日本と日本の農業を想うブログ

注目

農業の現場で起きていることは、一般に思われていることやメディアの報道とは相当違う。
そのようなギャップを冷静且つ論理的に、そして時に日本社会全体まで俯瞰して、書き綴っていくブログです。畑での作業風景、作物の生育状況等の掲載は、情報漏洩防止の観点から基本的に本ブログの対象外とさせて頂きます。

植物工場の”不都合な真実”

近い将来起こりうる食糧危機の救世主かのようにも語られる植物工場。
自分も、学生時代は、植物工場しかその手段がないように、また、日本の農業はその道に進むべきと思ったことがあった。しかしながら、今は全くそう思わない。植物工場などナンセンスだ。それは農業の実際を知り、植物工場をいくつか見てきた中で、そう判断できたからだ。

どうもこれは日本の悪しき風潮なのではないかと思うが、目新しい技術が出てくると、世の中が勝手にその方向に向かって、”良くなる”と思い込んでしまうようだ。マスコミ等メディアでも、良いイメージばかりが伝えられるが、実際そんなに上手くいっていない。現に、日本施設園芸協会によると、2017年時点で、黒字の植物工場(人工光型)は、たった2割しかない。つまりほとんどの植物工場は経営として上手くいってないわけだ。

でもそれは当然だと思う。それだけ植物工場の運営にはマイナスポイントが多いからだ。関係者・マスコミは何故そのような話を正しく語らないのだろう。その普通語りたがられない”不都合な真実”を、ここでは明らかにしていきたいと思う。

なお、植物工場の言葉の定義も厄介で、慣行のビニールハウス栽培から、いわゆる完全な植物工場型まで、連続的に様々なタイプの施設栽培があり、どこからが植物工場と言い切るのはなかなか難しい。しかし、ここで植物工場とは、いわゆる一般的に一番イメージされ易い、閉鎖空間で人工光を用いた栽培をする施設を指すことにする。

さて、そのマイナスポイントだが、3点ほどあげたいと思う。

1点目は、品質の問題である。これは閉鎖空間で人工光を用いるから当然なのであるが、作物は軟弱にしか育たない。また、多くの場合、水耕栽培だ。すると、どうなるかと言うと、関係者が口を揃えて言うのは、3日で”溶ける”というのである。”溶ける”というのは、農家がよく使う言葉なのだが、腐るのではなく、作物の組織自体が崩れていくのである。3日で崩れるようでは、はっきり言って商品にならない。完全に隔離された環境で栽培されて無農薬だとか、洗わずに食べれるなどといくら言っても、すぐ”溶ける”のはいかがなものか。なお、露地で野菜を作っていても、大雨が続くと野菜が部分的に溶けることがある。農家の立場からすれば、植物工場の野菜がすぐ”溶ける”くらい、容易に想像がつくことなのだ。

品質では、味の点でも疑問である。植物工場の野菜が美味しいとまことしやかに語られることもあるようだが、普通の農業であっても、ハウス物の方が露地物より味・風味が落ち(あくまで一般論であり、時季、栽培方法等多くの影響で変わる)、水耕栽培が土耕栽培より味が落ちるのは(これも一般論)、言うまでもないことだ。ましてや、完全閉鎖で、雨風その他の攪乱が無く、水耕で、太陽光よりずっと弱い光で軟弱に育った野菜の味はどうなのであろうか。きっと、美味しいという意見がでるのは、水分量が高いことと、採りたてを食べているから出てくる意見なのだろう。

2点目は、コストの問題である。植物工場では、光の照射に大量の電気を必要とする。また、閉鎖型であるが故に空調(冷房)にも電気が必要である。光を作るために費やす電力は最終的には熱エネルギーになってしまうのだから、特に夏場は高温になる。一方で熱を起こし、一方で冷やすとは何とも無駄なことだ。また、水耕栽培では水を大量に使用する。その水は、栽培そのものよりも、設備の洗浄にそのほとんどを使用しているようだ。養分の含まれている水を流しているのだから、魚を飼う水槽のように、大量の藻が発生するのである。よく写真で見る食品工場のようなきれいな植物工場を保とうとしたら、その洗浄は大変なことだろう。

