アロマフルな話ースナップエンドウ

絶対にスーパーで買わない野菜、同列1位。それがスナップエンドウ(あとは枝豆ととうもろこし)。一般に売られているものは、おそらくそのものの本当の価値の10分の1も満たしていない。それ位、全くの別物なのである。採りたての本当に美味しいものは、甘さ、瑞々しさ、シャキシャキ感が全く違う。今日は、その本当に美味しいスナップエンドウについて、その美味しさに必要なポイントを3つあげたいと思う。

1つ目は、まず何より新鮮であること。採った日とその次の日だと、味がまるで違う。一晩越しただけでも、甘みがガクンと減ってしまう。農業高校の野菜の教科書に、貯蔵温度20℃で2日で、収穫直後の食味が、商品性の下限~甘さがなくなり淡泊な味になる、とある。確かにその通りに思う。でも、一般に流通しているものであれば、どうしたってそのようにならざるを得ない。「スナップエンドウって美味しいものだったんだ」という感想を頂くこともあるのだが、それも無理ないことに思う。本当に新鮮で美味しいスナップエンドウを食べるのは、収穫当日のものを手に入れることができる環境にでも無い限り、実現不可能なことなのである。或いは、同じく教科書によると、収穫後すみやかに0℃に冷やすと、2日ほどは、収穫直後の状態が保てるとある。産地直送の野菜であっても、そこまでされているだろうか。まさに、農家にのみ許された味、といっても過言ではないのかもしれない。

2つ目は、収穫のタイミングが適切であること。どう適切であるのかと言うと、実がパンパンに膨らんで、丸々と太った状態のタイミングで収穫されていること。これが、ほんの少し手前の、もう少し薄い状態で採ってしまうと、まるで味が違く、甘みがあまり無かったりする。一般に売られているスナップエンドウで、このような状態で並んでいるものは、ほとんど目にしないのであるが、なぜだろうか。樹が疲れて、収量が落ちるからなのであろうか。とにかく、市販されているスナップエンドウは薄過ぎる。これでは、料理の彩りにしかならないではないか、とさえ思うのである。口に入れた瞬間、口の中いっぱいに弾けて溢れ出す、あの甘さと瑞々しさと実に歯切れの良い食感を楽しむ為には、この太り具合がとても重要なのである。

3つ目は、収穫時期の終わりの方であること。これは個人的に非常に不思議に思うところなのであるが、収穫のピークが過ぎ、樹が弱り黄色くなってきたくらいの方が味が上がる。他の作物では全くそんなことは無く、樹が弱って黄色くなったりしたら、もう無味乾燥なものしか出来ないのに、このスナップエンドウだけは、逆に味が上がるのである。スナップエンドウの終わりの時季は、シーズン初めに比べ気温が大分上がっているから、その影響なのだろうか。いずれにしても、スナップエンドウは、名残が実に良い。

スナップエンドウについて知るところを纏めてみた。もし、美食が大罪であるならば、採りたての、良いタイミングで収穫されたスナップエンドウは、間違いなく罪である。そして、自分はその罪を作り続けている重罪人でしかない。そうでなくても、お客様にこんなに美味しく、他で手に入れることができないものをご提供してしまう自分は、大変罪深いなあと思っているのに。それでもなお、お客様には、採れたてで最高の状態のスナップエンドウをぜひお試し頂ければ、と思います。

命を育てる仕事は、奪う仕事

命を育てる仕事は、同時に、命を奪う仕事でもある。
直接的に命を奪うことで食物を得る畜産農業に限らず、作物を育てる耕種農業も、多くの命を奪うことで成立している。
この事実は、世間一般には想像すらされず、もちろん理解もされていないことに思う。しかしながら、この事実は、今改めてここで言及する価値があると思う。なぜなら、農業と自然の厳しさを正しく理解して頂きたいからである。そしてまた、この事実が、生きる厳しさ、日々努力し続ける意味、を的確に教えてくれるからである。今回は、そのような話をしたいと思う。

まず、普通の人が農業という言葉を聞いて思い浮かべるシーン、田んぼに稲が豊かに実り、或いは、畑に多くの野菜が育っている、果実が木にたわわに実っている、そして、蝶が舞い、鳥が鳴き、たくさんの生命とそのエネルギーが満ち溢れ、喜びと幸せに満ちた場面、というのは、単なる幻想に過ぎない。命を育てる仕事を生業とする者は、そのような見方は決してしない。風に吹かれ、雨に打たれ、厳しい自然条件の中、虫や草や動物、或いは目に見えない病気と、常に生き残りをかけて競争している。食うか食われるかの競争をする中、相手の命を奪うことで、ようやく自分の命を繋いでいる。逆に言うと、相手の命を奪わなければ、自分の生活が喰われるだけだ。そのような訳にはいかない。選択肢などない。作物という人間が利用するためのものを得るために、それらを狙う他の多くのものから守らなければいけない。そして、それは命を奪うことに他ならない。

