ニュースリリース ー 当園のホップ栽培と横浜ビール様との取り組みが、TV等で取り上げられました

当園が7年前から栽培を始め、6年前より横浜ビール様で使用頂いているホップについて、その取り組みをテレビなどで取り上げて頂きました。

NHK BS プレミアム「ニッポンぶらり鉄道旅」9月7日本放送
「一生の仕事を探して 横浜市営地下鉄ブルーライン」
 ・・ホップ収穫~ホップ手揉み~ビールの釜に投入するまでを放映頂きました。
https://www.nhk.jp/p/buratetsu/ts/Z6WKLNWR93/episode/te/XZW1VG643L/

FM yokohama 「KIRIN PARKCITY YOKOHAMA」youtube公開動画
「KIRIN ビール講座 第4回目 ビールに欠かせない原料のホップについて」
https://youtu.be/-W2O0H5vbS8

日本農業新聞 8月13日 神奈川版トップニュース
 「ホップ収穫から農の魅力を発信」

タウンニュース港北区版 8月25日
「農業の魅力、広く伝える 1年越し ホップ栽培見学ツアー」
https://www.townnews.co.jp/0103/2022/08/25/638991.html

ホップ栽培を始めた時から目指していることですが、出来上がったビールを楽しんで頂くことをきっかけに、横浜でも農業が盛んに行われていることが広く知られ、横浜農業への理解が広まり、横浜農業の振興に繋がることを願って已みません。
当園は、今後もホップ栽培等を通して、地域の農業振興のため、力を尽くして参ります。

ニュースリリース ー 当園考案の画期的な玉ねぎ定植方法が現代農業で紹介されました

雑誌「現代農業」の最新号2022年9月号で、当園園主(JTFファーム株式会社 代表取締役社長 古川原 琢)が考案した、画期的な玉ねぎ定植方法が紹介されました。(p143、タイトル:タネバエ・雑草問題なし!タマネギ苗を100均カニフォークで高速定植)

※当発明は、2022年10月4日 日本農業新聞 首都圏面で、「カニフォークでの野菜定植を考案 効率化や害虫予防に」としても、取り上げて頂きました。

この方法は、時間と労力のかかる大変な玉ねぎ苗の定植作業を、楽に、早く、正確に行うことができるようにするものです。また、記事タイトルにあるように、100均ショップで手に入るカニフォーク1本で実現でき、非常に低コストで高メリットを生むことができることが大きな特徴です。また、それに止まらず、全マルチ栽培でマルチ穴の極小化を可能にすることで、玉ねぎの成長過程で必要になってくる非常に労力のかかる草取り作業を全く不要にし、タネバエの虫害も防ぐという、後工程の問題も一挙に完全解決する、玉ねぎ栽培全体における大幅な省力化を可能にする画期的な方法です。

この方法は、日本の多くの農家で導入可能で、農作業の省力化に大きく貢献できるものと考えております。少しでも多くの農家にこの方法を知って頂き、農家の作業を改善することで、日本農業の発展に寄与することができればと願うばかりです。
弊社は引き続き、自社と地域と日本全体の農業発展の為に、力を尽くして参ります。

タマネギ全マルチ栽培、カニフォーク定植の様子(※この動画では、苗はネギ苗で代用)

 

休日の必要性

農業の世界でも、世間一般の働き方改革の流れに合わせて、休日を取れるように働こう、という流れになっているようだ。いやむしろ、農業でも休みが取れる経営が良い経営で、取れない経営が悪い経営だ、というくらいの論調さえある。しかしながら、自分はそこに強い違和感を抱かざるを得ないのである。それは本当に”正しい”価値基準に基づく判断なのだろうか?ある特定の価値基準の押し付けではないだろうか?

具体的な議論に入る前に、農業の休みの取り方の現状を再確認してみる。確かに、農業を仕事としていると、休みを取れることは少ない。ピーク作業時には、休み無しに連日やることに追われて働かなければいけないし、作物は人間の都合に合わせて生育を止めてくれないので、収穫の仕事など始まったら待った無しの状況になる。特に、一日でその姿形を大きく変えてしまう、きゅうりやなすなどの生り物を作っていると、毎日採り続けなければならないので、その長い収穫期間中は、一日も休むことなどできない。これが更に、自分の様に多品目経営をしていると、大体常に手元に何かしらの苗があり、毎日その水やりが欠かせず、それだけでもその日の仕事がある、とカウントできるなら、それこそ年中無休とまではいかなくても、年間360日くらいの労働日数となる。農業のスタイルによって農繁期や農閑期の差があるけれども、農業を本業で生業としている人には、なかなか休みが取れないのが実情ではないだろうか。

