農家はもっと減っていいのか

農家はもっと減っていい、と言い切ってしまっていいのだろうか。自分はそんな単純な話ではないと思うのである。
確かに、農業の産業的な側面から言えば、間違いないだろう。農業が経営として成立し、産業として競争力を持つには、集約化が進み、強い少数の経営体が残る方が良いのだろう。また、自分もこれまでその様な旨の投稿をいくつも書いてきてた。しかし、農業の社会的な側面、農業は地域コミュニティと一体不可分であり、また、地域コミュニティの上に日本の農業が成立していることを鑑みれば、農家が減ることは、マイナスでしかない。また、地域コミュニティ、つまり農家がこれまで担ってきた、神社、お寺、お祭りなど地域の様々な活動が滞り、日本の伝統的な良さ、美しさが失われることに繋がることでしかない。本当にそれでいいのだろうか。今回は、そのような話をして、改めて日本の農業の将来を考えてみたい。ここでは3つの視点から主に考えてみよう。

まず視点の1つ目は、そもそも農業は、周りの他の多くの農家に支えられて、はじめて成立している、ということである。自分自身においても、自身が農業を営む横浜の土地は、都市農業で、小規模零細、縮小傾向の土地柄であり、繋がりの強さは、地方や産地、稲作地帯と比べるとかなり弱いと思うが、それでもお互い支え合って農業をしているという感覚を強く持つしかないのである。

些細なことのようであるが、日々の仕事の中で、「ちょっと手伝って」「ちょっと教えて」「ちょっと助けて」など、お互い助け合いながら仕事をしている。そして、農作業の合間合間に立ち寄ったり、話をしたり、その中にヒントになることが沢山含まれており、自身の経営のプラスに繋がっている。
また、それに止まらず、土地の貸し借りや人の紹介、行政手続きの円滑化など、周りの人々のサポートがあって、仕事を次の展開に繋げることができるのである。

あと、普段は意識しないところではあるが、自分が農業をしやすい環境があるのは、周りで他の人が農業をしているからである。直接的には、畑の隣は畑であるのが、一番農業をし易い環境であって、これが荒地や山林、住宅などであっては、そうはいかない。まさか、一帯の畑を全て独占して自分が管理するようなことは、現実には有り得ないので、隣の畑、近隣の畑を管理する人がいてはじめて、自分も畑をしやすくなるのである。また、間接的には、地域で起きる様々な農業上の問題や課題に、近隣の農家と一丸となって取り組むことで、農業の環境を維持し、守ることができる。農業は、外部効果が非常に高いのが、産業としての特性であるが、意識しないレベルにおいてさえも、お互いに支え合って行っているのが実際である。

次に視点の2つ目であるが、地域コミュニティは、農家社会とほぼ重なるところで、地域の様々な活動や共同作業は、農家が中心になって支えている、ということである。活動には、集落の神社、お寺、お墓、お祭り、町内会、などがあり、共同作業には、農道や用水の維持管理作業などがある。

神社やお寺、お祭りには、現代日本人にも通じる日本の心の原点でもある、森羅万象への敬い、畏れ、そして祈りがよく表れており、実に美しく、心動かされるものがある。そして、農道や用水の維持管理作業では、各自の受益の大小にかかわらず皆で行い、共有財産を共同行動で支えるという、素晴らしい農村の伝統、コミュニティの良さがあり、これが日本社会の行動規範の原点なのだろうと感心する。

これらの活動や共同作業は、とにかく手がかかるので、多数の小規模農家がいて、はじめて支えられる。だから、2割の農業生産額しか占めないからと、8割の大多数の小規模農家を切り捨てることは、これらの活動や共同作業を切り捨て、そして、そこにある日本の心や日本社会の原点を切り捨てることに他ならない。それは本当に良いことなのであろうか。少なくとも、地域で農業を行い、地域の一員となった自分は今、それらに残って欲しいと、そしてその価値があると思っている。

