経営での評価一辺倒に異議あり

昨今の社会情勢を見ると、資本主義の行き過ぎが見直され、自社の利益よりも社会全体の持続性への貢献が重視されるようになってきているようであるが、どうやら日本の農業界においてはその逆で、経営の評価が、狭義の経営(規模、売上、利益)において、重視される風潮が広がってきているように思う。
これは、良い悪いの問題ではなく、社会的な文脈上そうなるのだろうと思う。現在、日本の農業界は、担い手の減少に伴う経営規模拡大や収益向上が求められている局面にあり、狭義の経営が重視されるのは、当然の帰結であると思う。しかし、どうもその風潮に強い違和感を感じずにはいられないのである。

確かに、営む農業が経営として成立していることは重要である。いや、必須条件である。それ無くして、持続性のある農業など存在しない。自分もそれを重視している。過去数回に渡って、その様な内容で、ブログ記事も書いてきた。規模や売上や利益が大きいことが望ましいことに間違いはない。そして、農業の世界で、そのようなビジネス上の成功は稀少であり、称えられ、持ち上げられてもいいと思う。更に言うと、それらは社会の必要を満たした結果であるだろうから、その意味でも望ましいと思う。
余談であるが、宅配型経営の評価には十分な注意が必要である。それは、たとえば2000円の生産物を1000円の送料を乗せて、3000円で売って、総額を売上としているケースが多いとみられるからである。また、ネット販売の場合、更に売上の3~5%の決裁手数料がかかる。なので、純農業生産高は売上の2/3程度で、逆に言うと、5割ほど売上をかさ増ししている可能性が高い。

さて本題に戻り、しかしながら、必要以上に、狭義の経営(規模、売上、利益)で成功を持ち上げることは正しいことなのであろうか?これには、痛烈な反論がある。規模や売上や利益を捉えて成功を称えるならば、それは、成金が自身の成功を自慢しているのと、本質的には何も変わらない、ということだ。何の意味もないことだ。
農業の世界であっても、ビジネス的に成功したということは、時流に乗って商売が上手く行った、というだけのことで、それ以上の何にでもない。顧客や社会のニーズを満たし、その対価を受け取った結果であるのが事実であっても、本当にこの世の多くの人を幸せにできた訳ではないのではないか。この社会に本当に貢献できた訳ではないのではないか。
最大多数の最大幸福という言葉がある。そして、この概念は、時間軸も取り入れると、非常に複雑なものになるが、その視点で考えると、少なくとも、一時の流行りやブームにしかならなかったものが、最大多数の最大幸福を実現したとは、言えないのではないか。ひと時の上手く行った経営が、長年に渡り、人や社会に幸福をもたらすとは、言えないのではないか。

だから自分は、経営での成功は、必要条件ではあっても、真の意味での成功ではないと思う。時代の波に洗われて消えてなくなるものは、真の成功ではないと思う。本当に重要なことは、時代の波に打たれても、なお残り続け、そして人類社会に貢献し続ける仕事の成果であると思う。自分は農業の世界でそのような仕事をして行きたいと思う。やりたいことは沢山ある。出来ることも沢山ある。人類社会に400年残り、貢献し続ける仕事をしよう。

続・農家の”資格”

もう3年も前になるが、「農家の”資格”」という記事を書いた。その記事では、農家である/なしは、社会的文脈によって定義づけられるとした。今でも、社会的な観点から考える定義は、その時から変わるところがない。しかしながら、自分個人の思いとしては、大分違うようになってきたと思う。それは、自身の経営が発展し、同時に周りの環境が変わったからかもしれない。今回は、その個人的な思いとしての、「農家の”資格”」について、考えを纏めたいと思う。

その農家の”資格”=農家として認められるのか否か、についてであるが、表面的に捉えられるところと、直ぐに捉えられない精神的なところ、の2つの判断ポイントがあると思う。

まず、表面的に捉えられるところであるが、農家として人を認められるのか否かは、仕事をする時間や労力の大半を、農業に費やしているか否か、ということになると思う。農家は、兼業が多い。また、農外収入の方が多いことが多い。特に都市近郊農業においては。なので、他にすべき仕事があったり、得る収入もあったりするのではあるが、そのような中でも、農業を仕事の中心に据えて、時間と労力の大半を農業に注いでいるか否かは、重要な点であると思う。農家の言葉を使えば、「毎日」「朝から晩まで」「畑に出て」「よくやっているな」ということになると思う。もちろん、これらの条件を満たせば、農家として良い農家だ、ということにはならないのではあるが、農家同士の会話でよく出てくる「あいつは農家をよくやってる/やってない」という言葉とその判断基準は、間違っていないと思う。

次に、精神的なところについてであるが、前記、時間や労力の大半を農業に費やすことによって生まれる、心の持ちよう、在り方、があると思う。それはこれまでこのブログ他記事に書いてきた通りであるが、全ての苦難や運命を引き受けて、それでも尚、前に進もうとする希望の意志、生きるか死ぬか(≒生活できるかできないか)のギリギリの線でも日々闘い、それでも決して諦めようとしない生の意志、とでも言えばいいであろうか。草や虫が、日々必死に生きようとしている、その生命の輝きと同じところである。
だから、農家ならば、台風被害を嘆いたりはしない。何があっても、心折れたりはしない。ましてや、だから半年遊びに行こうなどと、冗談でも絶対に言ったりはしない。この仕事の収入で出来ない買い物をして、見せびらかしたり、配り回ることはしない。