一般的な農業において使われる薬剤で、一体どれだけの虫や病原菌を含む菌類が死んでいるのだろう。除草剤や或いは耕運機やトラクターで土を耕すことで、どれだけの草花が命を絶たれていることだろう。実際に命を奪う行為を直接的にしているつもりはなくても、農業の営みを行うことで、無数の命を奪っている。それが自分のように、薬剤に頼らない農業をしていると、もっと直接的なことをしている。この手で虫を潰し、草を引き抜く。時には動物にも手をかける。命を奪っているという感覚は大有りで、日々、自然界の弱肉強食、生き残りをかけた生存競争をしている感覚以外、生まれる想いなど何も無い。宗教的に考えれば、自分は何とも罪深く、地獄の底で閻魔様から厳しい罰を与えられるのは確定で、お釈迦様が、蜘蛛の糸を垂らしてくれることもまず無いであろう。

しかしながら、これが自然本来の営みである。生きるために、食べ物を口にするために、常に生き残りをかけて闘っている。これは、ごく自然なことである。そしてこれが、生命本来のあり方である。自然界は競争で満ち溢れている。命を育てる仕事をしていない者には、想像もつかないことであろうが、この事実は正しく理解してほしい。農業体験や職業体験などで、もちろんそれ自体は、大変歓迎されるべきことなのだが、”自然の恩恵”や”農業の恵み”など、農業の表面的な良い部分だけを見て理解するのは止めてほしい。厳しい生存競争を経た結果、恩恵や恵みがあることを理解してほしい。
話は少し逸れるのであるが、ここまで書いて、自分がなぜ農業体験や食育に拒否感を覚えるのか、はっきりと分かった。それは、農業の上っ面の良い部分だけを見て、分かったようになっているからだ。農業は、食べ物を作ることは、命を育てることは、そんなに生易しいことではない。自然界は厳しい競争で満ち溢れている。

厳しい生存競争としての農業、これが今回お伝えしたいことである。そして更に、この事実から思いが膨らみ、現在の日本社会に対し、疑問を投げかけたいことが大いにある。
・農家が、日々生き残りをかけて必死に闘っているように、現在日本社会の多くの人は、必死に闘っているのだろうか?農家がその結果を耐え忍ぶように、多くの人はその結果を受け止めているのだろうか?
・本来、生き残りをかけた競争が自然な状態なのに、あまりにも競争が避けられていないか?安易に闘いを放棄していないのか?
・以前のブログで触れたこともあるのだが、農家の立場からすれば、会社組織は”生活協同組合”のようにしか見えない。個々人が個々の生として、責任ある努力をしているのであろうか?また、きちんと結果が下されているのであろうか?

命に対する仕事は、情け容赦ない。でも、それでいい。生きるのは厳しいこと。そして、日々、草や虫が休みなく闘っているのと同じく、ただ自分は、日々、闘い続けていこうと思う。

作物の気持ち (スマート農業との対比を添えて)

作物の気持ち。
ある特定の思想や信条があって、この言葉を使うのではない。農家の間では(産地に限られるのかもしれないが)、普通に使われる言葉である。自分の近くでは、篤農家の人が使うであろうか。逆に、中途半端な農家であったり、生活が掛かっていない農家からは、ほとんど聞かれない言葉でもある。

もちろん、作物に気持ちなどあるはずがない。生物学的にそのような感情を司る器官が作物に存在しないからだ。それでも尚、日々、作物に接していると、作物の気持ちが分かるような気がしてくるのである。肥やしが足らないのか、水が足らないのか、寒いのか、暑いのか。或いは、全てが満ち足りて、とても元気で、溌剌としているのか。
表面的には、作物の全体や部分の微妙な変化を捉えて、そう感じているだけなのかもしれない。例えば、葉の色1つとっても、朝と昼と晩で、大きく違う。水を遣る前と後では、姿・形が大きく変わる(萎れているだけ、ということもあるのかもしれないが)。透明感や勢いの変化は非常にダイナミックでさえある。