最後に視点の3つ目であるが、現状で競争力を持たないと思われる零細多数の農家は、時間軸を取り入れたより広い視点から見ると、将来も同様に競争力を持たないとは限らない、ということである。言い換えると、現状を静的に理解するのではなく、時間によって変動していくと動的に理解すると、結果が違ってくる可能性がある、ということである。そしてそこで重要な要因となるものが、技術発展である。小さい農業でも効率を高め、競争力を強化できる技術発展はある。それは自分が発明したカニフォーク植えや草取りロボットなども該当する。また、歴史的に言うと、高度成長期に普及した田植え機やコンバインなども該当する。これらは、機械化貧乏の原因になったとか、零細多数の農家を残す要因となった、と直ぐに批判されるのであるが、これらは、当時の社会的背景と重なって、小規模でも農業が成立することを可能にした技術革新ではないのか。そして同様の技術発展の余地が、現在の小規模農業に多いに残されているように感じられるのは、自分の思い過ぎではないと思うが、どうだろうか。

少し話は逸れるのではあるが、田植え機やコンバインは、小規模農家を生き残らせ、農村コミュニティを維持する力になったと捉えられると思うのだが、そのような積極的な評価はできないものなのだろうか。何でもかんでもすぐ批判の姿勢で、問題としか捉えることができない日本の風潮は本当にいかがなものかと思う。そして、論理的に正しくは、全て問題と思われるものは、問題である以前に過去の結果であり、更に言うと、過去の合理的選択の上に生まれた結果である、という事実を正しく認識すべきである。問題とすぐ捉えてしまうのは、ただ単に、自らの願望によって認識を捻じ曲げているだけに過ぎない。

以上、2つの農業の社会的な側面と1つの技術発展による状況変化の観点から、農家が減ることが良いと、簡単に言うことができないことを論じてきた。少し前のブログでも書いたが、農業は、産業的な側面と社会的な側面があり、それら全てを見ることが必要である。そしてその結果は、なかなか割り切れない結果となるかもしれない。だからこそ、農業には特有の難しさがあるのだろう。

生産管理のMBAの教科書にも書かれている有名な言葉がある。
「強くなくては生きてはいけない、優しくなければ生きている意味が無い。」
(If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive. 蛇足だが、最後を”生きている資格がない”と訳すのは、実にセンスが無いと思う。)
その本から引用すると、”企業にとっての利害関係者には…従業員、サプライヤー、地域社会なども含まれる。彼らも含めて全体をバランスよく満足させられなければ…競争力自体の低下を招くおそれがある。” これは、企業に限らず、強い少数の農業経営体についても、同様に言えることだ。強い少数の農業経営体も、地域コミュニティを大事にし、その上に成り立っていることを正しく認識すべきだろう。

ここまでの思考の枠組みを得て、最後に、少し日本の農業の将来について考えてみよう。残念ながら、農家が今後より一層減る傾向は変わらないだろう。それが経済的に理にかなっているからである。そして、集約が進み、少数の強い農業経営体の存在感が大きくなることは間違いないだろう。そして、それと共に、地域コミュニティ、農村社会は弱体化し、日本の心や農村の伝統を伝える催しなども消えていくのだろう。とても寂しい限りである。たとえ、時代が変われば、伝統も文化も変わるものであるとしても。そして、地域の共有財産である農道や用水を共同作業で維持管理する手が足らなくなったとき、残された少数の強い農業経営体は、どのような行動に出るのであろうか?

でも一方で、少し楽観視もしている。2022年の生産緑地問題で、当初の予想を裏切り、農地が意外と残ったように、農業や農家がまだしぶとく残っていく可能性も十分にある。生源寺先生が言われることに全くの同感であるのだが、”数集落に少なくとも一戸の専業農家、その周囲には安定兼業や定年帰農の農家、さらに野菜程度は自分で作る元農家。これが現実的で持続性のある農村のかたちだと思う。”

参考図書:
生源寺眞一「農業と農政の視野」農林統計出版、2010年
生源寺眞一「日本農業の真実」ちくま新書、2011年
藤本隆宏「生産マネジメント入門」日本経済新聞社、2001年