余談が続くようであるが、”自分は農家だ”という言葉は、農家をやっていない人ほど、不思議と言いたがる。そもそも、本当に農家をやっている人は、むしろ、自分が農家である境遇を惨めにさえ思っているので、そう言いたがらないものだ。だから、自分は農家であると、言って回る人は、ほとんどの場合、大して農業をしていない人である。逆説的のようであるが、それが真実である。なお、極端な例では、農業に関わったことがあるだけの人が自分を農家呼ばわりすることさえある。農業に関わることと、農業で生きていくことは、天と地ほどの差、と言うよりはるかに大きい、上記人生観と世界観の達観の有無があるというのに。だから、更に言うと、農家がよく言う「農業やってから言え」という言葉は、単なるポジショントークではなく、農家の達観した人生観と世界観を踏まえた、非常に意味の重い言葉なのである。

以上、農家の”資格”の判断ポイントを個人的に思う点について、纏めてみた。日々、農業の仕事を行い、きちんとした心構えを持つ人間こそが、農家と呼ばれるに相応しい。そして、自分がそのようであることを誇りに思うと共に、幸せに思う。そしてまた、そのような仲間達と共に、これからの農業を切り拓いて行きたいと思う。

農業体験をしない訳

自分は農業体験を商売として行っていない。また、したくもないと思っている。理由は単純で、農業が楽しいとか、面白いとか、気持ちいいとか、思って欲しくないからである。以前のブログで記したように、その様な感情は、農業のほんの一面でしかない。だから、そのような部分だけを切り売りして、間違った農業のイメージを、意図しようと意図せざるとも、広げるようなことはしたくないのである。農家にとって、特に新規就農者にとって、農業の観光業化は、現金獲得の手っ取り早い手段なのかもしれないが、たとえ、金銭的利益になると分かっていても、自分は行いたくないのである。そう思うのは、農業を生業とし、農業で飯を食う苦労を分かっている者の誇りのせいかもしれない。しかしながら、この思いは、ほとんどの農家と通じる、農家の間で一般的な感情に思う。

なお、ここで言う農業体験の定義は、所謂、観光農園や芋掘りなど、収穫を客自らが行い、その成果物を客が消費あるいは持ち帰るものは含まない。それは、対価の主たる目的が、農作業では無く、成果物であることがはっきりしているからだ。その逆で、対価の主たる目的に、成果物が無く、農作業である場合を、ここでの”農業体験”の定義としたいと思う。

その農作業を対価とした農業体験なのであるが、確かに、農家でない一般の人が、農業体験によって、楽しみや面白味を覚え、リフレッシュした気持ちになるのはよく分かる。なぜなら、自分も以前は同じ側にいた人間だからだ。事務所で椅子に座り続けて仕事をする人間にとって、屋外で陽に当たり風に吹かれ、土にまみれて体を動かすのは、何とも気分爽快なことであろう。
しかしながら、農業を生業とし、生計を立てるために、作物を栽培し販売する、その為の農作業で農家が思うこととは、天と地ほどの差がある。そこに楽しみや面白味を感じる余裕は無い。リフレッシュした気持ちなど、生まれようもない。確かに、自分自身も研修時代は、農作業は手放しで楽しかった。何の責任も重圧も無く。しかし、いざこの仕事で生計を立てるとなってから、農作業で感じるものは、焦りや疲れ、苦しい感情でしかなかった。

だからこそ、農作業が面白いなどと言われても、苦々しく思う他ないのである。そして、思ってもいない“農業の面白さ”を売りにして、商売が出来るなどと到底思えないのである。普通の農家の、普通の感情に従えば、普通に出てくる結論であると思う。

一方で、農作業を面白いと思う人が現実に多くいることは分かるし、それは否定できない。それにお金を払いたい人がいることも分かる。そして、そのような需要がある限り、市場原理として、供給の出し手が現れ、需要と供給が一致するのも分かる。ニーズが現に有り、自由な経済活動で解決されていくのであれば、それは社会的には正しいことではないだろうか。

しかしながら、そこには、農業の現状や農家の思いは正当に反映されていない。農業体験の取引の中に含まれていない。いや、そもそも、そのような農家の思いは、取引できる対象ではない。だからと言って、農家の率直な思いに反し、一面的な農業の良さを取引の対象とすることは、好ましいことなのであろうか?そして、農業の一面的な良さのイメージが、大方の事実に反して、強化されるのは、好ましいことなのであろうか?

ここまで考えた時、農家の思いを正当に取引の中に含めることができる農業体験であるならば、自分も農業体験をしても良いのではないかと気が付いた。そのような農業体験が成立するのかどうかは分からないのではあるが。そもそも、この農家の率直な思いを正当に理解してほしい、というのが、本ブログを書き始めてからずっと共通する、根底に流れる考えでもある。最後に結論をひっくり返すようであるが、農家の思いを正当に反映させ、取引が成立するような農業体験を売ることを、今後考えて行こう。

生き方としての農業、ビジネスとしての農業

農業を始める動機は、主として、生き方として農業を目指す場合と、ビジネスとして農業を目指す場合に、大きく分かれると思う。なお、自分は後者を目指している、と思っていた。それは、このブログ初回に記したように、農業はビジネスチャンスと思っていたからである。
しかしながら、最近、自分は必ずしもそうではないのではと思うようになった。また同時に、生き方として目指す農業と、ビジネスとして目指す農業は、そんなにきれいに分かれるものでないことにも気がついた。
そこで今回、「農業で目指すもの」という古くて新しいこの問題を、改めて考え直し、整理してみたいと思う。

まずそもそも、そのように考えるようになったきっかけなのであるが、農業を始めてそれなりの年月が過ぎ、見聞が広まる中で、経営的に自分よりはるかに大きく、短期間で、成功している事例を数多く見聞きしてきたからである。そして逆に自身を省みたとき、自分は変わらず小規模で、ビジネスとして間違っていたのではないかと、疑問を持つようになった。
この差はどこから生まれたのだろう。自分の何が悪かったのか/不足していたのか。逆に、大きく成功している事例では、何が違い、何が良かったのだろう。

