農家とシェフの類似性、当園の味のスタイルの考察

農家とシェフはとても良く似ていると思う。それは、単に双方とも食べ物を作っているからだけではなく、同じ物を作っても、その仕上がり、味わいが、作る人によって大きな差があるところが、とても良く似ていると思う。そしてその差は、作る人それぞれの作り方、更に言うと、美意識、哲学、までが反映された結果であるというところも、とても良く似ていると思う。そこで今回は、農家とシェフの類似性について考えを纏め、今一度その観点から自身の美意識と生産哲学を省み、当園の味のスタイルまで再考していきたいと思う。

まず、農家とシェフの”類似性”について、表面的なところから深いところまで、3点あげたいと思う。

1つ目の最も表面的な”類似性”は、同じ物を作っても、その仕上がり、味わいが、作る人によって大きな差が出る点が、よく似ていると思う。そしてこれは、次のようにたとえると分かり易いと思う。カレーには、専門店のカレーから食堂のカレーまであり、同じカレーと呼ばれるものであっても、ときに別物と思うほどにまで違うことがある。(なお、食堂のカレーが悪いとか品質が低い、ということを言いたくて、このように言っている訳では無い。食堂のカレーは、自分も大好きだし、よく注文するし、いつも大変お世話になっている。ここでの意図は、同じカレーと言われるものであっても、仕上がりと味が全く違う、と指摘したい点にある。)これと同じことが、農作物についても言える。同じ姿形をして、同じと認識される農産物であっても、食べると全く味が異なることがある。ここは、農家とシェフが似ているところであると思う。

2つ目の”類似性”は、1つ目の”類似性”の仕上がりや味の違いを生む原因にあたる、一段深いところにあたるのだが、同じものを作るのに、作る人によって、作り方に千差万別の違いがある、という点がよく似ていると思う。作り方には、材料と手順の違いがあり、材料については、シェフの食材に対し、農家の種と肥料が相当し、手順については、シェフのレシピに対し、農家の栽培手順が相当する。同じものを作るのに、作る人によって、作り方に1つ1つ細かな違いが存在し、シェフならシェフの数だけ、農家なら農家の数だけ、作り方があると言える。そしてその細かな違いは、当然、最終的な仕上がりや味の違いに反映される。農家が作物を作っているとき、シェフのように、仕上がりや味を作り込んでいるとあまり意識されないかもしれないが、していることは同じであると思う。

最後3つ目の”類似性”は、2つ目の”類似性”の作り方の違いを生む原因にあたる、最も深いところにある、作り方に対するそもそもの考え、哲学がある、という点がよく似ていると思う。どのような仕上がり・味にしたいのか。きれいな見た目なのか、複雑で力強い味わいなのか、とにかく糖度が高いのがいいのか、それとも繊細で優しい味を求めるのか。または、そもそも味や仕上がりを重要視せず、コストを押さえ、気軽に楽しんで欲しい、或いは、全く気にせず、とにかく大量生産・大量流通を目指す、という選択肢もあるかもしれない。まあそこまで言わなくても、仕上がりや味にそれなりに十分な考えや哲学を持って、作物の生産に臨んでいる農家は多いのではないだろうか。そして、これはシェフが考えや哲学を持って、料理に臨んでいることと同じであろう。

以上のように、人によって、表面的な仕上がりと味に違いがあること、作り方に違いがあること、作り方に対する考えや哲学があること、これらが、農家とシェフがとても良く似ているところであると思う。農家がシェフと比べられることはあまりないと思うが、本来は並んで立てるはずと思う。なぜなら、作り方の細かな違いを生むのは創造性の表れであり、シェフの仕事が食に対して創造的な仕事であるとされるならば、農家の仕事も、同様に食に対して創造的な仕事と見なされてもいいはずだ。また、作り方に対する哲学についても、シェフの仕事においてそれが芸術や美と見なされるのであれば、農家の仕事でも同様に、芸術や美と見なされてもいいはずだ。農家の仕事は、シェフの仕事と同じく、十分に、創造的であり、芸術的な仕事である。農家は、自身の仕事が、そのような仕事であるという認識はあまり持っていないと思うが、その意識と誇りを持って、仕事に臨んでも良いと思う。

このように、農家とシェフの類似性、その共通する創造性や芸術性を考えてみた。そこでその観点から、改めて自身の美意識と生産哲学を振り返ってみたい。

結論から言うと、自分が目指している芸術性、美意識は、複雑で力強く、一方で華やかさを兼ね備え、調和のとれた味である。そして、それを実現するための生産哲学は、科学的に論理的に正しい考え方で作物に過不足なく栄養を与え、元気に力強く育て、その味を実現することである。なお、具体的な味を決める要因については、前回ブログ「野菜の味を決めるもの」で記した通りである。

そして、そのような美意識、生産哲学を持っていると気付いたきっかけ、思う理由がいくつかあるので、3つほど紹介したいと思う。

1つ目は、就農してまだ間もない頃、テレビ取材が入った時、お客さんが自分の人柄について質問され、「作っている野菜の味のように力強い人だ」と、答えられたことがある。これは、自分の野菜を買い求めて頂いているお客様に、そう思われているんだなと認識出来たと共に、度々思い出しては、やはりそれが自分の目指しているところ、実現しようとしているところなのだなと、何度も思い直している。

2つ目は、前回ブログでも記した通り、これまでに飲んだ人生で一番美味しいワイン、Chateau Pichon Longueville Comtesse de Lalande 1989 の経験によるものがある。実に複雑で芳醇で、刻々と味と香りが変わり、実に圧倒的で、身体全体が味と香りに包まれるものであった。味自体は、実にしっかりとしたボルドーのPauillacの作りで、力強く奥深いベリーの洗練され調和された味でありながら、一方で、ただ単に固く、極みを求めるのではなく、同時に華やかであり、豊かさがあった。自分が野菜で目指している味は、正にそういう味だ。いや、逆に言うと、自分の味の好みがそうであったから、そのワインが人生で一番美味しいワインであったと思えるのかもしれない。でもおそらくその両方、自分の味の好みとそのワインの経験が、相互に影響を与え、現在の野菜の味に対する美の感覚に影響を与えたのだろう。

3つ目は、味は野菜の成分に由来するものであるのだから、味が複雑で力強くあるためには、その成分が多種にわたり、多量に含まれていないと実現できないだろう、という、ごく自然な推定がある。そして、多種多量の成分が含まれるためには、それだけ成長が良く、過不足のない養分を吸い、たっぷり光合成を行って、十分に栄養を蓄えていなければ実現できないだろう、という、ごく自然な推定の続きもある。逆に、養分が不足したとき、生育が悪いときに、味が薄くなったり、悪くなったりするのは、これまでのブログで記してきた通りである。

以上のきっかけや理由で、自分が目指す仕上がりと味の美意識、生産哲学を説明できると思う。求めている味は、複雑で力強く、一方で華やかで、調和のとれた美しい味である。そしてそれらはそのまま当園の味のスタイルに繋がっており、日々の生産と出荷の中で、実現しようと努力している。

最後に、この美しさは、今後更に磨きをかけ、お客様へご提供して行きたいと思う。そしてそれは、当園の経営理念そのものである。

「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」