しかしながら、休みが取れないという事実と、休みが取れないのが悪いということは、イコールで繋がらないと自分は考える。その理由は、一般的な農業者の価値観によるところと、自分個人の価値観によるところがある。

まず、一般的な農業者の価値観による理由であるが、自然相手に仕事をしている農業者として、自然と湧き上がってくる思いがある。それは、先程も触れたように、日々成長を続ける作物を前にして、作物の都合に合わせて仕事をするものであり、また、自分が日々、生き残りの闘いを繰り広げている草や虫、或いは、天候が、自分を待ってくれる訳ではないので、自分の仕事は自然の成り行きに応じてしなければいけない、という思いがある。農業の仕事は、自分を取り囲む、全ての自然の事象が回る中で、自分がその片隅で仕事をしているだけに過ぎず、全ての自然が常に動き続けているように、自分も動き続けなければいけない。だから、そこに休むとか休みが必要という概念は、そもそも生まれないし、存在もしないのである。人間の思考の勝手な産物である、”休み”など、自然界にはそもそも当てはまらない。そして同様に、農業の仕事にも当てはまらない。自分はただ、虫や草の様に、ただ動き続けるだけのことなのである。そして、これが自然の中で、自然と共に生きる、生命本来の姿なのである。これが農業を営み、農業で暮らすものの、ごく自然な思い、価値観なのではないだろうか。だから余談ではあるが、この感覚を持つに至らない、この仕事で暮らしを立てたことがない人に、休みを取りましょうなどと言われると、ただ心外に思うしかないのである。農業者は全く別の世界で暮らしている。

次に、自分個人の価値観による理由であるが、仕事とはそもそも、休みの必要な苦しいことでなければならないのだろうか?確かに苦しいところが無い訳では無いが、この考え方は、近代以降の経済学が前提とする、労働は対価を得る為の苦役であり、人はなるべくそれを少なくしようとするのが合理的な行動である、という考えに、世の中毒され過ぎていないだろうか?自分は、資本主義を信奉しているし、経済原理主義者であるとは思うが、この点だけはどうしても納得がいかない。自分にとって、農業の仕事は、趣味であり、仕事であり、そして、自己実現であり、社会貢献である。したいこと、しなければならないことが山ほどあり、その中で成したいこと、成さねばならぬことが山ほどある。そこに休みは必要なのであろうか?いや、休みが必要という考えが、そもそも適切なのであろうか?少し話がずれるが、欧米の社会エリートは、本当に休みなく働いていると聞く。自分は、ある意味、社会の最底辺の一次産業の一生産者に過ぎないので、重ね合わせるのは間違っているだろうが、仕事に自身の成功と社会への貢献を重ね合わせられたとき、自然とそのような判断と結果になってくるのではないだろうか?

更に話がずれるようであるが、関連した話として、仕事における休みの有無と知的生産性は、全く関連せず、知的生産性は、休みが無くても落ちるものではないと思う。いや、むしろ、知的生産性ほど、時間と肉体的労力の制約を受けないものはなく、逆に、これまでの経験上、追い込まれた時ほど、良い閃きやアイデアが生まれるものである。仕事における知的生産性を維持するための休みは必要で無い、という意味でも、休みは必要とならない、という点も付け加えておく。

以上の話を纏めると、一般的な農業者の価値観においても、自分個人の価値観においても、農業の仕事で休みが必要という考えは、そもそも当てはまらない。だから、休みが取れないことが悪いのかどうかの判断はできない、というのが相応しい答えであると思う。そしてそのような世間一般と別の価値基準が、理解され、尊重されることがあっても良いと思う。
ひとまず自身においては、ただ自然が回り動くように、自分も動き続け、前へ進もう。
自社と地域と日本全体の農業の為に。

アロマフルな話 ー 鮮度が重要な野菜、重要でない野菜

久々に野菜の味について書いてみたいと思う。最近は小難ししいことを書くことが多かったが、気軽に読めて、為になる農業の話。

野菜には、味の決め手のひとつである「鮮度」が、重要な野菜と重要でない野菜がある。つまり、鮮度によって味が落ちやすい野菜と落ちにくい野菜がある。これは一般には意外と知られていないことに思う。更に言うと、その差には適切な科学的な理由があり、簡単な理由で説明がつくことは、もっと知られていないと思う。今回は、そのような話をしたいと思う。