ビジネスとして農業の正解と不正解の差を考える中で、大きく成功している事例で共通していそうな決定要因が2つ見えてきた。
1つは、”資本の集中投下”。資金調達してでも、しっかり投資をしている。栽培施設か農業機械。更に、ある作物専用である場合も多い。言い換えれば、ピンポイントで大規模な”資本の集中投下”をしている。当然、その様になれば、生産効率は上がり、経営としても上手く行きやすくなるのだろう。
あともう1つは、”事業拡大可能な環境”で経営していること。簡単に言うと、都市近郊でない場所。農業の売上は、やはり面積に大きく制限される。売上の上限の殻を破ってさらに大きくなるには、面積を増やすしかない。そうなると、より大規模に経営発展可能な場所であることは必須であろう。

そう思うと、自分の場合、そのどちらにもあてはまらない。投資はなるべくしないスタンスで長らくきた。その上、少量多品目という、資本の集中投下の効果の出にくい経営を行ってきた。また、都市近郊で、なかなか規模拡大が難しい状況にあった。とは言え、結果論としては、ビジネスとしては間違っていた、と言わざるを得ない。
資本の投下が不十分であったことは、最近その考えを改め、機械装備を充実させ、経営が上向いたことで、改めて再認識した。少量多品目経営については、最近、品目により選択的拡大をするようになって、その生産効率の良さに驚いた。
あと、就農地の選択については、良くなかったかどうかを判断することは正直難しい。都内から近く、有利販売が出来る良い立地であるからである。特に就農当初の経営成立にはプラスに働いたはずであろう。とは言え、規模拡大という点で、良い立地でないことは確かである。

ここまで考えたとき、自分はビジネスとしての農業を志向していたにも関わらず、意外とそうでなかったと気付かされた。そもそも、ビジネスとして不正解であったのは、ビジネス上の選択を間違えたと言うより、それ以前の問題として、生き方として農業の仕方の一部を選択していたから、と言う方が適切なのかもしれない。

生き方として農業を志すというのは、今となっては皮肉のようであるが、自分は非常に否定的に思ってきた。生き方としての農業とは、簡単に想像がつくところで、”農業のある暮らしをしたい”、”田舎暮らしをしたい”、”会社勤めはできないけれども、農業ならできるかもしれない”、などの考えがある。しかしながらこれらは、農業の現実を知らない人の、ただの妄想に過ぎない。以前のブログに書いたように、農業で生きるには、収入面で、サラリーマンよりずっと強いプレッシャーに晒され、ずっと強い精神力を求められる。生き方として農業を行う人生があってもいいとは思うが、経済性が伴って初めて、農業のある生き方ができる。だから、自分は生き方として農業を志したいなど、微塵も思ったことは無かった。

しかしながら、結論から言えば、それでも自身の農業のやり方に、自分の生き方の志向を織り交ぜてきたと言える。投資はするとしても、少量多品目の経営を止めたいと思うだろうか?いや、日々の食卓を彩る数多くの野菜を作るのを止めはしないだろう。都市近郊経営を止めて、地方に移住するだろうか?いや、自分は、都市の便利で機会溢れる暮らしを捨てることはしないだろう。自分の農業経営の幾つかの条件は、ビジネス性より、生き方を優先していた。

そしてここに、生き方として目指す農業と、ビジネスとして目指す農業が、はっきり相反する考えではなく、その境は連続的である、とも気付かされたのである。そして、農業を実際に行う際には、生き方として目指す農業とビジネスとして目指す農業の間の、どこかを選択することになるのであろう。そこには絶対的な解は無い。解は自身で導き出すしかない。但し、勿論、両立が必要なのは間違いない。どちらか一方が欠けても、農業の持続性が欠けてしまう。

そして再び自身の農業の目指すところを省みると、やはり創業時と変わるところが無い。あくまでも経営理念「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」に忠実に、数多くの野菜を作り、お客様にご提供していきたい。その上で、他の生き方の考えと織り交ぜながら、現状で出来ることを出来る限り行い、それでもその可能性は無限大であるのだから、その可能性を追い求め、ビジネスとしての成功も追い求めて行けるはずだ。

命を育てる仕事は、奪う仕事

命を育てる仕事は、同時に、命を奪う仕事でもある。
直接的に命を奪うことで食物を得る畜産農業に限らず、作物を育てる耕種農業も、多くの命を奪うことで成立している。
この事実は、世間一般には想像すらされず、もちろん理解もされていないことに思う。しかしながら、この事実は、今改めてここで言及する価値があると思う。なぜなら、農業と自然の厳しさを正しく理解して頂きたいからである。そしてまた、この事実が、生きる厳しさ、日々努力し続ける意味、を的確に教えてくれるからである。今回は、そのような話をしたいと思う。

まず、普通の人が農業という言葉を聞いて思い浮かべるシーン、田んぼに稲が豊かに実り、或いは、畑に多くの野菜が育っている、果実が木にたわわに実っている、そして、蝶が舞い、鳥が鳴き、たくさんの生命とそのエネルギーが満ち溢れ、喜びと幸せに満ちた場面、というのは、単なる幻想に過ぎない。命を育てる仕事を生業とする者は、そのような見方は決してしない。風に吹かれ、雨に打たれ、厳しい自然条件の中、虫や草や動物、或いは目に見えない病気と、常に生き残りをかけて競争している。食うか食われるかの競争をする中、相手の命を奪うことで、ようやく自分の命を繋いでいる。逆に言うと、相手の命を奪わなければ、自分の生活が喰われるだけだ。そのような訳にはいかない。選択肢などない。作物という人間が利用するためのものを得るために、それらを狙う他の多くのものから守らなければいけない。そして、それは命を奪うことに他ならない。

