農業でPDCAを説く愚

農業でPDCAは意味が無い、と言うのではない。十分意味はあるけれども、工業の世界ほど万能では無い、と言いたいのである。おそらく、この事実は、過去、指摘されたことはほぼ無いのではないだろうか。しかしながら、農業界においても、「PDCA」や「カイゼン」や「トヨタ式」が、声高に叫ばれることがある今、実はそれらがそれほど意味がある訳ではない、と正しく理解されることは極めて重要であると思う。更に言うと、この事実は、農家なら無意識のうちに普通に理解していることにもかかわらず、一方の農家以外の業界関係者は全く知りもしないという、天と地ほどのギャップがあるという事実も、この事実が正しく理解される重要性を、より増しているように思う。

本題に入る前に、まず「PDCA」や「カイゼン」や「トヨタ式」を自分が語る資格についてご説明したいと思う。単なる一農家が、俄か仕立ての中途半端な、インテリ層によくありがちな頭でっかちな知識で、語る訳ではないからである。自分の場合、これらを学び、習得する2つの大きなステップがあった。
1つ目は、学生時代、他学部聴講で受けた経済学部の授業、トヨタ式の研究で高名な藤本隆宏教授の「生産マネジメント入門」の本を基にした、教授の授業を受け、学んだところにある。この授業は、自分がメーカーの素晴らしさに気付き、メーカーに就職することになった大きなきっかけとなった授業でもあるのだが、その授業では、日本のものづくりの強さ、トヨタ式の凄さ、それらを人生哲学にまで昇華させるほどの知の体系として、学ぶことができた。よく本屋のビジネス書の棚に並んでいる、「PDCA」や「カイゼン」や「トヨタ式」に言及した、非常に表面的で薄っぺらいハウツー本とは全く次元が異なる、実に学問的によく検証され体系的に纏められ、その上で組織文化や経営までを論理の体系に組み込んだ、総合的で圧倒的な知、思想、哲学であった。その知に触れることができたのは非常に幸いなことで、自分の中で非常に深く強く揺り動かされるものがあった。
2つ目は、そうして就職したメーカーで営業・マーケティングの仕事に就いたのではあるが、最初の数年で工場の生産管理の仕事を行い、そこで、工場の大幅な改革に成功したところにある。自分が最初に仕事を引き継いだ時は、現場の長でさえもどこで何を作っているのか全く分からず、計画通りの生産、生産量が全く満たされず、不良を山の様に出す工場で、まさに混迷の最中にあった。そこで、先述の授業を学んだことを基に、特別なことは何もせず、ただ当たり前のことを当たり前のように行い、その背景にある、思想と哲学を切々と説いていった。これらは、特に誰からの支援を受けることなく自分単独で、いや、正直、トヨタほどの会社でなければ、その重要性を理解できる人はいないであろうが、実行し、成果を上げることができた。そして、自分が担当を離れる時には、計画通りの生産を行い、生産量を出し、不良品は僅かで、しかも技術開発まで出来る現場に変わっていた。その過程で、現場の荒れていた人心は前向きになり、希望が持てる職場に変わっていたことは言うまでもない。そのように、学んだことをただ愚直に実行し、大きな成果を上げることができたのは、本当に貴重な経験であった。自分の中で生産管理に自信が持てるようになり、そして会社員時代の最も印象に残る仕事となった。

それで本題のPDCAが農業でなかなか適用できない理由なのであるが、一言で言うと、とても単純なことで、自然相手にする農業では、外乱・攪乱要因が非常に大きく、また変動要素は山のようにあり、工業と同じように一定の生産条件を整えることが出来ない、というのが理由である。条件とは、その年の気候、過去一か月、一週間、前日、当日の天気、その時の日射、気温、風向、風速、土の湿り気具合、作物の生育状態、などなど、挙げれば恐らく切りがなく、そして、同じ作業が、それらほんの少しの条件の違いによって、かかる時間が何倍も変わったり、精度が著しく落ちたりする。カイゼンの視点で言えば、「標準なくしてカイゼンなし」なのであるが、そもそもその”標準”を作ることが出来ないのが、農業の特色なのである。ここを勘違いしてはならない。この点は、篤農家ほど良く分かっており、篤農家ほど良く言う、「毎年が一年生である。」と言う言葉に端的に表されている。毎年が異なる条件下で、毎年が初めての状況で仕事を行うからである。そして実際、そこで育った作物の姿形は毎年異なっており、素人目には全く区別がつかないところなのであるが、玄人の目には、結構大きく違うのである。