3点目は、栽培品目が限られること。水耕の植物工場の場合、根菜は不可能だ。また、収穫まで時間がかかり、スペースも取る穀物、果菜類も現実的でない。そうすると、成長が早く、すぐに収穫できる葉菜しかないということになる。その中でも、価格に見合うようにするとしたら、非結球レタスかベビーリーフ位しかない。実際、植物工場の事業者の栽培品目はこれらに集中している。これだけの種類しか作ることができない植物工場に、社会的にどれほどの意味があるのか。

植物工場の、一般には語られることのない、マイナスポイントについて纏めてみた。これだけ”不都合な真実”が積み重なっているのだから、植物工場の運営が上手くいかないのも十分納得がいく。さらには、普通の農家が作物の販売に苦労し、収益の悪さに喘いでいる環境下で、生産物を販売しなければいけない。まるで良いことがないようにしか見えない。関係者やマスコミ等メディアには、事実を正しく伝えてほしいと思う。その上で、有用性について議論や検討がされれば良い。行政も支援や規制緩和には、冷静になるべきだと思う。

否定的なことしか言わなかったが、今後、技術革新が続けば、植物工場が世に拡がる日が来るかもしれない。また、人類が宇宙に進出するときには、必要な技術になるだろう。ただ、それまでは、非常に限定的な応用になるはずだ。

奇跡のリンゴを食べてみた

昨秋、かの有名な木村秋則氏の”奇跡のリンゴ”を食べる機会に恵まれた。
自分も研修時に、奇跡のリンゴの本を読んで、それなりに感銘を受けたりしたものである。そして、実際に食べてみたいと探しはしたのだが、実現に至らず、そして遂にその願いが叶ったのである。

手に入れたうちのいくつか。もう少し大きいものもあったが、テニスボール大。

その感想なのであるが、誤解を恐れずに書こう。りんごはもっと美味しいと思う。
ネット上には様々な記述があるようだが、自分は一農業者の視点としてそこに一意見を加えよう。
自分は果物は専門でないし、その経験のほとんどは野菜である。しかしながら、このリンゴを切った時、食べた時にすぐ分かったことは、このリンゴは明らかに肥料不足で生育不良である。そういう味がする。野菜でも同じような生育状況のときに、同じような食感、味になることがある。この実の詰まり具合、組織の硬さは、すーっと健やかに育った場合は、起こらないことだ。味の表現は難しいのであるが、味・香りに欠けるところがあり、全体的に力強さが不足し、アクとはまた違う特有の渋を感じさせる。

否定的な書きようのようであるが、決して美味しくなかった訳ではない。普通に美味しく頂くことができた。一般に売られている状態の悪いリンゴよりは美味しい。ただ、自分が買いたいと思って買い求めるりんごの程ではなかった。あと、参考に、リンゴの切り口が茶色く酸化したのは、普通のりんごよりずっと早かった。

野菜を作っていて思うのは、果物で無農薬はとうてい無理だろうということである。野菜はまだ短期間だから、また、病害虫への抵抗性が果物よりはずっと強いだろうから、果物は不可能だろうと思うのである。その中で、特に病虫害に弱いリンゴを無農薬での栽培を実現したという氏の功績は確かに称えられるべきことと思う。自分も昔、地方在住時にりんごを植えたことがあったが、度重なる病害虫であっという間に枯れてしまった。

さて、前段が長くなったが、今回このリンゴを食べることができて思ったことの中心は、単に上記味の感想ではない。そこから派生して2点ほど常々感じていることを、再度思い直した。やや話が一般化し過ぎるが、また安易な一般論の展開は論理的な正しさとは相容れないものではあるが、常日頃思うことであるので、記したいと思う。