これらの変化は、やはり経験を積まないと分からないもののようだ。実際、初心者の人に説明しても、見分けがつかないのである。自分はこの仕事を始め、5年位経ったころから、分かるようになってきた。初めはトマトから(トマトはとても分かり易い)。そして今は、ほとんどの作物で。

そして、まるで対話のキャッチボールの様に、作物のサインと自分の世話のやり取りがなされるのである。その声を聞き、肥料が足らなくなる前に肥料を遣り、水が足らなくなる前に水を遣る。その様になってから、作物の出来が更に良くなった。収益的にも良くなっているはずだ。いや、そのレベルに達して初めて、農業で暮らせるようになる程、農業の世界は厳しく、競争は激しいと言った方がいい。

”作物の気持ちが分かるようになったら、農家として一人前。” 前に、そのように聞いたことがある。確かにその通りと思う。これから更に、作物との対話を深め、良い成果を出して行きたいと思う。そしてこの、作物や生き物や自然物との調和・一体感、何と不思議で、幸せな感覚、を大事にしていこう。

ここまで考えた時、スマート農業の進展で、いつか作物の気持ちも捉えられるようになるのだろうかと思った。経験を積みつつある一農家の立場からすれば、経験や勘に勝るはずがない。一方、学問的な考え方を重視し、科学や技術を信用する者の立場からすれば、経験や勘は、データや技術で必ずいつかは置き換わる。
相反する考えを持つのではあるが、今の自分の結論としては、今ではなくても、いつかは経験や勘が、データや技術で置き換わるのだろう。そうでなければ、科学技術の進歩の無い世界になってしまう。
但し、その置き換えの道のりは困難を伴うだろう。作物の気持ちの翻訳は、非常に困難と思うからだ。葉の色の計測1つにしても、その日の日の当たり方(季節、天気、時刻)などで、同じ葉の色を測っても、違う葉の色で計測されてしまう(外乱要因が多過ぎる)。あと、計測が出来たところで、それが成果物・収益にどの程度影響するのか、それで元が取れるのか、というところが不明確過ぎる(因果関係が不明確過ぎる)。今日現在の技術では、十分な外乱要因の排除と、明確な因果関係の構築は難しいだろう(全て未知数にしたままで、AIが解だけを示せばよいというの考えもあるだろうが)。でもその程度では、経験や勘に軍配が上がる。特に、篤農家レベルの栽培水準において。そして将来、どんなにデータや技術で置き換わりが進んだとしても、経験や勘の重要性が色褪せることはないであろう。

農業の仕事は大変なのか - 勤め仕事との比較を通した考察 

農業の仕事は大変なのか?答えはYesであり、Noでもある。これが今のところの自分の考えである。
前回ブログ ”農業は癒しなのか” で記した通り、多くの農家にとって、農業とは苦労でしかない。そして、収入もままならず、最低賃金以下で働いている人も少なくない。一方、勤めの経験がある自分としては、大変さの程度は、大変さの種類が全く異なるものの、さほど変わりがないように思う。仕事は何をやっても大変である。
そこで今回は、前回ブログとは逆の、世間が農業に持つマイナスのイメージ ”農業は大変である”というイメージと実際について論じてみたい。また、分かり易くする為、勤め仕事(事務職)と比較をしながら話を進めたい。折しも、この春で勤め仕事と農業の仕事をした時間の長さが同じ7年になった。今こそ語るに相応しい時に思う。

では、農業が大変と思われるいくつかのポイントについて、Yesと思うところ、Noと思うところ、勤め仕事との比較、を論じてみたいと思う。

1)農業がきつい肉体労働であることについて
i) Yesの部分- 農業の仕事が必ずしも力仕事を意味する訳ではないのだが、体を使う仕事なだけに、あながち間違いではない。肉体的にハード、疲れる仕事であるのは事実である。更には、厳しい自然条件の中(真夏の炎天下、芯まで濡れる雨風の中、冬の雪や氷の上の凍てつく寒さの中)、仕事をしなければならないことも多い。まさに「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の世界。大変なのは事実だし、農家自身も大変と思っている人も多い。農業を志した人のうち、少なからぬ人が脱落する関門でもある。だから、長年勤め仕事をしていた人が、思い付きのように農業を始めようとするのは、実に危険なことである。