一般的な農業において使われる薬剤で、一体どれだけの虫や病原菌を含む菌類が死んでいるのだろう。除草剤や或いは耕運機やトラクターで土を耕すことで、どれだけの草花が命を絶たれていることだろう。実際に命を奪う行為を直接的にしているつもりはなくても、農業の営みを行うことで、無数の命を奪っている。それが自分のように、薬剤に頼らない農業をしていると、もっと直接的なことをしている。この手で虫を潰し、草を引き抜く。時には動物にも手をかける。命を奪っているという感覚は大有りで、日々、自然界の弱肉強食、生き残りをかけた生存競争をしている感覚以外、生まれる想いなど何も無い。宗教的に考えれば、自分は何とも罪深く、地獄の底で閻魔様から厳しい罰を与えられるのは確定で、お釈迦様が、蜘蛛の糸を垂らしてくれることもまず無いであろう。

しかしながら、これが自然本来の営みである。生きるために、食べ物を口にするために、常に生き残りをかけて闘っている。これは、ごく自然なことである。そしてこれが、生命本来のあり方である。自然界は競争で満ち溢れている。命を育てる仕事をしていない者には、想像もつかないことであろうが、この事実は正しく理解してほしい。農業体験や職業体験などで、もちろんそれ自体は、大変歓迎されるべきことなのだが、”自然の恩恵”や”農業の恵み”など、農業の表面的な良い部分だけを見て理解するのは止めてほしい。厳しい生存競争を経た結果、恩恵や恵みがあることを理解してほしい。
話は少し逸れるのであるが、ここまで書いて、自分がなぜ農業体験や食育に拒否感を覚えるのか、はっきりと分かった。それは、農業の上っ面の良い部分だけを見て、分かったようになっているからだ。農業は、食べ物を作ることは、命を育てることは、そんなに生易しいことではない。自然界は厳しい競争で満ち溢れている。

厳しい生存競争としての農業、これが今回お伝えしたいことである。そして更に、この事実から思いが膨らみ、現在の日本社会に対し、疑問を投げかけたいことが大いにある。
・農家が、日々生き残りをかけて必死に闘っているように、現在日本社会の多くの人は、必死に闘っているのだろうか?農家がその結果を耐え忍ぶように、多くの人はその結果を受け止めているのだろうか?
・本来、生き残りをかけた競争が自然な状態なのに、あまりにも競争が避けられていないか?安易に闘いを放棄していないのか?
・以前のブログで触れたこともあるのだが、農家の立場からすれば、会社組織は”生活協同組合”のようにしか見えない。個々人が個々の生として、責任ある努力をしているのであろうか?また、きちんと結果が下されているのであろうか?

命に対する仕事は、情け容赦ない。でも、それでいい。生きるのは厳しいこと。そして、日々、草や虫が休みなく闘っているのと同じく、ただ自分は、日々、闘い続けていこうと思う。

作物の気持ち (スマート農業との対比を添えて)

作物の気持ち。
ある特定の思想や信条があって、この言葉を使うのではない。農家の間では(産地に限られるのかもしれないが)、普通に使われる言葉である。自分の近くでは、篤農家の人が使うであろうか。逆に、中途半端な農家であったり、生活が掛かっていない農家からは、ほとんど聞かれない言葉でもある。

もちろん、作物に気持ちなどあるはずがない。生物学的にそのような感情を司る器官が作物に存在しないからだ。それでも尚、日々、作物に接していると、作物の気持ちが分かるような気がしてくるのである。肥やしが足らないのか、水が足らないのか、寒いのか、暑いのか。或いは、全てが満ち足りて、とても元気で、溌剌としているのか。
表面的には、作物の全体や部分の微妙な変化を捉えて、そう感じているだけなのかもしれない。例えば、葉の色1つとっても、朝と昼と晩で、大きく違う。水を遣る前と後では、姿・形が大きく変わる(萎れているだけ、ということもあるのかもしれないが)。透明感や勢いの変化は非常にダイナミックでさえある。

これらの変化は、やはり経験を積まないと分からないもののようだ。実際、初心者の人に説明しても、見分けがつかないのである。自分はこの仕事を始め、5年位経ったころから、分かるようになってきた。初めはトマトから(トマトはとても分かり易い)。そして今は、ほとんどの作物で。

そして、まるで対話のキャッチボールの様に、作物のサインと自分の世話のやり取りがなされるのである。その声を聞き、肥料が足らなくなる前に肥料を遣り、水が足らなくなる前に水を遣る。その様になってから、作物の出来が更に良くなった。収益的にも良くなっているはずだ。いや、そのレベルに達して初めて、農業で暮らせるようになる程、農業の世界は厳しく、競争は激しいと言った方がいい。

”作物の気持ちが分かるようになったら、農家として一人前。” 前に、そのように聞いたことがある。確かにその通りと思う。これから更に、作物との対話を深め、良い成果を出して行きたいと思う。そしてこの、作物や生き物や自然物との調和・一体感、何と不思議で、幸せな感覚、を大事にしていこう。

ここまで考えた時、スマート農業の進展で、いつか作物の気持ちも捉えられるようになるのだろうかと思った。経験を積みつつある一農家の立場からすれば、経験や勘に勝るはずがない。一方、学問的な考え方を重視し、科学や技術を信用する者の立場からすれば、経験や勘は、データや技術で必ずいつかは置き換わる。
相反する考えを持つのではあるが、今の自分の結論としては、今ではなくても、いつかは経験や勘が、データや技術で置き換わるのだろう。そうでなければ、科学技術の進歩の無い世界になってしまう。
但し、その置き換えの道のりは困難を伴うだろう。作物の気持ちの翻訳は、非常に困難と思うからだ。葉の色の計測1つにしても、その日の日の当たり方(季節、天気、時刻)などで、同じ葉の色を測っても、違う葉の色で計測されてしまう(外乱要因が多過ぎる)。あと、計測が出来たところで、それが成果物・収益にどの程度影響するのか、それで元が取れるのか、というところが不明確過ぎる(因果関係が不明確過ぎる)。今日現在の技術では、十分な外乱要因の排除と、明確な因果関係の構築は難しいだろう(全て未知数にしたままで、AIが解だけを示せばよいというの考えもあるだろうが)。でもその程度では、経験や勘に軍配が上がる。特に、篤農家レベルの栽培水準において。そして将来、どんなにデータや技術で置き換わりが進んだとしても、経験や勘の重要性が色褪せることはないであろう。