まず、どういう野菜が鮮度が落ちやすい野菜なのかと言う理由なのであるが、これは一言で言い表すことが出来て、細胞の呼吸速度が速い部分の野菜は鮮度が落ちやすい。科学的に考えれば当然のことである。呼吸速度が速い部分は、収穫して栄養供給源から断たれてしまったら、自己の細胞内に蓄えてある養分を急速に使い果たすしかない。そして、これは多くの場合、甘味の元になる糖分から消費される。そして、甘味やその他の味のしない野菜となってしまうのである。

また、呼吸速度が速い部分の野菜とは、言い換えると、成長が急激な部位の野菜と同義である。成長が急激な部位の野菜、という方が現実には分かり易い。そこで、まず、その成長が急激な部位の、鮮度が落ちやすい野菜について、列記してみたいと思う。

1)未熟果を穫る生り物(実をとる野菜のことを農家はこのように呼ぶことが多い)の野菜。ナスやキュウリなどがこれにあたる。これらは1日というより、朝と晩で姿形を大きく変えてしまう。トウモロコシやオクラも、成長スピードが速く、収穫適期はほんの一瞬しかない。これらの果菜は、穫り立ては、一般のスーパーに売られているものと違い、甘さに満ち溢れているものだ。一方、完熟果で穫るトマトは既に成長が落ち着いてしまっているからなのか、意外と鮮度で味が変わり難い。

2)芽や花など成長点にあたる野菜。アスパラガスや菜の花、ブロッコリーなどがこれにあたる。春のものが多いであろうか。これらもまだ気温の低い春にあって、一雨降った翌朝などには、畑の景色が昨日までと全く違っていることなどよくあることである。これらも穫り立ては、実に甘く、穫った日だから味わえる、極上の味である。

3)未熟豆を利用する豆類。野菜として扱われるほとんどの豆類がこれに当たる。枝豆、空豆、生落花生、エンドウなど。どれも全て、味のピークのタイミングがとても短く、収穫に、常に細心の注意が求められる。そして言うまでもなく、穫ったその日と翌日では、甘みが大きく違う。穫ったその日のものを食べて頂ければ、これまで食べていたものは一体何だったんだろうと思って頂けるはずである。

以上、鮮度が重要な野菜について纏めてみた。色々あるが、その中でも鮮度が最も重要なものは、トウモロコシ、エンドウ、次に枝豆であろうか。これらは、穫って半日でも、味が落ちると自分は思う。だから、食べる直前に穫るのが一番である。トウモロコシは、お湯を茹でてから畑に穫りに行け、と言われるそうだが、正にその通りであると思う。

では逆に、鮮度が重要でない野菜についても纏めてみたいと思う。それらはこれまでと逆の、成長がゆっくりな野菜が該当する。

1)葉物野菜全般。これらは成長が遅い訳ではないのではあるが、それでも前述の鮮度が重要な野菜と比べれば緩慢である。だから、収穫後結構時間が経っても意外と味が悪くなっていなかったりする。小松菜などは、逆に熟成したような味に変わり、それはそれで美味しいと思う。更に、結球する葉物野菜、キャベツ、白菜などは、成長により時間がかかっている為か、より一層、収穫後時間が経っても味の変化が小さい。なお、葉物野菜でも例外が無い訳ではなく、モロヘイヤなどが該当する。そしてそのような野菜に共通しているのは、収穫後、自身が熱を持つ。葉物野菜でも、呼吸速度が速いものもあるようである。

2)根菜全般。前記葉物野菜以上に、鮮度の影響を受けないのが根菜である。成長も、もっとゆっくりである。これらは、保存も効くし、常備菜として扱われる性格のものである。だから、大根などは、抜き立てで決して悪いことはないのではあるが、大根穫り立てです、と言われても正直何の意味もない。むしろ、大根の鮮度を訴える売り手がいたら、疑った方が良いかもしれない。