ii)Noの部分- どの仕事も特有の疲れ方をするものと思う。そして、その疲れ方への耐性に向き・不向きがあると思う。とすれば、農業では、全身的な肉体的疲労が特有の疲れ方で、求められる資質は、十分な体力、肉体上の耐久力ではないかと思う。そして十分資質を備えていれば、あとは”なれる”。(昔、哲学の先生が、人は”なれる”動物だと言っていたのを思い出した。”なれる”、には実に多くの漢字を充てることができ、様々な意味を持つことができる。)そうすれば、大変な仕事でも何でもない、普通の仕事である。

iii)勤め仕事との比較- 勤め仕事の立場からすると、一日、椅子にじっと座って画面を睨みながら仕事をして、変な疲れ方をするより、戸外で陽に当たり、雨風に吹かれて、体を使った仕事をして肉体的に疲れる方が、心身共に健康的なのだろう。この点が強調されると困るのだが、少なからぬ真実である。なんとなく変な疲れが身体に残る勤め仕事と、厳しい天候条件の中、全身くたくたになるまで疲れる農業の仕事と、どちらが良いのであろう?自分はどちらでも良い気がする。

2)農業の所得が低いことについて
i) Yesの部分- 確かに、自分の周りでも、農業で食っている人はほぼいない(これは、神奈川、横浜ならではのことかもしれないのだが)。年金や家族の勤め仕事など、副収入もあって、生活を維持できているというのは、農家の平均をとれば、間違ってはいる話ではない。(但し、農家の生活コストは勤め人に比べると非常に低い。食べ物は、米、野菜などは自分で作ったり、親戚・近所から貰ったりなどで、買うのは、肉と魚のみ、ということも多い。また、生活コストの一番大きな部分を占める、住居費が圧倒的に少ない。既に住むところ、或いは土地、があるからである。)

ii)Noの部分- Yesの部分の裏返しのようでもあるのだが、今の日本の農業の現場を支える数の多数派は、零細多数の兼業農家である。しかし、これは数の話であって、農業産出額で見れば、その大部分を占めるのは、少数の主業農家(昔の言葉の専業農家)である。農業一本で打ち込んでやっている人は、農業で飯が食えている。そして、そのような少数の人々が日本の農産物の大部分を作っている。農業の所得が低い、というのは、本当に農業をしている人にとっては、必ずしも真実ではない。(それでも所得水準が低いところは決してないわけではない。)

iii)勤め仕事との比較- かつて、脱サラをしてバーを始めた先輩が”収入は1/3だが、幸せは3倍”と言っているのを聞いて笑ってしまったが、それと似たようなことが農業でも言えるかもしれない。農業の仕事の良いところの1つは、組織内で仕事をする故の種々のストレスが無いところである。一体誰の何の為に仕事をしているのかよく分からなくなるようなこと(上司が点を取る為、先輩の意味不明な振り、部下がしない分のカバーなど、自分も散々経験した)はかなり少ない。(なお、そこに憧れを持たれるのは困る。人間関係については、また別の、”村”の人間関係がある。)但し、収入は少ない。ストレスは多いが収入が良いのと、ストレスは少ないが収入が少ないのと、どちらが良いであろうか?自分は、ストレスはもちろん無いにこしたことはないが、収入は多い方が望ましいと思う。

3)農業の収入が不安定であることについて
i) Yesの部分- 農業の仕事は、自然の脅威や被害に晒され、安定した収入を得られない仕事であるのは言うまでもない。前回ブログで記したように、農業は100%完全成果主義である上に、成果に対し自分の努力は半分までしか反映されない。残りの半分は、運と天候次第。結果として、収入激減など特別な話ではない。(それでも、安定した十分な収入を得られないのは、経営努力が足らないというのも真実。ここでは深堀りしない。)自分もこれまで数多くの失敗や災害にあってきた。それが、自分の収入が減ることに直結し、”明日、食べるものをどうしようか”というような考えを持つのは、何とも胃が痛くなり、夜も眠れなくなるものだ。このストレスは、毎月決まった給料が入る勤め仕事には無い、農業(だけではないが)特有の巨大なストレスである。自分は勤め時代から神経太い方だと思っていたが、そのストレスの方が遥かに大きかった。ここも、農業を志した人に、肉体的なハードさ以上に大きな関門となる点である。