農業の仕事は大変なのか - 勤め仕事との比較を通した考察 

農業の仕事は大変なのか?答えはYesであり、Noでもある。これが今のところの自分の考えである。
前回ブログ ”農業は癒しなのか” で記した通り、多くの農家にとって、農業とは苦労でしかない。そして、収入もままならず、最低賃金以下で働いている人も少なくない。一方、勤めの経験がある自分としては、大変さの程度は、大変さの種類が全く異なるものの、さほど変わりがないように思う。仕事は何をやっても大変である。
そこで今回は、前回ブログとは逆の、世間が農業に持つマイナスのイメージ ”農業は大変である”というイメージと実際について論じてみたい。また、分かり易くする為、勤め仕事(事務職)と比較をしながら話を進めたい。折しも、この春で勤め仕事と農業の仕事をした時間の長さが同じ7年になった。今こそ語るに相応しい時に思う。

では、農業が大変と思われるいくつかのポイントについて、Yesと思うところ、Noと思うところ、勤め仕事との比較、を論じてみたいと思う。

1)農業がきつい肉体労働であることについて
i) Yesの部分- 農業の仕事が必ずしも力仕事を意味する訳ではないのだが、体を使う仕事なだけに、あながち間違いではない。肉体的にハード、疲れる仕事であるのは事実である。更には、厳しい自然条件の中(真夏の炎天下、芯まで濡れる雨風の中、冬の雪や氷の上の凍てつく寒さの中)、仕事をしなければならないことも多い。まさに「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の世界。大変なのは事実だし、農家自身も大変と思っている人も多い。農業を志した人のうち、少なからぬ人が脱落する関門でもある。だから、長年勤め仕事をしていた人が、思い付きのように農業を始めようとするのは、実に危険なことである。

ii)Noの部分- どの仕事も特有の疲れ方をするものと思う。そして、その疲れ方への耐性に向き・不向きがあると思う。とすれば、農業では、全身的な肉体的疲労が特有の疲れ方で、求められる資質は、十分な体力、肉体上の耐久力ではないかと思う。そして十分資質を備えていれば、あとは”なれる”。(昔、哲学の先生が、人は”なれる”動物だと言っていたのを思い出した。”なれる”、には実に多くの漢字を充てることができ、様々な意味を持つことができる。)そうすれば、大変な仕事でも何でもない、普通の仕事である。

iii)勤め仕事との比較- 勤め仕事の立場からすると、一日、椅子にじっと座って画面を睨みながら仕事をして、変な疲れ方をするより、戸外で陽に当たり、雨風に吹かれて、体を使った仕事をして肉体的に疲れる方が、心身共に健康的なのだろう。この点が強調されると困るのだが、少なからぬ真実である。なんとなく変な疲れが身体に残る勤め仕事と、厳しい天候条件の中、全身くたくたになるまで疲れる農業の仕事と、どちらが良いのであろう?自分はどちらでも良い気がする。

2)農業の所得が低いことについて
i) Yesの部分- 確かに、自分の周りでも、農業で食っている人はほぼいない(これは、神奈川、横浜ならではのことかもしれないのだが)。年金や家族の勤め仕事など、副収入もあって、生活を維持できているというのは、農家の平均をとれば、間違ってはいる話ではない。(但し、農家の生活コストは勤め人に比べると非常に低い。食べ物は、米、野菜などは自分で作ったり、親戚・近所から貰ったりなどで、買うのは、肉と魚のみ、ということも多い。また、生活コストの一番大きな部分を占める、住居費が圧倒的に少ない。既に住むところ、或いは土地、があるからである。)

ii)Noの部分- Yesの部分の裏返しのようでもあるのだが、今の日本の農業の現場を支える数の多数派は、零細多数の兼業農家である。しかし、これは数の話であって、農業産出額で見れば、その大部分を占めるのは、少数の主業農家(昔の言葉の専業農家)である。農業一本で打ち込んでやっている人は、農業で飯が食えている。そして、そのような少数の人々が日本の農産物の大部分を作っている。農業の所得が低い、というのは、本当に農業をしている人にとっては、必ずしも真実ではない。(それでも所得水準が低いところは決してないわけではない。)

iii)勤め仕事との比較- かつて、脱サラをしてバーを始めた先輩が”収入は1/3だが、幸せは3倍”と言っているのを聞いて笑ってしまったが、それと似たようなことが農業でも言えるかもしれない。農業の仕事の良いところの1つは、組織内で仕事をする故の種々のストレスが無いところである。一体誰の何の為に仕事をしているのかよく分からなくなるようなこと(上司が点を取る為、先輩の意味不明な振り、部下がしない分のカバーなど、自分も散々経験した)はかなり少ない。(なお、そこに憧れを持たれるのは困る。人間関係については、また別の、”村”の人間関係がある。)但し、収入は少ない。ストレスは多いが収入が良いのと、ストレスは少ないが収入が少ないのと、どちらが良いであろうか?自分は、ストレスはもちろん無いにこしたことはないが、収入は多い方が望ましいと思う。