3)乾燥、追熟が必要な一部の野菜。乾燥が必要なものでは、玉ねぎ、にんにくなど。追熟が必要なものでは、じゃがいも、かぼちゃ、さつまいもなど。ここまで来ると、むしろ鮮度とは違う概念になってきてしまうが、収穫から時間が経っている方が良い野菜もある。玉ねぎは、収穫直後は辛みが多いが、乾燥・保管する中で、段々辛みが抜け、甘味がより感じられる。じゃがいもやかぼちゃは、悪くなる寸前まで追熟したものが味のピークで甘味が最も強い。だから、皺々になったじゃがいも、へたの周りが崩れ始めたかぼちゃは、とても価値がある。さつまいもは、掘り立ては、ほとんど甘くないので、だから大学芋にでもしないと食べられない。最低1か月は追熟で寝かせて、焼き芋用の品種だと2か月は寝かせてからでないと、その味の良さが出ることはない。

以上、鮮度が重要でない野菜についても纏めてみた。重要でない、と言っても、時間の経過で萎れていたりしたら、もちろん食味も悪くなるので、その意味では鮮度も重要なのだが、今回その点は考慮していない。保管状態が良かったときに、時間の経過と共に味が悪くなり難いもの、という意味で纏めてある。

今回の記事では、鮮度が重要な野菜と重要でない野菜について、纏めてみた。これらの区別は、意外と理解されていないことに思う。それでも、この記事を参考に、単純な原理原則に従って区別されることをご理解頂き、今後のお買い物に活用して頂ければ幸いです。

 

副業的農家の存在意義と農業政策が産業・社会政策となる理由

最近書いてきたブログでは、農家と呼ばれるに相応しい基準や、生業として農”業”をしていると言えるのかという基準などについて、手厳しく論じてきた。そこでは、副業的農家と呼ばれるような人々の多くの地位に対し、疑問を呈し、否定的な考えを示してきた。この、精神的にも経営的にも強靭でなければ農家とは言えない、という自分の考えが将来変わることは決して無いと思う。しかしながら、またこれまでのブログとも矛盾するようではあるが、先程の意味で”弱小”と捉えられる農家の人達を実際に目の前にして、その人達の努力や存在を否定できるのかと言われると、とてもそんな気持ちにはなれないのである。

それは、ひとえに、そのような人々が、同じ農家社会・地域社会を形作る一員だからである。同じ共同体に属し、共通の利益を共有している仲間であるからである。見かけ上の共通の利益は何もないようで、共にそれぞれ農業をしている、という事実だけで、既に共通の利益を共有している。なぜなら、自分が農業が出来る、やりやすくなるのは、近くで別の人が農業をすることで、自らが農業が出来る、やりやすい環境が、様々な点で整えられるからである。農業は、非常に外部効果の高い特異な産業であり、自分のすることが周囲に容易に大きく影響し、周りのすることも自分に大きく影響する。だから、たとえ共通の利益を共有しないようでも、同じ共同体の一員で、同じ農家社会・地域社会を形作る限り、既に共通の利益を共有している。だからこそ、その人達がどんなに弱小と捉えられる農家の人であっても、無碍に扱うことなど到底できないのである。

そのように考えると、小規模零細で、農業以外の収入が主たる副業的農家の位置付けは、低くされることも、また高くされることも無いと思う。更に言うと、結果として副業的農家であっても、農家として生き残れるのであれば、経営的・産業的に正解でなくても、社会的には正解なのではないかと思う。そして、これも1つの正しい農業のあり方なのではないかと思う。そして、自分の周りの”弱小”とも捉えられる農家の人達は、十分にその役割と存在意義を果たしていると思う。

ここまで気付いたとき、農業政策は、純粋に産業政策のみであることは有り得ず、同時に社会政策にもならざると得ない、とも気付いたのである。ここに農業政策の難しさがあるのではないかと思う。短絡的に農業振興を図るのであれば、”強い”農家を育成するための産業政策のみをどんどん取れば良いのかもしれない。しかし、”強い”農家のみで、本当に”強い”農業産業が実現されるのであろうか?農業が地域社会や共同体の上に成立しており、また、外部効果の高い産業としての特異性を鑑みると、どうしても同時に社会政策の性格を帯びた農業政策を取らざるをえないのではないか?社会政策として、農家全体の底上げを図りながら、更に産業政策として”強い”農家の強化が、農業強化の為に必要な農業政策なのではないか?