1点目は、自然栽培に対する疑問である。自然栽培という言葉の定義自体がそもそも非常に曖昧なのであるが、肥料を施さないのが自然栽培であるとすれば、それで良いものはできないと思う。良いというのは、ここでは、作物が健やかに丈夫に育って、結果として食べて美味しいという意味である。生産マネジメント的な考え方をすれば、アウトプットを得るために、必ず十分なインプットが必要だ。作物というアウトプットを得るために必要な主なインプットは、水、二酸化炭素、光、養分である。(決して土ではない。)インプットをせずして、アウトプットを得ようとするのは、それはまるで無から有を生むようなものだ。もしそのような主張をするようであれば、それは、物理の最も基本的な法則である、質量保存の法則に反することだ。作物に養分=肥料は必要である。

実際、作物を作るのに施肥基準というものが各都道府県の農業試験場によって作られている。そして、それより多くても少なくても作物の出来は悪くなる。そのような場合は、病害虫もあっという間に増えて広がってしまう。食味も当然悪くなる。逆に、生育に丁度良い施肥ができると、作物は、見るからに伸び伸びと丈夫に育っていて、病害虫もほとんど発生しないものである。味ももちろん良い。
インプットを適切に管理することは、アウトプットを適切に得るためには、必要なことだ。そして、屋外で人間が一番コントロールできるものは養分=肥料であるはずだ。だから、自然栽培については、非常に疑問に思うのである。

話はさらに逸れるのではあるが、そういう自然栽培の考え方は、非科学的であると思う。自分は、非科学的・非学問的な主張、考えをするのは大嫌いだ。確かに、科学・学問は万能ではない。分からないこともある。また、現実社会では、商業的になりがちだ。しかしながら、この世の中で最も”もっともらしい”考えは、科学的・学問的な考え方であるはずだ。もし、非科学的・非学問的な考えを採用するのであれば、それは現代文明やそれを築いた人類の英知を否定することと同様である。だから、自分は科学的・学問的に考えたい。そして、自然栽培の考えには同意できない。

さて、2点目であるが、上記1点目を踏まえて、一部の小売・メディアによって、自然栽培が良いとする考えが必要以上に増幅されているようなのが気になる。表現の自由は守られるべきであるから、各人の主張の行為は認められるべきなのだが、農業を生業としたことがない、またそれを生業とすることの苦労を分かっていない外野が、さも分かったかのように流布するのには、強い違和感を覚えるのである。施肥が上手く行き、作物が丈夫に育ったときに病害虫がほとんど発生しないことなど、有機農家でなくても、まともな農家ならば、誰もが知っていることだ。逆に、施肥が乱れると、あっという間に病害虫にやられてしまうことも、皆知っていることである。知らないことは罪ではないが、十分実際を知らずに極めて一面的な主張をするのは罪深いことだ。

リンゴを食べて多くのことを思った。
世の中に広く、このリンゴと同様に、農業の実際を知ってもらいたいと思う。
それを強く願っている。

ニュースリリース -当園ホップの横浜ビール様でのご使用について

この度、8月28日に、当園で生産・収穫されたホップを、株式会社横浜ビール様のビール仕込みにおいて、ご使用頂きました。
横浜産ホップが横浜の地ビールで使用されるのは、今回初めてのことであり、その試みが高名な地ビール会社である横浜ビール様と行われたことに、当園としては大変嬉しく思っております。 

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ホップは一部の野菜と同様に、鮮度が極めて重要な作物であります。そこから出る香り・味は、大変失われ易く、劣化しやすいものです。そのため、通常のビールの生産で用いられるホップは、保存の為、収穫後、乾燥・粉砕し、ペレット状に加工されたものが使われております。しかし、そのようにされても、ホップの品質は変わってしまいます。一方、生のままの採りたてのホップを使用して仕込んだフレッシュホップビールは、そのホップの品質を反映し、味の良いビールが出来ると言われています。

