冬の仕事

ブログの更新がかなり長い間滞ってしまい、大変申し訳なく思う。
冬は時間が作りやすい季節なのではあるが、この前の冬は、なかなかに忙しかった。そこで今回は、ブログ更新が滞った言い訳をさせて頂くため、題して「冬の仕事」について。

農閑期という言葉があるくらいなのだから、冬は外に出る仕事が少なくなる季節であるのは確かである。作物はほとんど成長しないし、寒くて新しく種を播くこともできない。畑からは、だんだん作物が減る一方である。逆に言えば、一年でこの時しか農家は休むことができない。だから、農業を始めた時、正月休みというものが農家にとって、或いは、日本の伝統的な生活様式において、いかに特別なものであるのか妙に納得がいったものだ。

しかしながら、こういう時にしかできないこともある。圃場の整備であったり、道具の製作や手入れなどである。そうすると意外にやらなければいけないことが沢山あり、そんなこんなをしていると、あっという間に種を播く時季になって、苗の世話に日々付きっ切りの生活に遷るのである。ちなみに、当地では早い人では正月が明ける前に、夏野菜の種をもう播き始めている。

そして、それ以上に冬にしなければならない重要な仕事が次の一年の計画である。計画とは、主にどこで何をいつどれくらい作るかという作付計画であるのだが、パズルと言うよりむしろ複雑系を解くようで、なかなかしんどいものである。しかも、計画には当然、過去の反省が付き物であって、過去のデータの解析、さらには学術論文も含めた調査・分析を行うため、かなり時間がかかる。簡単な言葉で済ませれば、PDCAのサイクルをきちんと回す、ということなのであるが、そんな言葉では済まされないような、綿密かつ実行可能な計画を作り上げることが必要なのである。トヨタ式ではないが、計画と実行に10%以上の差が出てしまうような計画を作るようでは、そもそも計画が間違っている。計画段階での失敗は実行で挽回することは絶対に不可能なので、徹底的に調べつくし、机上演習を行い、そして一年の計画を完成させるのである。

そんなわけで、非常に優先度が高いヘビーな事務仕事が冬に入ってきてしまい、ブログを更新することがなかなかできなかったのである。これが言い訳である。年間の計画を完成させるまで、気分が落ち着かず、他のことに手をつけられなかった。もちろん、ブログを更新できないでいることにも居心地の悪さを感じ続けていた。でもそれも今日まで。今夜は安らかに眠ろう。

農家の飲む野菜ジュース

医者の不養生ならぬ、農家の野菜不足。故の農家の飲む野菜ジュース。
普通の農家なら有り得ないことだろうが、我が家では普通に良くあることである。

理由はいくつかあるが、まず第一に、疲れて料理などする気になれない時が多々あること。そういうときは野菜など使って飯を食う時間をかけてられないのだ。そんなとき、野菜ジュースは重宝する。それで栄養が十分取れているとは思わないが、まあなんとなくそれらしい気になれるのだ。逆に野菜ジュースを飲まないでそのまま寝たりすると、どうも翌日寝起きに身体が重い。昔、農家でも収穫のピークの時など、繁忙期には栄養ドリンクを飲んだりすると聞いて吃驚したが、野菜農家が野菜ジュースを飲むのもまたずいぶんおかしなことだ。

第二に、商品になる物には決して手をつけないこと。普通の農家なら、自分で食べる分は自分で作っているものであることが多い。その方が買うよりも安いからだ。また、当然プライドもある。スーパーで買うなんて馬鹿馬鹿しいと考えている。だから、農家の手元には通常野菜がたくさん余っているのであるが、自分の場合は全く違う。できる限り売れるものは売りたいし、野菜を食べるなら、出来る限りスーパーで買って、自分のものと比較をしたいと思っている。一般の消費者が普段どのようなものを食べているのか、同じ目線で理解しておくのは、食に携わる者として必要不可欠な行為だと思う。(それでも売り物にならない野菜を消費するだけで精一杯で、なかなかスーパーの野菜に手が出ないのではあるが。)