ii)Noの部分- これもYesの部分の裏返しのようでもあるのだが、この農業特有のストレスには、対応できないわけではない。なぜなら、それが農業の仕事だから。自然相手に仕事をするということはそういうことだから。それが普通で、それを前提条件として仕事をするしかないから。ここまで理解が進めば、その過大なストレスに対応できないわけではないのである。昔、このような話を聞いたことがある。
とある梨園の跡取りの孫が、就農して数年後、収穫間近の梨園を台風が襲った。あと少しで収穫の立派に育った梨は、全て地面に落ちて台無しになってしまった。泣きながら梨を拾う孫に、お爺さんが言った。「泣くのならこの仕事を辞めてしまえ。」と。
美談でも何でもない。でも、この話は農業の不安定さ・ストレスに向かう方法を端的に表している。出来ることは、全ての災難と運命を自分のものとして受け止め、それでもなお、前に進むことしかない。だから篤農家の人ほど、常に動じない。不安定さ・大きなストレスなど既に超越している。その精神力は、勤め人の比ではない。手前味噌ではあるが、自分も、絶望だなんて、とうの昔にし尽くした。もうこれ以上、涙することも、失望することもない。残るのは希望でしか無い。農家であるには、勤め人の10倍の精神力が必要だった。

iii)勤め仕事との比較- 前項の所得の低さの議論において、組織特有のストレスと収入を天秤にかけたが、ここでは、それにさらに追加し、<組織ゆえのストレスはあるが安定して十分な収入がある> ⇔ <組織ゆえのストレスはないが、不安定で少ない収入+ゆえの強大なストレスがある>としよう。どちらが良いであろうか。自分はそれでも、どちらでも良いと思う。それぞれに良い点がある。昔、会社組織は、”生活協同組合”なのではないかと思ったことがあるが(なんだかんだ言って、農家に比べれば、守られているし、他の人がカバーしてくれれば、自分の給料が減ることはない)、それで自身や社会が安定するなら、それで良いと思う。やや話が逸れるようであるが、ある経済紙の広告で”仕事の8割は捨てられる”という見出しを見たことがあるが、確かに、時間が経てばどうでも良い仕事が多いとすれば、安定した給料は、自分のした仕事に対して貰っているのではなく、自分の受けたストレスに対して貰っているのだろう。話を元に戻すと、農業の仕事は、不安定な少ない収入で、胃が痛くなるような思いはするが、同時に自然の厳しさに鍛えられて、強い精神力を持つようになり、対応できない訳ではない。それもそれで良いことだ。

農業が大変と思われるポイントと実際について、いくつか論じてみた。農業の仕事が大変かと言われると、大変なところもあるけれども、勤め仕事と大変なのは同じであると思う。それぞれに、大変なところと良いところがある。

最後に、それでも自分は農業の仕事を選ぶと思う。農業は、仕事そのものの面白さだけでなく、事業として様々な可能性に満ちた産業であるから。そして、組織の枠に縛られることなく、自由に夢を想い描けるのが、とても面白いから。今後も、夢の実現を追い求め、様々な可能性に挑戦して行きたい。農業は天職であると思う。

農業は癒しなのか

「農業は癒しである。」時折、そのような話を聞く。そして毎回、「ああ、また来たな、この話。」と思う。

なぜなら、そんなことを思って仕事をしている農家など、ほぼいないと思うからだ。そのように言われた時の農家の反応は、大体想像がつく。ほとんどの農家は、黙って何も言わないだろう。農家で、面と向かって意見を言う人は非常に少ない(自分はその意味では異端)。そんなことはないんだけどな、と思いつつ、滅多に褒められることがない自分の仕事を良く言われ、戸惑いと気恥ずかしさが沸き起こり、入り混じった感情で、反応が一時停止してしまう。農家にとって、そもそも農業とは、大変で、苦労に満ちたことに他ならない。これまで自分の周りの農家の方々から伝え聞く話を総合的に纏めると、そのような結論になると思う。そのように農家が考える主な点をいくつかあげてみたい。

まず1つ目は、農家は逆に、勤め人のことを羨ましく思っている。椅子に座った楽な姿勢で、汚れることなく綺麗なオフィスで、空調が効いて快適な室内で椅子に座って仕事が出来るなんて、なんて良い仕事なのだろうと思っている。勤め人が農業を、身体を使って健康的で、土や自然に触れられて、精神的にも健康的で良い仕事と思うのだとしたら、何ともすれ違った、真逆のような考え方をしているのだろう。まさに、隣の芝生は青く見える、と言えば良い方で、単なる無いものねだりでしかない。