そこで今回、横浜ビール様との取り組みにおいては、横浜ビール様での仕込みと同時並行で、ホップの収穫が行われました。ホップは、品質保持のため収穫中から保冷を行い、同日午後から収穫を始め、最短での釜への投入を実現しました。収穫・輸送においては、横浜ビール様の方々に多大なご協力を頂きました。

ホップを横浜で栽培することは、現在大変珍しいことではありますが、新鮮ホップによる味の良いフレッシュホップビールをお客様にご提供できることは、当園の目指す経営理念「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」そのものであります。また、当園のホップは、アロマホップとして使われており、正に当園の名前「アロマフルベジファーム」を表すものであります。

今回、この取り組みが実現できたのは、横浜ビール様・ご関係者様の、温かいご厚意、ご協力があってのことでした。そのご支援に厚く御礼申し上げます。また、この取り組みは、ビールを愛する多くのお客様方がおり、素晴らしい地ビール会社があり、農業も残っている、横浜ならではの取り組みでもあります。これを機に、横浜の街が盛り上がり、素晴らしい地ビールが注目され、そして、横浜の農業が見直され、より多くの方々に横浜の農業の素晴らしさを知って頂ければと、願って止みません。

当園は今後も引き続き、当園の経営理念「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」実現の為、ホップ栽培を含め、農作物の生産・販売に日々努力を重ねて参ります。

農家に見る日本人の気質の特徴

日本人は、こういう気質・性格の特徴がある云々、正しいのか正しくないのかよく分からない論理性に欠ける議論は正直嫌いだ。また、そういう議論はあまりしたくない。しかしながら、今回はご容赦願いたいと思う。なぜなら、日々、農家の方々と接していて、ああ、これが日本人の伝統的な特徴ある気質なんだなと強く思わざるをえないからである。

その気質についてであるが、3つ程あげたいと思う。
1つ目は、謙虚で控えめであること。農家の方々は、実に自分のことを控えめに言う。自分は能力があるのだとか、成功したのだ、みたいなことは言いたがらない。ましてや、これだけ儲かった、稼いだみたいな話は絶対にしない。せいぜい、単価が良くて嬉しかった、程度である。会社の国際化が進展していく中で、自己のプレゼンテーションを正しくすることが求められている現代サラリーマンの感覚からしたら、驚くほど控えめである。

2つめは、人のことを悪くいわないこと。ここが一番驚いたことなのであるが、噂話で人のことを非難するような口調で話をすることは絶対にしない。会社勤めのサラリーマンが、職場の人と飲みに行って、誰かのことの悪く言ったり、非難するのと同じ様に、話をする農家の人は皆無である。また、そのような話の流れは非常に嫌がる。但し、村の和を乱すものに対してはやや例外的である。また、ついでではあるが、村八分というのは、今のようにテレビ等楽しみ方が無かった時代の娯楽、酒のつまみであったらしい。外から見るのと、内から見るのでは大分印象が違うものである。

3つめは、お礼を欠かさないこと。農家社会はそもそも交換経済の社会なのではあるが、その一翼を担っているのがお礼の文化であると思う。とにかく、人から貰ったり、してもらったときのお礼は厚いくらいに返すのである。下手に気軽に農家の人に何かを差し上げたりすると、文字通り倍返しにあう。逆に、お礼を欠かしたり、十分でなかったりすると、悪く言われていることもあるようだ。それが恐ろしくて防衛的にという面も無くはないのであろうが、農家の人々は元々が気前の良い方ばかりだ。その善意から自然と出てきている面の方が強いのだろう。

さて、農家が日本人の気質の特徴をよく表していると思える点について、3点ほどあげてみた。現代の会社生活を営む人には薄れてしまった感覚ばかりだ。むしろ、今の世の中では、あまり歓迎されない資質なのかもしれない。だからこそ余計に、これらの日本人の伝統的で特徴的だと言われる気質が、農家の方々には色濃く残っていることを深く感じるのである。