第三に、昔からの習慣であるのと単に野菜ジュースが好きであること。サラリーマン時代は、昼夜会社で弁当が普通であったので、野菜ジュースをいつも合わせていた。その習慣が未だに抜けない。また、習慣を通り越して、野菜ジュースそのものが好きになってしまった。まあ、今では好きで飲んでいるのだから、別に悪いことでも何でもないのではあるが、今となってはなんとなく不自然なことではある。

野菜ジュースを飲む行為を、今後も止めることはないだろう。時間を買うためにも必要不可欠である。普通の農家の感覚とはかなりずれているとは思うが、こういうサラリーマン的な感覚の農家がいても悪くないのではないか。野菜ジュース万歳。

農業とマーケティングの関係

丁度、日経の「私の履歴書」欄でマーケティングの大家、フィリップ・コトラーが連載を書いているので、マーケティングについて書こう。題して、農業とマーケティングの関係。

さて、いきなり農業分野でのマーケティングの話をする前に、まずは日本社会全体でのマーケティングについて話をしたいと思う。話の導入に必要である。
結論から言うと、日本社会全体でマーケティングが軽んじられ過ぎているのではないかと思う。或いは、無理解も甚だしい。自分が前にいた会社、取引先、友人・知人の勤めている会社の話を聞いても、まともにマーケティングが実行されている会社はほとんど無かった。むしろ、マーケティングという言葉に拒否反応が出てくるのが普通であった。どうやら、マーケティングと言うと、安いものを高く売りつけるテクニックを学ぶ学問であるという、とんでもない誤解をもって解釈されているようだ。或いは、営業の立場からすると、現場はそんな理屈では動いていない、頭でっかちが振りかざす理論だと思われているようだ。

確かに、上記指摘はマーケティングの一側面ではあるだろう。そのように解釈ができることもあるかもしれない。或いは、そのように過度な宣伝広告が行われているところがあるのかもしれない。しかしながら、それらはとんでもない誤解だ。フィリップ・コトラーの「マーケティング原理 第9版」によれば、マーケティングの本質とは「顧客の価値と満足を理解し、創造し、伝え、提供すること」である。あくまで、お客様のために何をすべきなのか、そのために組織をどう運営するのか、がポイントである。だから自分は、マーケティングとは、単なる学問を超えて、世のため人のために自分は何を為すべきか、自らがどうあるべきなのかを教えてくれる人生哲学だと思っている。(だからこそ面白いと思うのである。)

まあ、人生哲学までとは言わなくても、マーケティングは大学の経済学部の授業で普通に学べることだ。にもかかわらず、現在の日本社会でマーケティングが受け入れられていないということは、たかが大学レベルの知識・教養が日本の社会で活かされていないということだ。これは驚くべきことではあるが、日本のサラリーマンの不勉強さ、論理力の欠如、年功に端を発した経験主義の下では致し方ないことなのであろう。日本の会社は技術はあるのに、売れる製品は出ないとはよく言われることであるが、当然の結果である。海外ではMBAでマーケティングを学んだ人がマーケティングマネジメントをしているのに、日本では、経験を積んだだけの現場の管理職がその場凌ぎの手を打っているのだから。学問的に正しいことをすれば必ずしも実社会で成功するわけではないが、少なくとも、学問的に正しいことをせずして実社会で成功はしないと思う。

さて、ここまで日本社会全体をマーケティングの観点から俯瞰してみた上で、農業におけるマーケティングの状況はどうなのか。

言うまでもなく、農業でもマーケティングは活かされていない。むしろ、最も縁遠い業界の1つであろう。マーケティング以前に、「お客様の為」なんて発想がそもそも存在しない。なんと古めかしい業界なのだろう。
しかしながら、直売所が繁盛している昨今、農家も消費者との距離が近くなったせいか、マーケティングという言葉がまるで神通力を持った言葉のように扱われていることが時々ある。マーケティングの話を聞きにいったことが何度かあるが、マーケティングなどとはとても言えない、とんでもない話であった。マーケティングに限った話ではないが、そのように訳の分からないコンサルタントが跋扈しているのもこの業界の特徴である。他所ではやっていけないだろうと思えるクオリティである。