そして、そのような条件の中で、農家は状況に応じて柔軟に仕事をしている。そこでより重要になり、頼りになってくるのは、実は「経験と勘」である。PDCAのマインドは大事だし、否定するところではないのであるが、PDCAを厳格に適用できない以上、それと同等或いはそれ以上に大切になってくるのが「経験と勘」である。ここに、農業における経験と勘の重要性があり、PDCAの限界がある。
また更に言うと、PDCAにしろ、経験と勘にしろ、農家の仕事は年に一回しか出来ない仕事が多く、何十年のベテラン農家でも、実は数十回の経験しかしたことがない、という特殊な業界の事情がある。工場での仕事のように日に何百回、何千回繰り返しする仕事ではないので、フィードバックが遅く、少なく、習熟に時間がかかる。だからこそ、PDCAでも、経験と勘でも、どちらでも良いのではあるが、それら両方を踏まえた総合的な判断力、これが農業において、最も重要なものになってくるのだろう。

ここまで、生産条件についての話をしていたが、そのような最終的な結果として、収穫がまた大きく変動してくるところも、農業の難しいところである。ほんの一雨、ほんの一風で、作物が全滅することなど、普通にあることだ。予想もしなかった、ほんのちょっとした条件の違いによって、収穫が大きく変わってくる。環境制御が全く出来ない露地作の場合は、特にそうである。だから、PDCAの実行という観点からすると、とてもではないが、手間暇コストをかけて、それに見合うのかと言われると、あまり当てはまらない側面がある。生産条件のみならず、最終的な結果の収穫も大きく変動する、という意味でも、PDCAは、実に農業では扱いにくく、万能な道具では無いのである。

最後に、冒頭で触れた、農家と業界関係者の理解のギャップについて話をしたい。
まず、ギャップがどのような現状かを説明すると、農家は、上記の理由如何に関わらず、工業的な改善方法や手法に全く無知で無頓着である、という面は確かにあるが、同時に、そのような方法や手法で上手く行くものでもない、ということを、理解せずとも分かっている。一方、業界関係者は声高に、「PDCA」はじめ、「カイゼン」やら「トヨタ式」やらを叫び、一気に農業の現状を打破する、素晴らしい御告げを啓示したような雰囲気を、業界の一部でよく作る。ただ現実には、それほど意味や効果がある訳ではないので、結局は単なる空騒ぎで、いつの間にか有耶無耶になって、そのような話は消えて行く。この様な話は、この業界で常に繰り返し起きていて、過去その手の話が上手く行ったことがないのを農家は経験的によく知っているので、表面的には有難く聞いて、裏では冷ややかに聞いている。これが農家と業界関係者のギャップの現状である。何という認知、理解のギャップなのであろう。

このギャップは非常に埋め難いものがある。農業の仕事で、ちょっとした違いで、いつもの何倍もの時間がかかり、或いは、何度もやり直す羽目になる苦労をした経験がない、業界関係者には、この農家の本当の思いは分からないことだろう。その中で、上から目線の、自分は何か知っているとか、教えてあげるなどのような態度は、農家の神経を逆撫ですることに他ならない。業界関係者は、どこまで行っても、農家に並ぶことは出来ない存在であり、そのことを正しく理解し、農家に敬意を払い、農家の目線・本当の思いに寄り添っていくべきだろう。
一方、農家の側も、もっと学問的で体系的な知識や思考を備えることが求められているとも言える。学問や知識は、勿論そのまま現場で使えるものではないのではあるが、それが基礎となり、足腰となり、自分の仕事を高めてくれる手段になるからである。農家が自らの経験や勘に、普遍性を持った知識を取り入れた時、今はまさにそれが求められている時代であると思うが、農家はこれまでの姿を一回り上回り、次世代を切り拓いて行ける農家となれるのだろう。