”現場感覚”という言葉は、この農業業界において、非常に乱用されているように思う。これはきっとこの農業業界は、現場と現場以外の距離が遠く、それに伴う弊害が大きく、”現場感覚”の多少によって、その弊害の解決能力の高さを示せる業界と思われているからなのであろう。だから、この言葉を使うのは専ら、農家以外の業界関係者であって(そもそも農家は現場そのものであるので、使う必要が無い)、そのような人達が、”現場を知っています”や”現場感覚があります” などと言うのを、よく耳にするのである。しかしながら、はっきり言うと、”現場感覚”を主張されるときほど、疑わしく思うときは無い。そしてこれは、決して自分一人の勝手な考えではなく、多くの農家が示す、ごく自然な反応であるとも思う。
今回は、疑わしく思う理由3つをまず考え、最終的に、真の「現場感覚」で定義される”現場感覚”がいかなるものか、を考察してみたい。
まず、疑わしく思う理由の1つ目は、現場の農家の人生観・仕事観や意識に関するところであるが、現場と現場以外で埋め難い大きなギャップがあるからと思う。そのギャップについては、これまでこのブログで書き綴ってきた様々なことが該当するのであるが、自分の生活、命を繋ぐため、厳しい自然に翻弄されながらも、必死に闘い、そこで収穫物、収入を何とか得ている、という思いが、主なところであろう。完全成果主義でその上、運が悪ければ、生きていけなくなるかもしれない。このプレッシャーに耐えるには、自身の経験と照らし合わしても、勤め仕事時代の10倍の強い精神力が必要で、人生観、仕事観、世界観が大きく変るものであった。この意識の差は、現場経験の有無によって、大きな差が生まれるところではないか。
疑わしく思う理由の2つ目は、農家の現場仕事上のオペレーションや技術に関するところであるが、農家が仕事をする際に見ている世界は、普通の人が見る世界と大きく異なっている、というところにある。これは農家の目線は普通の人と違うとも言えるし、普通の人が見ていない、見えていない部分が、農家には見えている、ということでもある。これも、これまでこのブログで書いてきたことであるが、農業の現場は実に複雑系で、変動要因・攪乱要因が山の様にあり、これを把握し理解することは実に困難なことである。農家は、ここを経験と勘を活用しながら、その大半を認知し、カバーしている。それでも、農家でさえ想定しないことが次々と起きるのが、農業の現場である。実際に日々困難に直面し、格闘していない人が、そんな簡単に経験していない複雑系、予測不可能な農業の現場を理解できるのだろうか。全くそうは思わないのである。
疑わしく思う理由の3つ目は、上記1つ目と2つ目を踏まえ、農家が到達する、考え方、心の持ちようがあることである。それは、1つ目の、厳しい自然環境、農業の仕事を経て、自身の存在を大きな自然環境の中のほんの一部として位置付け、理解する、謙虚な姿勢。「農業の仕事の成果は、努力半分、運半分」、「自分の運命も草や虫と同じ」、など。2つ目の、複雑系の困難な仕事を目の前にして、自身が未だ未熟であることを知る「無知の知」の悟り。「毎年が一年生」、「農業は一生勉強」、など。これら2つは、多くの篤農家に共通する、実に謙遜して奥ゆかしい態度である。農業を極めようとする農家達が謙虚になるのに、なぜ現場以外の人に、知った口を利かれなければならないのだろうか。もちろん、知っている部分もあるだろう。それを否定することはない。しかしながら、知った上でそれでも知らないとするのが、本来取るべき態度ではないだろうか。
以上が、現場外の人から”現場感覚”という言葉を使われた時に疑わしく思う理由である。いずれにしても、現場の農家の考えや精神に強く反するところであると思う。
では、それらを踏まえて、本当に現場の人間である農家が考える、真の「現場感覚」による”現場感覚”は、どのようなものになるのであろうか。簡単に言えば、上記の疑う理由の裏返しがそのまま当てはまるのであろう。農家の人生観、仕事観の理解に努め、農家の目線を理解するよう努め、謙虚でいることである。
しかし、改めて考えると、実はこれらの感覚は、別に農業に限らず、一次産業ではもちろん共通する感覚で、更に言うと、社会一般のあらゆる現場、生産現場や販売現場など、を理解する際に求められる感覚と同じではないだろうか。