「農業とマーケティングの関係」と題しておいて、ほとんど語ることがないのではあるが、自分は、マーケティングの原理原則・理念に則って農業をやって行きたいと思っている。何も特別なことではない。当たり前のことを当たり前のようにすべきだけである。普通は、それが一番難しいことではあるのだけれども。

数日前、美しい空だと思い、写真を撮った。
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こんなことを思えるのも、屋外で仕事をしている農業の特権の1つなのかもしれない。

但し、いつも空を愛でているわけではない。大体、そんな空を見上げているほど気持ちに余裕のあることなどほとんどないのだ。それに空はよく見上げるのではあるが、それは大概、雨が降り出しそうなときのことであって、雨に怯えながら、天気とにらめっこをしていると言ったほうが正しい。そうでない時は、逆にいつも地面とにらめっこをしていて、黙々と作業をしている。実際、80になるまで飛行機など見たこともないと言う農家のお婆さんも実際にいたりするのだ。空とは縁があるが、美しい空とはあまり縁が無い。

美しい空と縁がなかったのは、別に今始まったことではなく、サラリーマン時代からのことでもある。朝、満員電車に揺られて会社へ行き、そして、夜遅くに帰る。大体、空など視界に入ってこない生活だ。美しい空など望むべくもない。最終出勤日近く、定時に上がり帰路についたら、電車が川を渡るとき、美しい夕日の空が広がっているのを見て、ああ世の中はこんなにも美しかったのかと、思わず涙が流れた。今思えば、あれが農業と美しい空の関係の第一歩であったのかもしれない。

農業を行うようになって、空について一般の人と違う感性を持つようになったことがもう1つあって、それは雨の降り出しが分かるということである。これは別に第六感のようなものが働くと言っているのではなく、単純に見て分かるのだ。畑では見晴らしが利くので、遠くの方で雨が降っているのが見てすぐ分かる。雨が降っているところでは、雲が地面にくっついているようになっている。そして、雲の移動の仕方でその雨がこっちに来るか来ないのかが分かるのである。これは、アメリカのだだっ広い平野部を車で旅しているときに気付いたことでもある。今、同じ体験をしている。都会の”森”暮らしでは分からないことだろう。

あと、雨が降り出す前には、すうっとひんやり冷たい風が一瞬強く吹き、草木をなびき揺らす。近くで雨が降り出していることによるダウンバーストの一種なのだろう。

空に対する感性は農業を始めて大分変わったが、時には美しい空を愛でよう。
これも自然相手に仕事をしているご褒美なのだから。

登山と農業の良い関係

学生時代から、農業を始めるまで、10年以上に渡って山に登り続けてきた。そしてその事が今の仕事に大いに役立っている。元々アウトドア派であったから必然の事のようにも思えるが、むしろ偶然であると思っている。そこで、今回は、登山の経験によって農業に生かされたことについて纏めてみたいと思う。

まず、何よりも体力。登山を通じて得ることの出来た体力は何にも代え難い。通常の現代人の体力で農業は務まらない。人一倍、頑強な肉体を持っていることは、農業を行う上で絶対に欠かすことの出来ない必要条件だと思う。平凡なサラリーマン生活を送ってきた人が、思いつきで農業を始めるなんて、だから危険なことなのだ。自分は、ピークの時には40kg近くの荷物を担いで急斜面を駆け上がっても、息が切れることがなかった。今でも同年代の人に比べれば、はるかに力は強いほうだと思う。周りの農家の方を見ていても、力強い人ばかりだ。