3)農業の収入が不安定であることについて
i) Yesの部分- 農業の仕事は、自然の脅威や被害に晒され、安定した収入を得られない仕事であるのは言うまでもない。前回ブログで記したように、農業は100%完全成果主義である上に、成果に対し自分の努力は半分までしか反映されない。残りの半分は、運と天候次第。結果として、収入激減など特別な話ではない。(それでも、安定した十分な収入を得られないのは、経営努力が足らないというのも真実。ここでは深堀りしない。)自分もこれまで数多くの失敗や災害にあってきた。それが、自分の収入が減ることに直結し、”明日、食べるものをどうしようか”というような考えを持つのは、何とも胃が痛くなり、夜も眠れなくなるものだ。このストレスは、毎月決まった給料が入る勤め仕事には無い、農業(だけではないが)特有の巨大なストレスである。自分は勤め時代から神経太い方だと思っていたが、そのストレスの方が遥かに大きかった。ここも、農業を志した人に、肉体的なハードさ以上に大きな関門となる点である。

ii)Noの部分- これもYesの部分の裏返しのようでもあるのだが、この農業特有のストレスには、対応できないわけではない。なぜなら、それが農業の仕事だから。自然相手に仕事をするということはそういうことだから。それが普通で、それを前提条件として仕事をするしかないから。ここまで理解が進めば、その過大なストレスに対応できないわけではないのである。昔、このような話を聞いたことがある。
とある梨園の跡取りの孫が、就農して数年後、収穫間近の梨園を台風が襲った。あと少しで収穫の立派に育った梨は、全て地面に落ちて台無しになってしまった。泣きながら梨を拾う孫に、お爺さんが言った。「泣くのならこの仕事を辞めてしまえ。」と。
美談でも何でもない。でも、この話は農業の不安定さ・ストレスに向かう方法を端的に表している。出来ることは、全ての災難と運命を自分のものとして受け止め、それでもなお、前に進むことしかない。だから篤農家の人ほど、常に動じない。不安定さ・大きなストレスなど既に超越している。その精神力は、勤め人の比ではない。手前味噌ではあるが、自分も、絶望だなんて、とうの昔にし尽くした。もうこれ以上、涙することも、失望することもない。残るのは希望でしか無い。農家であるには、勤め人の10倍の精神力が必要だった。

iii)勤め仕事との比較- 前項の所得の低さの議論において、組織特有のストレスと収入を天秤にかけたが、ここでは、それにさらに追加し、<組織ゆえのストレスはあるが安定して十分な収入がある> ⇔ <組織ゆえのストレスはないが、不安定で少ない収入+ゆえの強大なストレスがある>としよう。どちらが良いであろうか。自分はそれでも、どちらでも良いと思う。それぞれに良い点がある。昔、会社組織は、”生活協同組合”なのではないかと思ったことがあるが(なんだかんだ言って、農家に比べれば、守られているし、他の人がカバーしてくれれば、自分の給料が減ることはない)、それで自身や社会が安定するなら、それで良いと思う。やや話が逸れるようであるが、ある経済紙の広告で”仕事の8割は捨てられる”という見出しを見たことがあるが、確かに、時間が経てばどうでも良い仕事が多いとすれば、安定した給料は、自分のした仕事に対して貰っているのではなく、自分の受けたストレスに対して貰っているのだろう。話を元に戻すと、農業の仕事は、不安定な少ない収入で、胃が痛くなるような思いはするが、同時に自然の厳しさに鍛えられて、強い精神力を持つようになり、対応できない訳ではない。それもそれで良いことだ。

農業が大変と思われるポイントと実際について、いくつか論じてみた。農業の仕事が大変かと言われると、大変なところもあるけれども、勤め仕事と大変なのは同じであると思う。それぞれに、大変なところと良いところがある。

最後に、それでも自分は農業の仕事を選ぶと思う。農業は、仕事そのものの面白さだけでなく、事業として様々な可能性に満ちた産業であるから。そして、組織の枠に縛られることなく、自由に夢を想い描けるのが、とても面白いから。今後も、夢の実現を追い求め、様々な可能性に挑戦して行きたい。農業は天職であると思う。

農業は癒しなのか

「農業は癒しである。」時折、そのような話を聞く。そして毎回、「ああ、また来たな、この話。」と思う。

なぜなら、そんなことを思って仕事をしている農家など、ほぼいないと思うからだ。そのように言われた時の農家の反応は、大体想像がつく。ほとんどの農家は、黙って何も言わないだろう。農家で、面と向かって意見を言う人は非常に少ない(自分はその意味では異端)。そんなことはないんだけどな、と思いつつ、滅多に褒められることがない自分の仕事を良く言われ、戸惑いと気恥ずかしさが沸き起こり、入り混じった感情で、反応が一時停止してしまう。農家にとって、そもそも農業とは、大変で、苦労に満ちたことに他ならない。これまで自分の周りの農家の方々から伝え聞く話を総合的に纏めると、そのような結論になると思う。そのように農家が考える主な点をいくつかあげてみたい。

まず1つ目は、農家は逆に、勤め人のことを羨ましく思っている。椅子に座った楽な姿勢で、汚れることなく綺麗なオフィスで、空調が効いて快適な室内で椅子に座って仕事が出来るなんて、なんて良い仕事なのだろうと思っている。勤め人が農業を、身体を使って健康的で、土や自然に触れられて、精神的にも健康的で良い仕事と思うのだとしたら、何ともすれ違った、真逆のような考え方をしているのだろう。まさに、隣の芝生は青く見える、と言えば良い方で、単なる無いものねだりでしかない。

次に2つ目は、農家はそのような自らの境遇を惨めにさえ思っている。「農家は馬鹿じゃなければ勤まらない。」「学校なんか行ったら、農業が馬鹿らしくなって後を継がなくなるから、学校なんか行かない方が良い。」「学校なんか行って、何の意味があるのか。」他にも、こんな話を聞いたことがある。「朝、自分が田んぼで泥に浸かりながら仕事をしていると、小学校の同級生が、綺麗な白いワイシャツを着て、綺麗な革靴を履いて、挨拶をして通り過ぎて出勤して行った。そして夕方、その同級生が、行きと全く変わらない、汚れない綺麗なワイシャツと革靴の姿で、帰って来た。こちらは全身泥だらけで、襟の裏まで泥で真っ黒なのに。また挨拶で声を掛けられたが、恥ずかしくて顔を上げられなかった。」と。この話を初めて聞いた時には、悔しくて思わず涙が出た。今も思い出すだけで泣けてくる。