しかしながら、よく考えてみると、これらの気質は、農家の暮らしの中から、必要があって生まれてきたもののように思える。今の農家社会であっても、同じ集落の人々との付き合いは切りたくても切ることができないものだ。一昔前の交通手段もそれほど発達していない頃などは、尚更、その付き合いは深く濃いものであっただろう。その中で、お互い助け合い、災害時などは協力しあって、村のみんなで生活してきたのだ。その中で、皆が平和で仲良く暮らすために、上記3つの気質は必要不可欠なものであったはずだ。むしろ、日本の農家社会の中で、自然発生的に生まれてきた気質なのである。そして、日本人のほとんどが農民であった時代の名残を引き継いで、現代日本人社会にあっても未だに上記気質を受け継いでいるのであろう。
農家の方々を見ていて、深く納得したのである。

話が長くなるが、あと我慢強いというのも農業所以であると思う。自分が少量多品目で野菜をやっていても、忍耐を日々の作業の中で求められるのに、何かの品目の専業の農家の方々などは、ましてや、米一本の農家の方々などは、どれだけの忍耐を求めらるだろう。更には、機械などなかった時代の田んぼ作業などは、気が遠くなるほどであったはずだ。日本人の我慢強さは、代々引き継いできた資産とも言えるべき、気質なのであろう。

春の季節

3月に入り、まだ寒い日が続くものの、随分春らしくなってきた。
新しい命の息吹を感じ、新しい一年の始まりを感じるこの時期は、自然と心が躍る。一日毎に強くなる陽射しは、気持ちさえも明るくする。これから忙しくなるのを恐れているのではあるが、不思議とやる気が湧き、期待感と充実感が溢れてくる、実に幸せな季節である。

播いた種が一斉に芽を出す、その美しさに心惹かれる。ばっちり揃ったときなどは嬉しさで胸一杯になる。春は、春に採るものだけでなく、夏の野菜の苗も育てている。それらの苗がすくすくと育っていくのを見るのも実に嬉しいものだ。万一、逆になった場合は実に落ち込むのではあるが。苗半作、いや、苗七分、八分作と言われるほど大事な苗作りにおいて、気合いが入るのは自然の成り行きなのかもしれない。

良い一年にしよう。良く出来、良く採れて、体調を崩すことなく元気で働きたい。
信心などこれっぽっちもない自分でも願いを懸ける。
自然相手に仕事をしている者の、自然な祈りなのかもしれない。
それもこの季節の影響なのだろう。
幸せな春。

正月の意味

明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。

さて、正月についてなのだが、農業を始めて段々とその意味深さが分かるようになってきた。昔は、まとまった休みがとれ、皆一斉に帰省し、好きでもないおせち料理を食べなければいけない、むしろあまり気が乗らない時期としか思っていなかった。更に言うと、年々普段通り開いている店も増え、本当に何か意味がある休みなのかとさえ思うようになっていた。ところが、農業の視点から見ると全く違うのである。実に生活と密接に関連した、いやむしろ、生活から自然発生的に生まれた、必然的な時期なのだ。

その理由なのだが、まずもって、正月は農家にとって、一年でこの時期しか休むことができない、特別な時期であるということ。春夏秋は、作物の成長と共に仕事に追われ、一日たりとも結局休むことはできないのだが、一年で唯一、作物の成長がほぼ止まり、新しく作物の種を播くことができないこの時期だけ、まとまって休むことができる。休みなく毎日働くのは結構大変で、ゆっくり休める正月は本当に貴重なのだ。正月はしっかり休む農家が多いが、その訳がよく分かる。