次に耐久力。厳しい天候に対しての耐久力である。真夏の炎天下、極寒の風雨の中、雪の中、氷の上で作業をしなければならない時が普通にある。そんなとき、昔、山で経験したことがなかったら、きっと耐えられないだろうなと思うのである。灼熱の乾ききった登山道を上り下りしたこと、全身ずぶ濡れ泥だらけになりながら雨中の藪をかき分け進んだこと(山に行けば大概雨である)、吹雪の深い雪の中を埋もれながら進んだこと、そんなことしなくても良いのにと思うようなことを昔していたことが、今、厳しい天気に直面しても何とも思わないで済む糧となっている。

そして、技術力。ロープ、火の扱いは正にそのまま使っている。天気の読み方もそうだ。服装や体調のこまめな管理も非常に重要である。例えば、冬山では汗をかかないよう体温調節するのが基本であるが(汗をかくと命にかかわる)、畑でも余計な汗をかかないように服の管理しないと、痛い目を見る。他にも、バテないよう、作業中にきちんと水分とエネルギーを補給するのも重要なテクニックだ。

あと、意外で面白いと思うのが、野生の勘。山に登ると言っても、普通に登山道を行くわけでなく、春には山菜を摘み、夏には魚を釣り、秋には茸を採りながら、沢沿いに山を登る、沢登りと呼ばれる山登りを行っていた。そんな中、目敏く、山菜や茸を見つけられるようになった。自分の所属する山の会で、目が悪いのにきのこをやたら見つける人が、キノコ視力は1.5と言われているのを聞いて、思わず笑ってしまったが、でもそれくらいの野生の勘を持って、野菜に臨むことも大事なのだ。同じ収穫には変わらない。パッ、パッ、と作物を見つけなければいけないのだ。また時には、収穫だけでなく、虫や病気の早期発見に役立つ。

こう考えてみると、随分色々と昔の登山の経験が生きているのだと思う。だからこそ逆に、農業を始めようと思えたのかもしれない。最近では、山から随分と遠ざかってしまったが、いつかはまた山に帰りたいと思っている。そのとき、一体自分はどのように感じるのだろうかと今から楽しみに考えている。今度は、農業が登山にどのように良い関係になるのだろうかと思う。月明かりの中、作業をしていると、月明かりを頼りに山を下りたことを思い出し、そう思う。

自分の所属する山の会
グループ沢胡桃 ・・沢登り(と雪山)に特化した社会人サークルです。
http://www.sawagurumi.org/

畑環境は自然なのか

自然に囲まれて、畑で仕事をするのは良いですね、という意見を時折耳にする。
しかし、畑は自然の一部なのだろうか?といつも不思議に思う。

自分の考えから言うと、答えはNOである。畑が自然の一部など、全くとんでもない考えだ。
畑は、人工の環境でしかない。畑を自然環境の一部と捉えるのは、自然からも畑からも遠く切り離された都会人の妄想に過ぎない。最近は、どうやら公園や河川敷でさえも自然の一部と理解されるようである。”緑豊かな”と言うのであれば決して間違いではないと思うのではあるが・・。

”遠く切り離された都会人”と言ったが、決して”遠く切り離された”ことを非難しているわけではない。近代文明において、各々が専門分野に特化し、細分化されていくのは、当然のことである。そして、その結果として、リカードの比較優位説の通り、社会全体の富の生産が増え、社会全体が豊かになっていくのだ。自由主義と資本主義の精神を重んじる自分としては、”遠く切り離された”点を非難するつもりは全く無い。

ただ、良いと思えないのは、理解不足にも関わらず、イメージだけで”妄想”されることなのだ。農家の目線に立って、少し考えて頂ければ、きっとすぐお分かり頂けると思う。現在の田畑は、先祖代々、荒れ地や野山を精魂込めて開拓してきたものなのだ。それを受け継いでいる我々の代であったって、ちょっとすれば草が山のように生えるのに十分苦労していると言うのに、重機の無い時代にどれほど苦労することであったであろう。自然と闘い、克服し、そうしてようやく人間が食べ物を作れる場所が生まれるのだ。夏の炎天下に草取りをしていると、つくづくそう思う。