あと、やや話がずれるが、農業の外部経済で、農業の”多面的機能”とも呼ばれる、景観や環境維持や教育機能などがあるが、基本的に自分はその辺の議論には、中立的な考えである。多面的機能は無い訳ではないと思うが、直接的に経済的な価値に置き換えるのが難しいだけに、農業そのものが産業として生み出す価値以上の価値が強調され過ぎるのは良くないことと思う。あくまでも産業としての農業が価値を生み出す主体であり、”多面的機能”については、副次的な効果として取り扱われるべきと思う。

今回は、副業的農家の役割と存在意義、そこから導き出される、農業政策が産業政策であると同時に社会政策となる理由について考えてみた。自分の周りには副業的農家の人の割合が多いが、皆、社会的な役割を立派に果たされている農家の人々であると思う。そして、そのような人々と”強く”生きる農家、双方の為になる農業政策が実行され、互いに繁栄できればと思う。

経営での評価一辺倒に異議あり

昨今の社会情勢を見ると、資本主義の行き過ぎが見直され、自社の利益よりも社会全体の持続性への貢献が重視されるようになってきているようであるが、どうやら日本の農業界においてはその逆で、経営の評価が、狭義の経営(規模、売上、利益)において、重視される風潮が広がってきているように思う。
これは、良い悪いの問題ではなく、社会的な文脈上そうなるのだろうと思う。現在、日本の農業界は、担い手の減少に伴う経営規模拡大や収益向上が求められている局面にあり、狭義の経営が重視されるのは、当然の帰結であると思う。しかし、どうもその風潮に強い違和感を感じずにはいられないのである。

確かに、営む農業が経営として成立していることは重要である。いや、必須条件である。それ無くして、持続性のある農業など存在しない。自分もそれを重視している。過去数回に渡って、その様な内容で、ブログ記事も書いてきた。規模や売上や利益が大きいことが望ましいことに間違いはない。そして、農業の世界で、そのようなビジネス上の成功は稀少であり、称えられ、持ち上げられてもいいと思う。更に言うと、それらは社会の必要を満たした結果であるだろうから、その意味でも望ましいと思う。
余談であるが、宅配型経営の評価には十分な注意が必要である。それは、たとえば2000円の生産物を1000円の送料を乗せて、3000円で売って、総額を売上としているケースが多いとみられるからである。また、ネット販売の場合、更に売上の3~5%の決裁手数料がかかる。なので、純農業生産高は売上の2/3程度で、逆に言うと、5割ほど売上をかさ増ししている可能性が高い。

さて本題に戻り、しかしながら、必要以上に、狭義の経営(規模、売上、利益)で成功を持ち上げることは正しいことなのであろうか?これには、痛烈な反論がある。規模や売上や利益を捉えて成功を称えるならば、それは、成金が自身の成功を自慢しているのと、本質的には何も変わらない、ということだ。何の意味もないことだ。
農業の世界であっても、ビジネス的に成功したということは、時流に乗って商売が上手く行った、というだけのことで、それ以上の何にでもない。顧客や社会のニーズを満たし、その対価を受け取った結果であるのが事実であっても、本当にこの世の多くの人を幸せにできた訳ではないのではないか。この社会に本当に貢献できた訳ではないのではないか。
最大多数の最大幸福という言葉がある。そして、この概念は、時間軸も取り入れると、非常に複雑なものになるが、その視点で考えると、少なくとも、一時の流行りやブームにしかならなかったものが、最大多数の最大幸福を実現したとは、言えないのではないか。ひと時の上手く行った経営が、長年に渡り、人や社会に幸福をもたらすとは、言えないのではないか。

だから自分は、経営での成功は、必要条件ではあっても、真の意味での成功ではないと思う。時代の波に洗われて消えてなくなるものは、真の成功ではないと思う。本当に重要なことは、時代の波に打たれても、なお残り続け、そして人類社会に貢献し続ける仕事の成果であると思う。自分は農業の世界でそのような仕事をして行きたいと思う。やりたいことは沢山ある。出来ることも沢山ある。人類社会に400年残り、貢献し続ける仕事をしよう。

続・農家の”資格”

もう3年も前になるが、「農家の”資格”」という記事を書いた。その記事では、農家である/なしは、社会的文脈によって定義づけられるとした。今でも、社会的な観点から考える定義は、その時から変わるところがない。しかしながら、自分個人の思いとしては、大分違うようになってきたと思う。それは、自身の経営が発展し、同時に周りの環境が変わったからかもしれない。今回は、その個人的な思いとしての、「農家の”資格”」について、考えを纏めたいと思う。

