない。命を育てる仕事を生業とする者は、そのような見方は決してしない。風に吹かれ、雨に打たれ、厳しい自然条件の中、虫や草や動物、或いは目に見えない病気と、常に生き残りをかけて競争している。食うか食われるかの競争をする中、相手の命を奪うことで、ようやく自分の命を繋いでいる。逆に言うと、相手の命を奪わなければ、自分の生活が喰われるだけだ。そのような訳にはいかない。選択肢などない。作物という人間が利用するためのものを得るために、それらを狙う他の多くのものから守らなければいけない。そして、それは命を奪うことに他ならない。

一般的な農業において使われる薬剤で、一体どれだけの虫や病原菌を含む菌類が死んでいるのだろう。除草剤や或いは耕運機やトラクターで土を耕すことで、どれだけの草花が命を絶たれていることだろう。実際に命を奪う行為を直接的にしているつもりはなくても、農業の営みを行うことで、無数の命を奪っている。それが自分のように、薬剤に頼らない農業をしていると、もっと直接的なことをしている。この手で虫を潰し、草を引き抜く。時には動物にも手をかける。命を奪っているという感覚は大有りで、日々、自然界の弱肉強食、生き残りをかけた生存競争をしている感覚以外、生まれる想いなど何も無い。宗教的に考えれば、自分は何とも罪深く、地獄の底で閻魔様から厳しい罰を与えられるのは確定で、お釈迦様が、蜘蛛の糸を垂らしてくれることもまず無いであろう。

しかしながら、これが自然本来の営みである。生きるために、食べ物を口にするために、常に生き残りをかけて闘っている。これは、ごく自然なことである。そしてこれが、生命本来のあり方である。自然界は競争で満ち溢れている。命を育てる仕事をしていない者には、想像もつかないことであろうが、この事実は正しく理解してほしい。農業体験や職業体験などで、もちろんそれ自体は、大変歓迎されるべきことなのだが、”自然の恩恵”や”農業の恵み”など、農業の表面的な良い部分だけを見て理解するのは止めてほしい。厳しい生存競争を経た結果、恩恵や恵みがあることを理解してほしい。
話は少し逸れるのであるが、ここまで書いて、自分がなぜ農業体験や食育に拒否感を覚えるのか、はっきりと分かった。それは、農業の上っ面の良い部分だけを見て、分かったようになっているからだ。農業は、食べ物を作ることは、命を育てることは、そんなに生易しいことではない。自然界は厳しい競争で満ち溢れている。

厳しい生存競争としての農業、これが今回お伝えしたいことである。そして更に、この事実から思いが膨らみ、現在の日本社会に対し、疑問を投げかけたいことが大いにある。
・農家が、日々生き残りをかけて必死に闘っているように、現在日本社会の多くの人は、必死に闘っているのだろうか?農家がその結果を耐え忍ぶように、多くの人はその結果を受け止めているのだろうか?
・本来、生き残りをかけた競争が自然な状態なのに、あまりにも競争が避けられていないか?安易に闘いを放棄していないのか?
・以前のブログで触れたこともあるのだが、農家の立場からすれば、会社組織は”生活協同組合”のようにしか見えない。個々人が個々の生として、責任ある努力をしているのであろうか?また、きちんと結果が下されているのであろうか?

命に対する仕事は、情け容赦ない。でも、それでいい。生きるのは厳しいこと。そして、日々、草や虫が休みなく闘っているのと同じく、ただ自分は、日々、闘い続けていこうと思う。