また、単純に休める時期であるからというだけが理由ではない。ここで、昔からの伝統的な旧暦の考え方を照らし合わせるとさらに特別な理由が良く分かる。厳密には違うのかもしれないが、旧暦的な考え方をすると、お正月の三が日が終わると、節分を経て立春となる。そしてこの立春の頃というのは、陽の強さが増し、啓蟄の頃とは言わないまでも、何となく虫や草木が動き出し、生命の息吹を感じ始める、正に、新しい命と新しい年のサイクルの始まりを感じさせる頃なのだ。自らの生活の中で、新しい命と新しい一年を迎える、その始まりとしての正月は、実に特別な意味をもった時期なのである。

旧暦と縁の薄くなった現代の生活では、なかなか正月とその休みの有難味を感じ難いかもしれない。時代と共に、文化とその結果である伝統も変わるのだからそれも仕方ないことだと思う。しかしながら、正月の深い意味とその有難さを理解し、感じることは素晴らしいことだと思う。その上で、現代風に、農家の伝統に反し、正月からしっかり働くのが良いと思う。今年は3日から販売開始します。

冬の仕事

ブログの更新がかなり長い間滞ってしまい、大変申し訳なく思う。
冬は時間が作りやすい季節なのではあるが、この前の冬は、なかなかに忙しかった。そこで今回は、ブログ更新が滞った言い訳をさせて頂くため、題して「冬の仕事」について。

農閑期という言葉があるくらいなのだから、冬は外に出る仕事が少なくなる季節であるのは確かである。作物はほとんど成長しないし、寒くて新しく種を播くこともできない。畑からは、だんだん作物が減る一方である。逆に言えば、一年でこの時しか農家は休むことができない。だから、農業を始めた時、正月休みというものが農家にとって、或いは、日本の伝統的な生活様式において、いかに特別なものであるのか妙に納得がいったものだ。

しかしながら、こういう時にしかできないこともある。圃場の整備であったり、道具の製作や手入れなどである。そうすると意外にやらなければいけないことが沢山あり、そんなこんなをしていると、あっという間に種を播く時季になって、苗の世話に日々付きっ切りの生活に遷るのである。ちなみに、当地では早い人では正月が明ける前に、夏野菜の種をもう播き始めている。

そして、それ以上に冬にしなければならない重要な仕事が次の一年の計画である。計画とは、主にどこで何をいつどれくらい作るかという作付計画であるのだが、パズルと言うよりむしろ複雑系を解くようで、なかなかしんどいものである。しかも、計画には当然、過去の反省が付き物であって、過去のデータの解析、さらには学術論文も含めた調査・分析を行うため、かなり時間がかかる。簡単な言葉で済ませれば、PDCAのサイクルをきちんと回す、ということなのであるが、そんな言葉では済まされないような、綿密かつ実行可能な計画を作り上げることが必要なのである。トヨタ式ではないが、計画と実行に10%以上の差が出てしまうような計画を作るようでは、そもそも計画が間違っている。計画段階での失敗は実行で挽回することは絶対に不可能なので、徹底的に調べつくし、机上演習を行い、そして一年の計画を完成させるのである。

そんなわけで、非常に優先度が高いヘビーな事務仕事が冬に入ってきてしまい、ブログを更新することがなかなかできなかったのである。これが言い訳である。年間の計画を完成させるまで、気分が落ち着かず、他のことに手をつけられなかった。もちろん、ブログを更新できないでいることにも居心地の悪さを感じ続けていた。でもそれも今日まで。今夜は安らかに眠ろう。

農家の飲む野菜ジュース

医者の不養生ならぬ、農家の野菜不足。故の農家の飲む野菜ジュース。
普通の農家なら有り得ないことだろうが、我が家では普通に良くあることである。

理由はいくつかあるが、まず第一に、疲れて料理などする気になれない時が多々あること。そういうときは野菜など使って飯を食う時間をかけてられないのだ。そんなとき、野菜ジュースは重宝する。それで栄養が十分取れているとは思わないが、まあなんとなくそれらしい気になれるのだ。逆に野菜ジュースを飲まないでそのまま寝たりすると、どうも翌日寝起きに身体が重い。昔、農家でも収穫のピークの時など、繁忙期には栄養ドリンクを飲んだりすると聞いて吃驚したが、野菜農家が野菜ジュースを飲むのもまたずいぶんおかしなことだ。

