地産地消という言葉は、市民権を得て根付き、かなりの年月が経ったように思う。そして、地産地消は、単に地元で生産されたものを地元で消費するという活動を指すに止まらず、食料安全保障(食料自給率)、食の安心・安全、食育、そして最近は持続可能性・SDGsの考え、その時々の社会的背景や時代の要請も取り込みながら発展し、社会から一定の支持を得ていると思う。
ただ、そのような正しい考え方であると思う地産地消だが、実際の取り組みや主張の内容には、疑問を抱かざるを得ないことが少なからずあり、個人的には無条件で賛同出来ず、きっちりと是々非々の賛否を示して臨むべきことと思っている。
そこで今回は、地産地消の考え方を、まず整理し、次に疑問に思う点を取り上げ、最後にどのように扱われるべきかを論じて行きたいと思う。
まず、そもそも地産地消という考えは、昭和のバブル期と前後して、農産物の大量生産・大量輸送の体制が全国的に構築され、効率的な流通が実現した一方、低い鮮度などのデメリットが顕在化し、そこを埋めるために始まった地域内消費から、自然発生的に生まれた考えではないだろうか。特に地方においては、すぐ隣の畑で作っているものなのに、わざわざ東京の市場に一度持って行かれ、そしてまた地元のスーパーに戻ってきて、消費者が実際に手にするときには鮮度を失い、美味しくも無くなっている。せっかく地元で作っているものなのだから、そのまま地元で買い求め、新鮮で美味しいうちに頂こう、というのが、ごく自然な流れであったのだろう。しかも、この新しいルートは、明確なメリットが消費者と生産者双方に存在する。消費者にとっては、ただ単により新鮮で美味しいものを買い求められるようになっただけではなく、農家が直接出品する農産物は中間流通コストが削減されており、スーパーより安く買えるという更に大きなメリットもあった。一方の生産者にとっても、それまでの市場出しでは、厳しい規格や数量を守っても、安い手取りにしかならないところを、比較的自由に販売出来るにもかかわらず、手取りがそこそこあって有難いものであった。このように、生産者と消費者のニーズがマッチし、経済的な合理性を持ったが故に、平成初めの頃から、道の駅も含めた直売所が、全国的な広がりをみせたのではないだろうか。そして、直売所の広がりと共に、地産地消という考えも広まり、支持されるようになったのではないだろうか。
そして、冒頭で触れたように、地産地消には、前記生産者と消費者のニーズのマッチによる地域内生産消費に止まらず、様々な社会文脈上の意味も付け加えられてきた。食料安全保障(食料自給率)に関しては、日本の低い食料自給率を背景に、地元のものを積極的に消費することが、ひいては国産農産物の消費拡大に繋がるとされた。食の安心・安全については、地元産で顔が見える関係の取引で、食の安心に寄与するものとされた。食育に関しては、食の生産と消費の現場が切り離された現代社会において、地域内での物理的・精神的な距離の近さを活かし、生産現場と食の理解を促進する役割を期待された。そして最近の持続可能性・SDGsに関しては、農業と表裏一体の地域社会の活性化や輸送コストの削減を期待されているようだ。
ただし、これらの意味付けについては、あくまでも後付けの理由であり、前記の経済的合理性から自然に生まれ、広まった考えとは性格を異にするものだろう。考え方自体は、決して100%間違っているとは言えないが、十分に当たっているとも言えないのではないか。地元産農産物を消費することが、外国産農産物の消費を代替することも”あるかもしれない”、地元産のものを食べるほうが、安心で”あるかもしれない”、生産現場が近いことで、食の理解に繋がることも”あるかもしれない”、地域社会の活性化や輸送コストの削減に繋がることも”あるかもしれない”。地産地消がそれらの社会的要請に応えるのに、少なくとも短期的に経済合理性を持つことは無く、あるいは追加のコストを必要とし、しかも、直接的な因果関係では結ばれず、副次的な効果として多少結果として伴うだけのことだろう。
そして、この話の流れのまま、地産地消の考え方について疑問に思うところに議論を移していきたい。ここでは3つほど、考える視点を提供したいと思う。