あと、最近では、畑の環境の生物多様性や生態系の豊かさが言及されるようであるが、これもとんでもない議論であると思っていて、確かに、都市環境に比べれば、生物は多様で豊かであるとは思うのだが、里山に比べれば大したことはないと思うし、ましてや自然林などとは比べ物にならないはずである。何を基準にするかである。つけ加えておくと、現代の農業を行っている畑に、生物の姿は少ない。ミミズなどほぼいないし、虫の姿も少ない。

話としては以上であるが、屋外の空気を吸い、陽の光を浴びて、時には雨に打たれ、サラリーマン時代に比べれば、はるかに自然環境に近いところで仕事をしているのは事実である。それでより健康的なのかどうかは分からないが、仕事をするのに悪い環境でないのは確かである。

野菜嫌いについて考える

誰でも嫌いな野菜の1つや2つはあるものだと思う。
好き嫌いはすべきでないのだが、野菜とはそういうものだと思う。

自分も実はなすが嫌いである(あった)。そう言うと驚かれるのではあるが、あの歯ごたえ、ねちょっとした感じ、ピリピリと舌に刺すような酸味、香り、とにかく全てが嫌いである。そこが美味しいのに!と言われたりもするのだが、生理的に受け付けないとはきっとこういう事なのだろうとさえ思う。夏野菜の定番のなすが食べれないなんて、不運なことだと思う。

話はいきなりやや逸れるようであるが、農家は自分の嫌いな野菜は作ろうと思わない、あるいは真剣に作ろうと思わない、という話しを初めて聞いたときには、思わず笑ってしまったが、自分の場合、なすが嫌いだとは言っても、なすはさすがにド定番で、外すわけにはいかない。その意味でも不運である。

しかし、今ではがんばって作っている。そして、ちゃんと真剣に取り組んでいる。なぜかと言うと、それなりになす嫌いを克服することができたことが少なからず影響しているのではないかと思っている。
どのようになす嫌いを直すことができたのかと言うと、単に、自分が研修時代を含め、畑で採ったばかりの新鮮ななすが手に入るようになったからだ。新鮮ななすの味は、それまで自分の記憶にあったなすの味とは全く違った。アクやエグ味がなく実に甘い。なすが美味しいと感じられるようになった。今では、敢えて食べようとは思わないが、食べれないわけではない。むしろ、畑では収穫時に味をチェックする意味で、いつも齧っている。なかなか甘くて美味しいものだ。

さて、ここに至って本題に入るのだが、野菜嫌いは、往々にして、小さい頃に不幸にも美味しくない野菜に出会ってしまったがために起きてしまう事故なのではないかと思うようになった。実際、自分の野菜なら食べれるという話も時々聞く。美味しくない野菜には大きく2つの要因があると思っている。

まず1つ目は、古い野菜であること。新鮮な野菜と古い野菜では味に雲泥の差があるものだ。もしかしたら、古くて”おかしな”ものを小さい子は本能的に排除しようとしているだけなのかもしれない。最近、スーパーの野菜売り場に行かなくなってしまったが(良くないことであるが)、久々に行って並んでいたなすを見て、吃驚してしまった。なすは艶やかで張りのあるものだといつのまにか思いこんでしまっていたが、そこに並んでいたのは、萎びて艶も張りもとうに失っていたなすであった。あのようなものを食べさせられては、それはなす嫌いになるだろう。