第二に、商品になる物には決して手をつけないこと。普通の農家なら、自分で食べる分は自分で作っているものであることが多い。その方が買うよりも安いからだ。また、当然プライドもある。スーパーで買うなんて馬鹿馬鹿しいと考えている。だから、農家の手元には通常野菜がたくさん余っているのであるが、自分の場合は全く違う。できる限り売れるものは売りたいし、野菜を食べるなら、出来る限りスーパーで買って、自分のものと比較をしたいと思っている。一般の消費者が普段どのようなものを食べているのか、同じ目線で理解しておくのは、食に携わる者として必要不可欠な行為だと思う。(それでも売り物にならない野菜を消費するだけで精一杯で、なかなかスーパーの野菜に手が出ないのではあるが。)

第三に、昔からの習慣であるのと単に野菜ジュースが好きであること。サラリーマン時代は、昼夜会社で弁当が普通であったので、野菜ジュースをいつも合わせていた。その習慣が未だに抜けない。また、習慣を通り越して、野菜ジュースそのものが好きになってしまった。まあ、今では好きで飲んでいるのだから、別に悪いことでも何でもないのではあるが、今となってはなんとなく不自然なことではある。

野菜ジュースを飲む行為を、今後も止めることはないだろう。時間を買うためにも必要不可欠である。普通の農家の感覚とはかなりずれているとは思うが、こういうサラリーマン的な感覚の農家がいても悪くないのではないか。野菜ジュース万歳。

農業とマーケティングの関係

丁度、日経の「私の履歴書」欄でマーケティングの大家、フィリップ・コトラーが連載を書いているので、マーケティングについて書こう。題して、農業とマーケティングの関係。

さて、いきなり農業分野でのマーケティングの話をする前に、まずは日本社会全体でのマーケティングについて話をしたいと思う。話の導入に必要である。
結論から言うと、日本社会全体でマーケティングが軽んじられ過ぎているのではないかと思う。或いは、無理解も甚だしい。自分が前にいた会社、取引先、友人・知人の勤めている会社の話を聞いても、まともにマーケティングが実行されている会社はほとんど無かった。むしろ、マーケティングという言葉に拒否反応が出てくるのが普通であった。どうやら、マーケティングと言うと、安いものを高く売りつけるテクニックを学ぶ学問であるという、とんでもない誤解をもって解釈されているようだ。或いは、営業の立場からすると、現場はそんな理屈では動いていない、頭でっかちが振りかざす理論だと思われているようだ。

確かに、上記指摘はマーケティングの一側面ではあるだろう。そのように解釈ができることもあるかもしれない。或いは、そのように過度な宣伝広告が行われているところがあるのかもしれない。しかしながら、それらはとんでもない誤解だ。フィリップ・コトラーの「マーケティング原理 第9版」によれば、マーケティングの本質とは「顧客の価値と満足を理解し、創造し、伝え、提供すること」である。あくまで、お客様のために何をすべきなのか、そのために組織をどう運営するのか、がポイントである。だから自分は、マーケティングとは、単なる学問を超えて、世のため人のために自分は何を為すべきか、自らがどうあるべきなのかを教えてくれる人生哲学だと思っている。(だからこそ面白いと思うのである。)