まず1つめの視点は、地産地消のアピールをするときに、真に消費者にとってのメリットを提供できていないのではないか、ということである。これはどちらかと言うと、生産者含む販売側の問題であるのだが、そこで売っているものは、本当に地元産のものでしか生むことの出来ない価値を持っているものであろうか?他の地域から同程度のものを簡単に調達できるのではないだろうか?そのように思ってしまう場面が多々あるのである。特に最近は、流通網がさらに発達し、遠くの産地からでも地元産のものと変わりない位の鮮度で手に入れられ、むしろより鮮度が高いことさえある。そのような状況で、単に地元産というだけで価値があるとすれば、それは合理性など全くないことで、もしそこに価値を見出すのだとしたら、それはほとんど宗教的な盲信と同じである。百歩譲って、地元産に対して親近感を持つことはできても、本質的に価値が多く備わっている訳では無く、もしその親近感に頼るのだとしたら、それは単なる甘えであろうし、真の顧客価値を無視した、独善的な価値基準でしかない。そして更につけ加えると、もし親近感が高じて郷土愛が来るのだとしたら、郷土愛自体は素晴らしいものではあるが、これはナショナリズムに通じる単なる思考停止でしかないように思う。
次に2つめの視点は、前記1つめと重なるところで、むしろそれをより俯瞰的に捉えた考え方になるのであるが、地産地消というそれ自体が、無条件に肯定され、目的化されていないか、ということである。地産地消の活動自体は、生産と販売のギャップを埋め、これまで届けることができていなかった顧客価値を届けるところに意味がある。だから、地産地消自体は、その様な顧客価値を届けるという目的を達成するための手段でしかなく、決して目的であることはない。しかしながら現実には、地産地消であるだけで称賛され、地産地消活動のゴールを、地産地消それ自体に設定しているようにしか見えないことが多くあるのである。これでは論理の循環であり、手段の目的化に他ならない。手段の目的化は、この人間社会ではよく見られることであるし、これは一種の心理学で言う学習効果でもあるのであろうが、混同すべきではなく、ましてや、盲目的に地産地消を称賛すべきではない。
最後に3つめの視点は、前述2項に比べるとかなり小さい話になってしまうのであるが、持続可能性・SDGsの考え方で言及される、フードマイレージという概念は、とんでもない詭弁であるということである。フードマイレージとは、農産物の移動距離を捉えて、その輸送距離が長いとそれだけ輸送コストがかかり、輸送に伴う燃料消費のCO2がより排出される、という考え方らしいが、農産物1つ1つの輸送距離の絶対値など何の意味もあるはずも無く、正しく重要なのは農産物の”単位あたり”の輸送距離やCO2含む輸送コストであるはずである。そうすると、地域内で小規模で生産消費活動をするよりも、実は遠方で大量生産し大量輸送する方が、”単位あたり”の輸送距離やコストは低いかもしれない。そこをきちんと検証した上で、よりコストの低い方法を選択すれば良いだけのことで、輸送距離の絶対値だけをセンセーショナルに取り上げるフードマイレージは、実にミスリーディングで、論理的に全く正しくない詭弁であると思う。
以上、地産地消の考え方について疑問に思うところに対する3つの視点となる。纏めると、地産地消活動によって、本当に地産地消だからこそ提供できる価値を、提供できているのか、その提供するところを忘れて、地産地消であるだけで良しとしていないか、というところである。
その上で締め括りとして、地産地消がどうあるべきかについて考えてみたい。
これは、地産地消だからこそ提供出来る顧客価値が何であるのか、よく考え、確かに実行することに尽きる。それは他の地域からでは手にいれることの出来ない、新鮮で美味しい農産物であることがまず第一で、その上で、顔が見える安心感、食育機能、地域社会の維持発展への貢献となるだろう。逆に気をつけるべき点として、地産地消それ自体をゴールとしないこと、前述の様々な顧客価値の優先順位を間違えないこと、きちんと顧客価値を実現できているか常に冷静に一歩引いてチェックすること、である。
最後の最後で爆弾発言のようであるが、現在の地産地消活動の多くは、ある一定以上の市民の支持を得られていないと思う。これは、消費者が直感的に、地元産の農産物にそこまで価値を感じられずにいると共に、地産地消活動の正当性に疑問を感じているからではないだろうか。実際、自分が見る限り、地産地消活動の多くは、それが好きな人の内輪のサークル活動、もっと言うと宗教的・布教的活動に止まっているようにしか見えない。しかしながら、上記の地産地消が本来あるべき姿を注意深く捉え直し、正しく顧客価値を提供できる活動になることが出来れば、今後もっと広く市民の支持を集め、より社会の大きな流れとなれるのであろう。