その農家の”資格”=農家として認められるのか否か、についてであるが、表面的に捉えられるところと、直ぐに捉えられない精神的なところ、の2つの判断ポイントがあると思う。

まず、表面的に捉えられるところであるが、農家として人を認められるのか否かは、仕事をする時間や労力の大半を、農業に費やしているか否か、ということになると思う。農家は、兼業が多い。また、農外収入の方が多いことが多い。特に都市近郊農業においては。なので、他にすべき仕事があったり、得る収入もあったりするのではあるが、そのような中でも、農業を仕事の中心に据えて、時間と労力の大半を農業に注いでいるか否かは、重要な点であると思う。農家の言葉を使えば、「毎日」「朝から晩まで」「畑に出て」「よくやっているな」ということになると思う。もちろん、これらの条件を満たせば、農家として良い農家だ、ということにはならないのではあるが、農家同士の会話でよく出てくる「あいつは農家をよくやってる/やってない」という言葉とその判断基準は、間違っていないと思う。

次に、精神的なところについてであるが、前記、時間や労力の大半を農業に費やすことによって生まれる、心の持ちよう、在り方、があると思う。それはこれまでこのブログ他記事に書いてきた通りであるが、全ての苦難や運命を引き受けて、それでも尚、前に進もうとする希望の意志、生きるか死ぬか(≒生活できるかできないか)のギリギリの線でも日々闘い、それでも決して諦めようとしない生の意志、とでも言えばいいであろうか。草や虫が、日々必死に生きようとしている、その生命の輝きと同じところである。
だから、農家ならば、台風被害を嘆いたりはしない。何があっても、心折れたりはしない。ましてや、だから半年遊びに行こうなどと、冗談でも絶対に言ったりはしない。この仕事の収入で出来ない買い物をして、見せびらかしたり、配り回ることはしない。

余談が続くようであるが、”自分は農家だ”という言葉は、農家をやっていない人ほど、不思議と言いたがる。そもそも、本当に農家をやっている人は、むしろ、自分が農家である境遇を惨めにさえ思っているので、そう言いたがらないものだ。だから、自分は農家であると、言って回る人は、ほとんどの場合、大して農業をしていない人である。逆説的のようであるが、それが真実である。なお、極端な例では、農業に関わったことがあるだけの人が自分を農家呼ばわりすることさえある。農業に関わることと、農業で生きていくことは、天と地ほどの差、と言うよりはるかに大きい、上記人生観と世界観の達観の有無があるというのに。だから、更に言うと、農家がよく言う「農業やってから言え」という言葉は、単なるポジショントークではなく、農家の達観した人生観と世界観を踏まえた、非常に意味の重い言葉なのである。

以上、農家の”資格”の判断ポイントを個人的に思う点について、纏めてみた。日々、農業の仕事を行い、きちんとした心構えを持つ人間こそが、農家と呼ばれるに相応しい。そして、自分がそのようであることを誇りに思うと共に、幸せに思う。そしてまた、そのような仲間達と共に、これからの農業を切り拓いて行きたいと思う。

農業体験をしない訳

自分は農業体験を商売として行っていない。また、したくもないと思っている。理由は単純で、農業が楽しいとか、面白いとか、気持ちいいとか、思って欲しくないからである。以前のブログで記したように、その様な感情は、農業のほんの一面でしかない。だから、そのような部分だけを切り売りして、間違った農業のイメージを、意図しようと意図せざるとも、広げるようなことはしたくないのである。農家にとって、特に新規就農者にとって、農業の観光業化は、現金獲得の手っ取り早い手段なのかもしれないが、たとえ、金銭的利益になると分かっていても、自分は行いたくないのである。そう思うのは、農業を生業とし、農業で飯を食う苦労を分かっている者の誇りのせいかもしれない。しかしながら、この思いは、ほとんどの農家と通じる、農家の間で一般的な感情に思う。

なお、ここで言う農業体験の定義は、所謂、観光農園や芋掘りなど、収穫を客自らが行い、その成果物を客が消費あるいは持ち帰るものは含まない。それは、対価の主たる目的が、農作業では無く、成果物であることがはっきりしているからだ。その逆で、対価の主たる目的に、成果物が無く、農作業である場合を、ここでの”農業体験”の定義としたいと思う。