それは端的に言うと、勝手な思い込みの色眼鏡で見ず、現場の目線で、出来事や考えを理解し、ありのままに理解する、ということである。そして、これは非常に簡単なことのように聞こえて、ほとんどの人が出来ない、最も難しいことでもある。立場が違うと、考え方や価値基準が異なってくるにもかかわらず、自身の基準で現場をどうしても判断してしまうからである。”人は、自らが見たいと欲する現実しか、見ようとはしない。” 農業の現場では特に、上記のように立場や考えに大きな差があるので、より難しいのではないだろうか。
現場の理解という意味で、販売現場の話ではあるが、とても参考になる話があるので、取り上げたいと思う。それは、セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問の鈴木敏文氏が言われる、”お客様のために考えるのではなく、お客様の立場で考えろ” ※1、という考え方である。鈴木氏は、またこのようにも言う。”「お客様のために」と言いつつ、無意識のうちにも、売り手やつくり手の都合を押しつけていることが多い” ※2。”「お客様のために」では、お客様が何を感じているのかはわからない。「お客様の立場」というのは、「お客様がどう感じるか」を考えるということです。” ※1。
この現場理解の考え方は、農業の現場の理解にそのまま当てはめられるのではないか。農家のために考えるのではなく、農家の立場、目線に立って、農家がどう感じているか、考える。農家の喜びと怒り、哀しみと楽しみを、同じ目線で感じる。特に普通の農家は、表立って自分の考えを、意見が対立する場合は尚更、言わないものである。そのような状況で、農家の声なき声を聞き、この心奥深くの思いを知ることができているのであろうか。そこを知り、考えられることが、真の現場感覚ではないだろうか。
そして、前述の様に、現場の農家は、現場外の人との考え方、価値観に大きな差があることを十分認識し、理解する努力を常に怠らず、常に謙虚であること。これが、本当に現場の人間の農家が考える、真の「現場感覚」による”現場感覚”であると思う。
最後に余談ながら、この現場感覚を良く理解している/理解していない業界関係者が、どのような人達か、について触れたいと思う。
意外に思われるかもしれないが、一番理解しているのは、農業に関わる行政機関の人達に多い。市、県、国の各レベルにおいてもいずれも、もちろん現場に近ければ近いほど、良く理解していると感じる。あと、行政機関ではないが、農協も同様である。これは、農家の現実を現場で、日々見て、話しているからであろう。そして、おそらく最も重要なことは、これらの人々は、農家の上に立つ立場でありながら、実は現代的に言うと、農家に行政サービスを提供している、農家をお客様のように扱ってくれる人達であり、だから、その距離感を農家もよく分かっていて、農家は本音を、不平不満を、結構遠慮無しにぶつけることが多い。時には、突き上げるようなことさえある。だから、行政機関の人達は、ある意味、身を持って農家の現実や考え方を理解しており、故に、現場感覚をよくお持ちなのであろう。
逆に、最も理解していないと思われるのは、農家が”先生”と呼ぶ人達の多くと、ベンチャーの人達である。先述のように、農家は表立って、自分の考えを、特に悪口は言わないものである。だから、表では”先生”の話を大変有難く聞き、裏では「何言ってんだ」「じゃあ自分でやってみろ」と話している。でもこの農家の考えは、その通りであると思う。そして、ベンチャーの人達については、開発系から流通系まですべからく該当する。事業を行うのに持っている強い思いで目が曇り、現実を見れないからであろう。
最後は変な話になったが、本当に現場の人間の農家が考える、真の「現場感覚」による”現場感覚”への理解が広がることを強く願う。そして、現場と現場以外のギャップが少しでも埋められ、この業界の弊害が少しでも解消されれば、と思う。
参考資料
※1 ”なぜセブンは最強コンビニなのか…それは「お客のため」ではなく「お客の立場」で考えているからだ” 「小売の神様」鈴木敏文の経営哲学 President Online
https://president.jp/articles/-/54005
※2 ”間違いの第一歩は「これは売れる」の思い込み” 鈴木敏文「顧客本位の経営」(3) President Online https://president.jp/articles/-/31394