もう1つは、作られ方が良くなかったこと。生育が良くなかった野菜は明らかに味が落ちる。生育不良の一番よくある原因は、肥料の過不足である。例えば肥料をやり過ぎると、エグくなる。ほうれん草など良い例だ。もともとアクの強い野菜ではあるが、肥料のやり過ぎで、身体に有害なシュウ酸や硝酸が増えるのは、有名な事実だ。また、逆に肥料のやらなさ過ぎも良くなく、生育のこじれてしまった野菜はとんでもなく酷い味がする。自分が実際食べた今までに一番不味かった野菜の1位と2位は、駆け出しの農家によって肥料をほぼ全く与えずに育てられた野菜たちで、口に入れた瞬間に吐き出してしまい、とても食べられたものではなかった。吸う養分に過剰でも不足でも生じると、野菜は美味しくなくなってしまうものである。肥料のやり方も含めた育て方も、野菜を美味しくするには大変重要である。

適切に育てられ、新鮮な美味しい野菜が食卓に常に並ぶようになれば、野菜嫌いも減るのではないかと思う。そうあって欲しいと淡い希望を抱いている。

アロマフルな話 – 野菜が一番美味しい時

今回は、個別の野菜の話ではなく、野菜全てに共通する話。
野菜は何時食べるのが一番美味しいのか、そのことについて今現在自分の知っている限りのことをお話ししようと思う。

安易に答えれば、そりゃ旬でしょ!ということになるのだが、それはそれで間違いないこととして、論理的に体系化して、時間軸で長期的・中期的・短期的で分けて考えてみる。

まず長期的な観点から考えると、それはもちろん野菜の”旬”であることに間違いない。やっぱり、冬場のトマトやきゅうりよりも、夏のトマトやきゅうりの方が、味も香りも断然違う。ネギだって、冬の方が甘くて美味しいし、大根なんかも全く違う。今の世の中、年中同じ野菜がスーパーの棚に並ぶようになり、旬がいつなのか分からなくなってきたが(実際、農業を始めて旬を初めて知った野菜も多い)、やっぱり各野菜が本来育つべき時季に育てられた野菜は、味が違うものである。

ただし、旬という言葉には注意を要する。旬と言うのは各地域での旬を表す言葉であり、日本全国バラバラなのだ。本州ではじゃがいもは春・晩秋、玉ねぎは春であるが、北海道では秋である。キャベツは平地では冬または春であるが、高地では夏である。南北に長く、また高いところ低いところあり、気候の変化に富む日本にあって、野菜の取れる時期は結構ずれていたりする。だからこそ逆にスーパーに年中同じ野菜が並べられるようなことにもなるのだが、そこは当地の旬が云々ということは抜きにして、日本という国が持っている多様な気候・風土の素晴らしさに、素直に感謝すれば良いのだろう。(ヨーロッパの国々が、冬季、南欧や北アフリカ諸国から大量の野菜を輸入していることと実に対照的である。)

次に中期的な観点から考えると、収穫適期に採られている野菜である、ということである。ここが生産・流通の都合で、消費者にとって最適ではないことになっていることが多い。例えば、枝豆はちょっと物足らないくらいの、7割くらいの実の入りの時が一番味が良いのではあるが、農家にとっては量で手取りが決まるため、パンパンになるまで収穫したりはしない。他にも、トマトは樹上で完熟させたものが、圧倒的に味も香りも良いのではあるが、割れたり焼けたり、カラスにやられたりするので、まだ青いうちに収穫し、取っておいて赤くなり始めたら出荷する。また、トマトは流通側にとっても、熟したものは輸送性・棚持ちが悪いので、固いものでないと駄目なのだ。ちなみに農家の出荷時に赤くなり始めのトマトは、店頭に並ぶときにちょうど全体が赤くなる。我々は普段そのようなものを見ている。

最後に、短期的な観点から考えると、朝採ったものではなく、昼~夕方に採ったものであること。食べる直前に採った方が新鮮だということもあるのではあるが、どうも朝採りの野菜は美味しくないことが多い。一般には、朝露が宝石のように光り輝いている野菜がとても新鮮で美味しい野菜のようにイメージしてしまうのだが、朝は野菜が夜の間に養分を呼吸や成長のために使い果たした時間である。実際、朝のきゅうりやおくらは甘さが足らない。そうであれば、お日様の光をたっぷりと浴びて、養分をいっぱい溜め込んだ夕方の方が良いのではないかと思う。美味しい野菜は朝採りではなく、夕採りである。

