もう3年も前になるが、「農家の”資格”」という記事を書いた。その記事では、農家である/なしは、社会的文脈によって定義づけられるとした。今でも、社会的な観点から考える定義は、その時から変わるところがない。しかしながら、自分個人の思いとしては、大分違うようになってきたと思う。それは、自身の経営が発展し、同時に周りの環境が変わったからかもしれない。今回は、その個人的な思いとしての、「農家の”資格”」について、考えを纏めたいと思う。
その農家の”資格”=農家として認められるのか否か、についてであるが、表面的に捉えられるところと、直ぐに捉えられない精神的なところ、の2つの判断ポイントがあると思う。
まず、表面的に捉えられるところであるが、農家として人を認められるのか否かは、仕事をする時間や労力の大半を、農業に費やしているか否か、ということになると思う。農家は、兼業が多い。また、農外収入の方が多いことが多い。特に都市近郊農業においては。なので、他にすべき仕事があったり、得る収入もあったりするのではあるが、そのような中でも、農業を仕事の中心に据えて、時間と労力の大半を農業に注いでいるか否かは、重要な点であると思う。農家の言葉を使えば、「毎日」「朝から晩まで」「畑に出て」「よくやっているな」ということになると思う。もちろん、これらの条件を満たせば、農家として良い農家だ、ということにはならないのではあるが、農家同士の会話でよく出てくる「あいつは農家をよくやってる/やってない」という言葉とその判断基準は、間違っていないと思う。
次に、精神的なところについてであるが、前記、時間や労力の大半を農業に費やすことによって生まれる、心の持ちよう、在り方、があると思う。それはこれまでこのブログ他記事に書いてきた通りであるが、全ての苦難や運命を引き受けて、それでも尚、前に進もうとする希望の意志、生きるか死ぬか(≒生活できるかできないか)のギリギリの線でも日々闘い、それでも決して諦めようとしない生の意志、とでも言えばいいであろうか。草や虫が、日々必死に生きようとしている、その生命の輝きと同じところである。
だから、農家ならば、台風被害を嘆いたりはしない。何があっても、心折れたりはしない。ましてや、だから半年遊びに行こうなどと、冗談でも絶対に言ったりはしない。この仕事の収入で出来ない買い物をして、見せびらかしたり、配り回ることはしない。
余談が続くようであるが、”自分は農家だ”という言葉は、農家をやっていない人ほど、不思議と言いたがる。そもそも、本当に農家をやっている人は、むしろ、自分が農家である境遇を惨めにさえ思っているので、そう言いたがらないものだ。だから、自分は農家であると、言って回る人は、ほとんどの場合、大して農業をしていない人である。逆説的のようであるが、それが真実である。なお、極端な例では、農業に関わったことがあるだけの人が自分を農家呼ばわりすることさえある。農業に関わることと、農業で生きていくことは、天と地ほどの差、と言うよりはるかに大きい、上記人生観と世界観の達観の有無があるというのに。だから、更に言うと、農家がよく言う「農業やってから言え」という言葉は、単なるポジショントークではなく、農家の達観した人生観と世界観を踏まえた、非常に意味の重い言葉なのである。
以上、農家の”資格”の判断ポイントを個人的に思う点について、纏めてみた。日々、農業の仕事を行い、きちんとした心構えを持つ人間こそが、農家と呼ばれるに相応しい。そして、自分がそのようであることを誇りに思うと共に、幸せに思う。そしてまた、そのような仲間達と共に、これからの農業を切り拓いて行きたいと思う。