そして3つ目は、農家は自分の仕事の収入面での不安定さを良く思っていない。だから、勤め人が、決まったお給料を毎月貰えるなんて、と羨ましく思っている。最近は成果主義が行き過ぎているなどという論調をたまに見かけるが、農業はそもそも100%完全成果主義だ。しかも自分の努力は、運や天候などの不可抗力で必ずしも報われる訳ではない。自分の努力は、どんなに頑張っても、成果の半分までにしかならない、残りの半分は運と天候次第。こんな厳しい仕事が他にあろうか。

以上あげた3点の様に、農家は自分の仕事を良く思っていない。そして、その惨めさと悔しさを噛み潰しながらも、代々伝わる家業だからと、歯を喰いしばって頑張っている。そのような人達の間で、「農業は癒し」などという考えが生まれるだろうか。そして、その考えが受け入れられるのだろうか。

一方、改めて考えてみると、そこで意固地になって、農業の良い部分を完全否定することもないのかな、とも思う。美しく育った作物や周りの景色などに、心打たれることはよくあること。そして、農業の厳しさを経ているからこそ、良い時の喜びも大きくなる。農業が農家にとって癒しであるならば、それは一周回ったその末の、癒しなのだろう。自分も、春の新緑に心躍り、夏の夕立に心身共に洗われ、秋の夕日に心動かされる。冬の雪降る音に、趣を感じ入る。でもそれは、9割の苦労を経た上での良い時であって、9割の苦労があるからこその良い時である。

農業は癒しである。但し、それは農業のごく限られた一面であって、農業全体の姿を適切に表している訳ではない。農家と勤め人の、違う立場故の視点の違いがあるとは思うが、農業の実際と農家の本当の思いを正しく理解して欲しいと願う。そして、農業の苦労があるが故に、より一層美しく感じられる、様々な農業の素晴らしさを、伝えて行ければと思う。

※追加で注記:農業の仕事は大変だが、勤めの仕事に比べて、特別大変な仕事である訳ではない(どの仕事も大変)。その点についてはまた別の機会に話をしたいと思う。ただ、農業に対する実際から離れたプラスのイメージについて、今回はお伝え出来ればと思う。

日本の有機農業はどこまで伸びるのか

日本の有機農業の現在と未来について、様々なことが言われるようだ。
オーガニック後進国だの、今後の成長が期待できる、など。
いずれにしても、日本における有機農業や有機食品の市場規模やシェアが、欧米諸国に比べ低いことがその理由のようである。
(有機農業取組面積の割合 日本0.5%、ドイツ8.2%、フランス6.3%、イギリス2.9%、アメリカ0.6%
1人あたり年間有機農産物消費額 日本€11、アメリカ€122、ドイツ€122、フランス€118、イギリス€35)

さらにその背景・理由として、日本の厳しい気象条件や高い生産・物流コスト、複雑で分かり難い認証制度、などが上げられるようだ。日本の厳しい気象条件はその通りだと思うが、それだけで十分と思えず、また、他の説明も根本的と思えないのである。また、実際の生産者や消費者の目線を的確に捉えてないようにしか思えないのである。

そこで、農業の生産と販売の現場にいる人間だからこそ分かり、普段語られることが無い、根本的と思われる理由を考えてみたいと思う。
そして、日本の有機農業の行く末を考えてみたいと思う。

まず、3つ+αほど考えられる理由をあげよう。

1つ目であるが、日本と欧米の生産と流通の体制に大きな違いがあり、それが、消費者の信頼感の違いを生んでいるのではないか。
欧米の農業は言うまでもなく、大規模で大量生産・大量輸送が主である。そして、生産の現場では移民、場合によっては不法移民が、労働力の担い手となっている。(日本の農業も外国人労働力に頼るようになってきているようだが、ひとまずこれは置いておいて。)そのような状況で、消費者の信頼を満たしていないのではないか。一方、日本の生産の現場は、小規模零細多数の家族経営の農家が中心である。また、欧米に比べれば輸送距離も短い。なんだかんだ言って、日本の消費者は、日本の農家が手塩にかけて作った、しかも高品質なものを、鮮度良く得られている。日本の消費者は、そのようにスーパーで手に取る野菜に、そこまで考えなくても、安心感を得られているのではないか。その状況で、農産物にそれ以上の価値を求めることがあるのだろうか。

2つ目は、農業のイメージ・環境に対する影響の考え方と、社会文化が大きく違う、という点である。
欧米では、農業は自然破壊の産業と捉えられている。そこで、なるべく環境に対して農業は優しくあったほうが良い=有機農産物が望ましいという考え方になる。一方の日本で、農業が自然破壊の産業だと考える人は、ほとんどいないだろう(自分はそういう考え方をしているが)。やはり、一般的な日本人の農業に対するイメージは、長閑な田園風景に象徴される、自然に調和的、或いは、自然の一部である印象ではないか。その中で、そもそも環境に対して、農業が環境に優しくあるべきだという考えが出てくるはずもない。欧米の消費者は、環境を考えて有機農産物を買うらしいが、日本の消費者は、自分の健康の為に有機農産物を買う。更に言うと、日本は欧米と比較して、公共の福祉の為に、個人の自由や所有権が制限されるのを、とても嫌がる社会であると思うので(街中の景観を見れば説明不要だろう)、日本の消費者が、環境の為に、高いけれども進んで有機農産物を買い求める、などという姿は絶対に想像できないのである。農業の環境に対する正のイメージに日本の社会文化が重なって、有機農産物に高い支持が集まらないように思うのである。