まあ、人生哲学までとは言わなくても、マーケティングは大学の経済学部の授業で普通に学べることだ。にもかかわらず、現在の日本社会でマーケティングが受け入れられていないということは、たかが大学レベルの知識・教養が日本の社会で活かされていないということだ。これは驚くべきことではあるが、日本のサラリーマンの不勉強さ、論理力の欠如、年功に端を発した経験主義の下では致し方ないことなのであろう。日本の会社は技術はあるのに、売れる製品は出ないとはよく言われることであるが、当然の結果である。海外ではMBAでマーケティングを学んだ人がマーケティングマネジメントをしているのに、日本では、経験を積んだだけの現場の管理職がその場凌ぎの手を打っているのだから。学問的に正しいことをすれば必ずしも実社会で成功するわけではないが、少なくとも、学問的に正しいことをせずして実社会で成功はしないと思う。

さて、ここまで日本社会全体をマーケティングの観点から俯瞰してみた上で、農業におけるマーケティングの状況はどうなのか。

言うまでもなく、農業でもマーケティングは活かされていない。むしろ、最も縁遠い業界の1つであろう。マーケティング以前に、「お客様の為」なんて発想がそもそも存在しない。なんと古めかしい業界なのだろう。
しかしながら、直売所が繁盛している昨今、農家も消費者との距離が近くなったせいか、マーケティングという言葉がまるで神通力を持った言葉のように扱われていることが時々ある。マーケティングの話を聞きにいったことが何度かあるが、マーケティングなどとはとても言えない、とんでもない話であった。マーケティングに限った話ではないが、そのように訳の分からないコンサルタントが跋扈しているのもこの業界の特徴である。他所ではやっていけないだろうと思えるクオリティである。

「農業とマーケティングの関係」と題しておいて、ほとんど語ることがないのではあるが、自分は、マーケティングの原理原則・理念に則って農業をやって行きたいと思っている。何も特別なことではない。当たり前のことを当たり前のようにすべきだけである。普通は、それが一番難しいことではあるのだけれども。

数日前、美しい空だと思い、写真を撮った。
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こんなことを思えるのも、屋外で仕事をしている農業の特権の1つなのかもしれない。

但し、いつも空を愛でているわけではない。大体、そんな空を見上げているほど気持ちに余裕のあることなどほとんどないのだ。それに空はよく見上げるのではあるが、それは大概、雨が降り出しそうなときのことであって、雨に怯えながら、天気とにらめっこをしていると言ったほうが正しい。そうでない時は、逆にいつも地面とにらめっこをしていて、黙々と作業をしている。実際、80になるまで飛行機など見たこともないと言う農家のお婆さんも実際にいたりするのだ。空とは縁があるが、美しい空とはあまり縁が無い。

美しい空と縁がなかったのは、別に今始まったことではなく、サラリーマン時代からのことでもある。朝、満員電車に揺られて会社へ行き、そして、夜遅くに帰る。大体、空など視界に入ってこない生活だ。美しい空など望むべくもない。最終出勤日近く、定時に上がり帰路についたら、電車が川を渡るとき、美しい夕日の空が広がっているのを見て、ああ世の中はこんなにも美しかったのかと、思わず涙が流れた。今思えば、あれが農業と美しい空の関係の第一歩であったのかもしれない。

農業を行うようになって、空について一般の人と違う感性を持つようになったことがもう1つあって、それは雨の降り出しが分かるということである。これは別に第六感のようなものが働くと言っているのではなく、単純に見て分かるのだ。畑では見晴らしが利くので、遠くの方で雨が降っているのが見てすぐ分かる。雨が降っているところでは、雲が地面にくっついているようになっている。そして、雲の移動の仕方でその雨がこっちに来るか来ないのかが分かるのである。これは、アメリカのだだっ広い平野部を車で旅しているときに気付いたことでもある。今、同じ体験をしている。都会の”森”暮らしでは分からないことだろう。

あと、雨が降り出す前には、すうっとひんやり冷たい風が一瞬強く吹き、草木をなびき揺らす。近くで雨が降り出していることによるダウンバーストの一種なのだろう。

空に対する感性は農業を始めて大分変わったが、時には美しい空を愛でよう。
これも自然相手に仕事をしているご褒美なのだから。