朝採りが美味しいというイメージについてなのであるが、そのイメージが広く世間に浸透していることに、正直、閉口している。なぜなら、それは小売や物流(さらにいうと消費者)の都合で作られたイメージに他ならないと思っているからだ。小売や物流が動くのは日中である。だから農家の収穫は朝になる。また、消費者に一番早く届けるための収穫のタイミングも同様に朝となる。だから朝なのだ。野菜の状態など関係無しに、現在のシステムで朝が収穫に一番適したタイミングなのだ。いつかこのイメージが覆る日がくればと思っている。

短期的な観点ではもう1点あって、上記と同じ理屈で、野菜の味は直前の天気に大きく左右される。理想はある程度の雨が少し前にあり、良い天気が数日続いたくらいが、野菜の仕上がりにとっては最高だ。そのような時が味も香りも一番乗っている。逆に言うと、雨が続くと水ぶくれしたようになり、曇りが続くと、味わいに欠ける仕上がりとなる。この点については致し方ないのではあるが。ただ、理屈と実際と言えばそうである。

野菜が一番美味しい時について、知っていることを纏めてみた。本当にピークのピークに当たった野菜を食べた人にとっては、他の時の野菜が凡庸に見えてしまうかもしれない。しかしながら、野菜には走りと旬と名残があり、日々の天気によって変わりもする。それはそれで楽しむことができるようになれば、素晴らしいと思う。もちろん、どのような状態の時でも素直に美味しいと思える野菜であることは、自分が野菜を売る中で絶対条件である。その上で、美味しい野菜と一番美味しい時の野菜を楽しんで頂けたら、幸いだと思う。

アロマフルな話 – とうもろこし

今回は、もう名残になってしまったけれど、とうもろこしについて。
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とうもろこしも自分が農業を始めて、その概念が大きく変わった野菜の1つでした。正直、これまでそんなに有難い野菜と思ったことありませんでした。そもそも、それほど買ったことも食べたこともなく、お祭りで焼きとうもろこしが随分高い値段で売られている、それくらいだけのイメージしかありませんでした。しかしそれが、今ではこんなに感動を与えてくれる野菜なのだから、全く人生何が起こるか分からないものだと思います。

さて、こんなに印象が変わったとうもろこしですが、その理由は、これまで新鮮なとうろこしにありつく事が出来なかったから、というしごく単純、しかし実現がかなり難しい、ということに尽きると思います。とうもろこしは、数ある野菜の中で、間違いなく最も鮮度が落ちるのが早い野菜。採り立てとそうでないものでは味が全く違う。とうもろこしを本当に美味しく食べられるのは、採って半日まででしょう。

採り立てのとうもろこしがどう違うのかというと、甘さが数段違い、そして口の中で文字通り弾けるほどのみずみずしさに満ち溢れている。野菜と言うよりほとんど果物で、さらに言うとハチミツのようで。当園では、採りたては、まずは生でそのままかじるのをお勧めしています。生でとうもろこしを食べれると聞いて、大抵のお客様は驚かれるのですが、折角の採り立てなので、また、わざわざ茹でるのも手間なので、生で召し上がられるのをお勧めしています。もちろん、火を通して食べても美味しく、甘さにコクが増し、より一層甘く感じられます。お勧めの調理方法は、蒸しで、なべ底に少し水を張り、蓋をして沸騰している状態の中で3分が良いと思います。蒸し終わったら、流水で粗熱を取ると、実の潰れを避けることができるので、おススメです。