3つ目は、上記2点と重なるのではあるが、既に、日本の消費者は、日本の生産者を十分に信頼しているのではないか。
生産者のイメージと言えば、昔ながらの農家が、真面目にきちっと職人のように仕事をしているというイメージだろう(実際それでほぼ間違いない)。そのような人達が、農薬や化学肥料を使って栽培していても、きちんとルールを守り、食品として安全な基準を守って使用していると思えるのではないか。(さらにその前提として、農薬などの科学的な安全性を日本の消費者は信頼しているだろう。)また、欧米に比べれば物理的な距離も近く、それが心理的な距離の近さにも繋がっているところもあるのではないかと思う。そして前述の田園のイメージも重なって、性善説のようにしか捉えられない、日本の農家のイメージがあるのではないか。そのような信頼できる方々が作る農産物に、これ以上の信用が本当に必要なのであろうか?

+αの部分の理由であるが、冒頭に記したように、日本の厳しい自然環境はその通りだ。他にも、農家が共同体の中で、1人だけ違う生産方法を取り、周りに迷惑をかけられない、和を乱すことはできないという意識も強いと思う。

以上、有機農産物が日本で現状それほど広まっていない理由について考えてみた。日本社会と農業の特色を考えてみれば、そのような結果になるのは、ごく自然なことと思える。決して後進国なんてことはない。それだけ、現状の農業・農産物に優位性がある、というだけのことなのだろう。

そうすると、日本の今後の有機農業はどのようになるのであろうか。取組面積は拡大しているようである。(H21 16千ha(0.4%) → H29 23千ha(0.5%))また、有機食品の市場も拡大しているようだ。(市場規模H21 1300億円 → H29 1850億円、ほとんどすべて「有機」を購入している者の割合H21 0.9% → H29 1.68%) 劇的な変化ではないが、堅調に拡大している。それでも、欧米の規模から比べると、割合が1ケタ小さい。大きなパラダイムシフトでも無い限り、欧米並みになるとはとても考えられないが、今のペースで拡大を続け、現状の2~3倍の規模を試す展開になるのではないか。そのときの日本社会の有機農業に対する考えがどのように変化しているのか、楽しみではある。

※参考資料
「有機農業をめぐる事情」令和元年8月 農林水産省 生産局農業環境対策課
「有機農産物等の市場拡大の要件」 堀内芳彦 農林金融2019・7 農林中金総合研究所

和食の裏に見える農業

和食は塩分が多い。
言わずと知れたことではあるが、その理由が何故か、的確な説明を聞いた覚えがない。
塩分が多いのは和食だからと、意味不明な逆転の因果関係を聞いたことが過去多かっただろうか。保存食や漬物に塩を用いていたから、という説明もあるようだが、
世界の食と比べた中で、なぜ和食が、という疑問に十分答えているのだろうか。

そのようなことは過去考えもしなかったのではあるが、日々の農作業を通じて、ある日突然、妙に納得がいく答えを得ることができてしまった。

夏の暑い時に、畑仕事をしているときにかく汗の量は尋常でない。朝のまだ暗くて涼しい(近年は涼しくないが)時間帯であっても、湿気がものすごく、30分もすれば、シャワーを浴びたのではないかと思われる程、汗をかくのである。それに応じて、大量の水を飲むのであるが、これがまた大変不思議なことに、水を飲み続けると、水分を摂っているにもかかわらず、途中から汗が出なくなるのである。そして何となく体が重くなる。しかしながら、ある日発見したのであるが、塩分を補給しながら水分を摂り続けると、汗が止まるのを防ぐことができ、体が重くなるのも防ぐことができるのである。

塩分の補給が大事、塩分は農作業をするには多く摂らないといけない、この考えに至ったとき、和食に塩分が多い理由が分かった気がした。日本の気候の中で、農作業をするのに、必要に迫られて、塩分を食事で多く摂るようになったのではないか。そして、和食の文化が、日本の農業を背景として生まれてきていることを思えば、和食に塩分が多く含まれるようになったとしても、自然なことなのではないかと思う。

その文脈で考えると、伝統的な作りの梅干しが、なぜそれほど塩分濃度が高いのか、よく分かるのである。実際、自分は毎日、昔ながらの梅干しを食べながら仕事をしているのだが、塩分補給に大変助かるのである。自分だけの意見ではないのだが、梅干しは本当に農作業の伴である。

話は逸れるが、学生時代にフランス語の先生が、フランス人は朝食に、起きてすぐ活動できるよう血糖値を上げるため、甘い朝食と取る、と言われていた。また、対してイギリス人は、しょっぱい朝食をとる、世界には甘い朝食としょっぱい朝食があり、日本はしょっぱい朝食ですね、とも言われていた。これもまた何ともなしに聞いていたのではあるが、農作業に従事するようになってから気付くことがあった。自分は長年、甘い朝食派であったのだが、起きてしばらくすると、甘いものよりしょっぱいものが欲しくなるのである。起きてすぐ農作業を行い、一仕事済んだ後に取る朝食はしょっぱいものが適しているのであろう。日本の朝食が伝統的にしょっぱいのは、農業所以なのであろうか。イギリスの朝食については、朝の散歩の習慣が影響?しているのか、こちらについては全く見当がつかない。

和食の裏に農業の影響を見たような気がした。そして納得するところがあった。蛇足にはなるが、和食に塩分が多いと悪く言われるかのようになったのは、現代日本人の多くが農業から離れて、生活スタイルが変わり、塩分を必要としなくなったからだけなのではないか。梅干しが今では低塩分のものしか見ないようになったのは、本当にその表れでしかないように思う。

あまり根拠のない議論の展開とはなってしまったのではあるが、生理学あるいは栄養学の観点から、いつか自説が検討されれば、と願っている。