作物の気持ち (スマート農業との対比を添えて)

作物の気持ち。
ある特定の思想や信条があって、この言葉を使うのではない。農家の間では(産地に限られるのかもしれないが)、普通に使われる言葉である。自分の近くでは、篤農家の人が使うであろうか。逆に、中途半端な農家であったり、生活が掛かっていない農家からは、ほとんど聞かれない言葉でもある。

もちろん、作物に気持ちなどあるはずがない。生物学的にそのような感情を司る器官が作物に存在しないからだ。それでも尚、日々、作物に接していると、作物の気持ちが分かるような気がしてくるのである。肥やしが足らないのか、水が足らないのか、寒いのか、暑いのか。或いは、全てが満ち足りて、とても元気で、溌剌としているのか。
表面的には、作物の全体や部分の微妙な変化を捉えて、そう感じているだけなのかもしれない。例えば、葉の色1つとっても、朝と昼と晩で、大きく違う。水を遣る前と後では、姿・形が大きく変わる(萎れているだけ、ということもあるのかもしれないが)。透明感や勢いの変化は非常にダイナミックでさえある。

これらの変化は、やはり経験を積まないと分からないもののようだ。実際、初心者の人に説明しても、見分けがつかないのである。自分はこの仕事を始め、5年位経ったころから、分かるようになってきた。初めはトマトから(トマトはとても分かり易い)。そして今は、ほとんどの作物で。

そして、まるで対話のキャッチボールの様に、作物のサインと自分の世話のやり取りがなされるのである。その声を聞き、肥料が足らなくなる前に肥料を遣り、水が足らなくなる前に水を遣る。その様になってから、作物の出来が更に良くなった。収益的にも良くなっているはずだ。いや、そのレベルに達して初めて、農業で暮らせるようになる程、農業の世界は厳しく、競争は激しいと言った方がいい。

”作物の気持ちが分かるようになったら、農家として一人前。” 前に、そのように聞いたことがある。確かにその通りと思う。これから更に、作物との対話を深め、良い成果を出して行きたいと思う。そしてこの、作物や生き物や自然物との調和・一体感、何と不思議で、幸せな感覚、を大事にしていこう。

ここまで考えた時、スマート農業の進展で、いつか作物の気持ちも捉えられるようになるのだろうかと思った。経験を積みつつある一農家の立場からすれば、経験や勘に勝るはずがない。一方、学問的な考え方を重視し、科学や技術を信用する者の立場からすれば、経験や勘は、データや技術で必ずいつかは置き換わる。
相反する考えを持つのではあるが、今の自分の結論としては、今ではなくても、いつかは経験や勘が、データや技術で置き換わるのだろう。そうでなければ、科学技術の進歩の無い世界になってしまう。
但し、その置き換えの道のりは困難を伴うだろう。作物の気持ちの翻訳は、非常に困難と思うからだ。葉の色の計測1つにしても、その日の日の当たり方(季節、天気、時刻)などで、同じ葉の色を測っても、違う葉の色で計測されてしまう(外乱要因が多過ぎる)。あと、計測が出来たところで、それが成果物・収益にどの程度影響するのか、それで元が取れるのか、というところが不明確過ぎる(因果関係が不明確過ぎる)。今日現在の技術では、十分な外乱要因の排除と、明確な因果関係の構築は難しいだろう(全て未知数にしたままで、AIが解だけを示せばよいというの考えもあるだろうが)。でもその程度では、経験や勘に軍配が上がる。特に、篤農家レベルの栽培水準において。そして将来、どんなにデータや技術で置き換わりが進んだとしても、経験や勘の重要性が色褪せることはないであろう。