その農作業を対価とした農業体験なのであるが、確かに、農家でない一般の人が、農業体験によって、楽しみや面白味を覚え、リフレッシュした気持ちになるのはよく分かる。なぜなら、自分も以前は同じ側にいた人間だからだ。事務所で椅子に座り続けて仕事をする人間にとって、屋外で陽に当たり風に吹かれ、土にまみれて体を動かすのは、何とも気分爽快なことであろう。
しかしながら、農業を生業とし、生計を立てるために、作物を栽培し販売する、その為の農作業で農家が思うこととは、天と地ほどの差がある。そこに楽しみや面白味を感じる余裕は無い。リフレッシュした気持ちなど、生まれようもない。確かに、自分自身も研修時代は、農作業は手放しで楽しかった。何の責任も重圧も無く。しかし、いざこの仕事で生計を立てるとなってから、農作業で感じるものは、焦りや疲れ、苦しい感情でしかなかった。

だからこそ、農作業が面白いなどと言われても、苦々しく思う他ないのである。そして、思ってもいない“農業の面白さ”を売りにして、商売が出来るなどと到底思えないのである。普通の農家の、普通の感情に従えば、普通に出てくる結論であると思う。

一方で、農作業を面白いと思う人が現実に多くいることは分かるし、それは否定できない。それにお金を払いたい人がいることも分かる。そして、そのような需要がある限り、市場原理として、供給の出し手が現れ、需要と供給が一致するのも分かる。ニーズが現に有り、自由な経済活動で解決されていくのであれば、それは社会的には正しいことではないだろうか。

しかしながら、そこには、農業の現状や農家の思いは正当に反映されていない。農業体験の取引の中に含まれていない。いや、そもそも、そのような農家の思いは、取引できる対象ではない。だからと言って、農家の率直な思いに反し、一面的な農業の良さを取引の対象とすることは、好ましいことなのであろうか?そして、農業の一面的な良さのイメージが、大方の事実に反して、強化されるのは、好ましいことなのであろうか?

ここまで考えた時、農家の思いを正当に取引の中に含めることができる農業体験であるならば、自分も農業体験をしても良いのではないかと気が付いた。そのような農業体験が成立するのかどうかは分からないのではあるが。そもそも、この農家の率直な思いを正当に理解してほしい、というのが、本ブログを書き始めてからずっと共通する、根底に流れる考えでもある。最後に結論をひっくり返すようであるが、農家の思いを正当に反映させ、取引が成立するような農業体験を売ることを、今後考えて行こう。

生き方としての農業、ビジネスとしての農業

農業を始める動機は、主として、生き方として農業を目指す場合と、ビジネスとして農業を目指す場合に、大きく分かれると思う。なお、自分は後者を目指している、と思っていた。それは、このブログ初回に記したように、農業はビジネスチャンスと思っていたからである。
しかしながら、最近、自分は必ずしもそうではないのではと思うようになった。また同時に、生き方として目指す農業と、ビジネスとして目指す農業は、そんなにきれいに分かれるものでないことにも気がついた。
そこで今回、「農業で目指すもの」という古くて新しいこの問題を、改めて考え直し、整理してみたいと思う。

まずそもそも、そのように考えるようになったきっかけなのであるが、農業を始めてそれなりの年月が過ぎ、見聞が広まる中で、経営的に自分よりはるかに大きく、短期間で、成功している事例を数多く見聞きしてきたからである。そして逆に自身を省みたとき、自分は変わらず小規模で、ビジネスとして間違っていたのではないかと、疑問を持つようになった。
この差はどこから生まれたのだろう。自分の何が悪かったのか/不足していたのか。逆に、大きく成功している事例では、何が違い、何が良かったのだろう。

ビジネスとして農業の正解と不正解の差を考える中で、大きく成功している事例で共通していそうな決定要因が2つ見えてきた。
1つは、”資本の集中投下”。資金調達してでも、しっかり投資をしている。栽培施設か農業機械。更に、ある作物専用である場合も多い。言い換えれば、ピンポイントで大規模な”資本の集中投下”をしている。当然、その様になれば、生産効率は上がり、経営としても上手く行きやすくなるのだろう。
あともう1つは、”事業拡大可能な環境”で経営していること。簡単に言うと、都市近郊でない場所。農業の売上は、やはり面積に大きく制限される。売上の上限の殻を破ってさらに大きくなるには、面積を増やすしかない。そうなると、より大規模に経営発展可能な場所であることは必須であろう。