以前、テレビで朝採れとうもろこしの方が昼や夕方に採ったとうもろこしより甘くて美味しいという内容を見たことがあるのですが、それは間違いではないかと思ています。その番組ではその理由を、昼間気温が上がると、とうもろこしの樹が呼吸でエネルギーを消費するのに実に溜まっている糖分を消費してしまうから、朝、糖分が溜まっている状態のとうもろこしの方が甘い、としていました。しかし、実際、過去に自分で糖度を測定したところ、同じ実で、朝一より昼の方が糖度が高い結果でした。また、朝というのは、夜の間にエネルギーを消耗しつくした時間であるはずであり、一番味が落ちている時間ではないかと思います。(実際、他の多くの野菜で朝一は味が落ちる。)最後に、多くの消費者は買い物をした日の夕食でとうもろこしを調理、食べることになると思いますが、鮮度で一分一秒を争うとうもろこしで、夕食までずっと時間が開く朝に採って良い訳がないのではないでしょうか。きっと、テレビで検証していたのは、朝採ったとうもろこしと、前日の昼や夕方に採ったとうもろこしを比べていたのはないでしょうか。そうとしたら、直近に採った朝採りとうもろこしの方が味がよくなるのは当然の結果でしょう。通常、農家は出荷が朝一なので、朝取りと前日昼・夕方採りを比べるのは、決して間違っているわけではないのですが・・。

そんなこんなで、とうもろこしは鮮度が何よりも大事なので、当園では、本当に納品直前に収穫しています。採り立て数時間のとうもろこしは、現代の流通システムでは絶対に手に入らない、大変貴重なものと思います。農家のみに許された、本当に美味しいとうもろこしを、機会がありましたらぜひお試し下さい。

「日本農業の真実」

これは本のタイトルである。
この本を見つけたときはそのタイトルに少々驚いたが、その辺の適当な書き様の本とは全く違う、現名古屋大学農学部教授の生源寺眞一先生が、学問的な見地から公平かつ論理的に、実に良く纏めて書かれている素晴らしい、ぜひお勧めしたい本である。

生源寺先生は、今は名古屋大学にいらっしゃるが、その前に長く東大農学部で教授を務められていた。また、東大農学部長も務められ、政府の農業関係の会議などで座長も務められた方である。そして、実は自分自身も学生時代、生源寺先生の授業を受けたことがある。いや、正確に言うと、同じ農学部でも農業経済と農業土木で全く専攻が違うにもかかわらず、自分が受けられる範囲で生源寺先生の授業は全て受けた、というのが正しい。周りは、農業経済専攻の学生しかいなかった。

それだけ生源寺先生の授業は大変面白かった。まず考えに偏りがなく、公平・冷静に、そしてきちんと筋の通るお話しをされるのである。また、語り口はソフトでいながら、ユーモアなセンスで意見や体験談も交え、何より分かり易い。本書も固い内容でありながら、実に面白く、容易に読める。読んでいて昔の授業を思い出すようだった。また、生源寺先生のような方が、政府の仕事を数多く引き受けられているのも、改めてよく分かった。

この本では、冷静にこれまでの農政の歴史を紐解き、そして今後の日本の農業のあるべき姿にまで触れられている。自分は農業を始めようと思ったとき、今自分がしている方法以外で、農業をどうやっていけば良いのか思いつかなかった。別の言い方をすると、日本の農業がどうあるべきなのか、どう変わっていくべきなのか、正直分からなかった。しかし、本書により重大なヒントを得られたような気がする。自由主義的な考え方に重きを置く自分に比べると、先生は共同体主義的な考え方をされているが、それでも特定の考えに偏らず、結論まで導き出している。マスコミ報道の単なる批判とは全く違う。やはり、生源寺先生は素晴らしい先生だ。そして、本書は実に痛快な本だ。

書かれたのが民主党政権下時代のものなので、書き口がやや古くなってしまったところはあるが、それでも日本の農業の向くべき姿が本書から変わっているところはどこもない。
ぜひご一読をお勧めしたい良書である。家の本棚にも並べておこう。