そう思うと、自分の場合、そのどちらにもあてはまらない。投資はなるべくしないスタンスで長らくきた。その上、少量多品目という、資本の集中投下の効果の出にくい経営を行ってきた。また、都市近郊で、なかなか規模拡大が難しい状況にあった。とは言え、結果論としては、ビジネスとしては間違っていた、と言わざるを得ない。
資本の投下が不十分であったことは、最近その考えを改め、機械装備を充実させ、経営が上向いたことで、改めて再認識した。少量多品目経営については、最近、品目により選択的拡大をするようになって、その生産効率の良さに驚いた。
あと、就農地の選択については、良くなかったかどうかを判断することは正直難しい。都内から近く、有利販売が出来る良い立地であるからである。特に就農当初の経営成立にはプラスに働いたはずであろう。とは言え、規模拡大という点で、良い立地でないことは確かである。

ここまで考えたとき、自分はビジネスとしての農業を志向していたにも関わらず、意外とそうでなかったと気付かされた。そもそも、ビジネスとして不正解であったのは、ビジネス上の選択を間違えたと言うより、それ以前の問題として、生き方として農業の仕方の一部を選択していたから、と言う方が適切なのかもしれない。

生き方として農業を志すというのは、今となっては皮肉のようであるが、自分は非常に否定的に思ってきた。生き方としての農業とは、簡単に想像がつくところで、”農業のある暮らしをしたい”、”田舎暮らしをしたい”、”会社勤めはできないけれども、農業ならできるかもしれない”、などの考えがある。しかしながらこれらは、農業の現実を知らない人の、ただの妄想に過ぎない。以前のブログに書いたように、農業で生きるには、収入面で、サラリーマンよりずっと強いプレッシャーに晒され、ずっと強い精神力を求められる。生き方として農業を行う人生があってもいいとは思うが、経済性が伴って初めて、農業のある生き方ができる。だから、自分は生き方として農業を志したいなど、微塵も思ったことは無かった。

しかしながら、結論から言えば、それでも自身の農業のやり方に、自分の生き方の志向を織り交ぜてきたと言える。投資はするとしても、少量多品目の経営を止めたいと思うだろうか?いや、日々の食卓を彩る数多くの野菜を作るのを止めはしないだろう。都市近郊経営を止めて、地方に移住するだろうか?いや、自分は、都市の便利で機会溢れる暮らしを捨てることはしないだろう。自分の農業経営の幾つかの条件は、ビジネス性より、生き方を優先していた。

そしてここに、生き方として目指す農業と、ビジネスとして目指す農業が、はっきり相反する考えではなく、その境は連続的である、とも気付かされたのである。そして、農業を実際に行う際には、生き方として目指す農業とビジネスとして目指す農業の間の、どこかを選択することになるのであろう。そこには絶対的な解は無い。解は自身で導き出すしかない。但し、勿論、両立が必要なのは間違いない。どちらか一方が欠けても、農業の持続性が欠けてしまう。

そして再び自身の農業の目指すところを省みると、やはり創業時と変わるところが無い。あくまでも経営理念「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」に忠実に、数多くの野菜を作り、お客様にご提供していきたい。その上で、他の生き方の考えと織り交ぜながら、現状で出来ることを出来る限り行い、それでもその可能性は無限大であるのだから、その可能性を追い求め、ビジネスとしての成功も追い求めて行けるはずだ。

ニュースリリース ー 当社の野菜の取り扱い店舗が増えました

当社(古川原農園)の野菜を、10月より自然食品F&F仙川店に、11月より横浜ランドマーク店に新規出荷開始しました。また、横浜ジョイナス店の出荷曜日を変更し、週2回に増やしました。現在、お取り扱い頂いている店舗を纏めますと、以下の通りです。

自然食品F&F http://www.shizensyoku-ff.com/
・自由ヶ丘店       毎週 日、火、木曜 15時頃~
・日吉店         毎週 日、火、木曜 14時頃~
・グランツリー武蔵小杉店 毎週 日、火、木曜 14時半頃~
・玉川高島屋店      毎週 金曜 15時頃~
・仙川店         毎週 金曜 15時頃~
・横浜ランドマーク店   毎週 日、木曜 14時半頃~
・横浜ジョイナス店    毎週 日、木曜 15時半頃~

いずれの店舗でも、午前中~昼過ぎに収穫(一部除く)した、最高の鮮度の野菜を並べて頂いています。
当社は、経営理念「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」に沿って、お客様に喜んで頂ける美味しい野菜をご提供する為、今後も努力を続けて参ります。