次に2つ目は、農家はそのような自らの境遇を惨めにさえ思っている。「農家は馬鹿じゃなければ勤まらない。」「学校なんか行ったら、農業が馬鹿らしくなって後を継がなくなるから、学校なんか行かない方が良い。」「学校なんか行って、何の意味があるのか。」他にも、こんな話を聞いたことがある。「朝、自分が田んぼで泥に浸かりながら仕事をしていると、小学校の同級生が、綺麗な白いワイシャツを着て、綺麗な革靴を履いて、挨拶をして通り過ぎて出勤して行った。そして夕方、その同級生が、行きと全く変わらない、汚れない綺麗なワイシャツと革靴の姿で、帰って来た。こちらは全身泥だらけで、襟の裏まで泥で真っ黒なのに。また挨拶で声を掛けられたが、恥ずかしくて顔を上げられなかった。」と。この話を初めて聞いた時には、悔しくて思わず涙が出た。今も思い出すだけで泣けてくる。

そして3つ目は、農家は自分の仕事の収入面での不安定さを良く思っていない。だから、勤め人が、決まったお給料を毎月貰えるなんて、と羨ましく思っている。最近は成果主義が行き過ぎているなどという論調をたまに見かけるが、農業はそもそも100%完全成果主義だ。しかも自分の努力は、運や天候などの不可抗力で必ずしも報われる訳ではない。自分の努力は、どんなに頑張っても、成果の半分までにしかならない、残りの半分は運と天候次第。こんな厳しい仕事が他にあろうか。

以上あげた3点の様に、農家は自分の仕事を良く思っていない。そして、その惨めさと悔しさを噛み潰しながらも、代々伝わる家業だからと、歯を喰いしばって頑張っている。そのような人達の間で、「農業は癒し」などという考えが生まれるだろうか。そして、その考えが受け入れられるのだろうか。

一方、改めて考えてみると、そこで意固地になって、農業の良い部分を完全否定することもないのかな、とも思う。美しく育った作物や周りの景色などに、心打たれることはよくあること。そして、農業の厳しさを経ているからこそ、良い時の喜びも大きくなる。農業が農家にとって癒しであるならば、それは一周回ったその末の、癒しなのだろう。自分も、春の新緑に心躍り、夏の夕立に心身共に洗われ、秋の夕日に心動かされる。冬の雪降る音に、趣を感じ入る。でもそれは、9割の苦労を経た上での良い時であって、9割の苦労があるからこその良い時である。

農業は癒しである。但し、それは農業のごく限られた一面であって、農業全体の姿を適切に表している訳ではない。農家と勤め人の、違う立場故の視点の違いがあるとは思うが、農業の実際と農家の本当の思いを正しく理解して欲しいと願う。そして、農業の苦労があるが故に、より一層美しく感じられる、様々な農業の素晴らしさを、伝えて行ければと思う。

※追加で注記:農業の仕事は大変だが、勤めの仕事に比べて、特別大変な仕事である訳ではない(どの仕事も大変)。その点についてはまた別の機会に話をしたいと思う。ただ、農業に対する実際から離れたプラスのイメージについて、今回はお伝え出来ればと思う。

種苗法改正議論に思う

そういう話があることは前から知っていたが、正直、興味も関心も無かった。農民の生殺与奪がお上に握られていることなど、昔からの話。(今回はそんな大袈裟な話ではない。)だから、為る様に為るしかない。興味も関心も無いのである。日本のほとんどの農家も同じ意見であろう。容易に想像がつく。
しかしながら、あまりにも話が盛り上がっているようなので、少し気になって色々見てみることにした。そうしたら、どうもその議論の内容に居心地の悪さを感じてしまい仕方がないのである。改正反対派の主な意見はそもそも論外、議論に値しないので、ここでは触れない。賛成派の意見に、どうしても納得がいかないのである。

種苗法の改正が目指されたきっかけは、日本の優良品種が海外に流出、生産され、日本の農産物の輸出機会の損失が起きたからだ。(ぶどうのシャインマスカットなどが有名な話。他にも多数ある。)確かに、日本の優良品種が無断で海外に持ち出され、日本の農業の損になるようなことはあってはならない。これは誰もが同意するところだろう。そして、今回の改正案では、その手段として、種苗法の改正により、品種のより強い保護を実現しようとしている。改正のポイントは色々あるのであるが、今、一番議論のポイントとなっているのは、最近開発された新しい品種(登録品種)の自己増殖(種取り、接ぎ木、芽を増やす、など)を許諾制にするというところだ。

一言で言うと、海外流出防止の為に、自己増殖を許諾制にするという、議論のすり替えが起きているところに、全く納得が行かないのである。農水省の資料によると、品種の ”育成者権者の許諾の下で増殖を⾏うため、増殖を⾏う者や場所の把握が可能となる。その結果、⽬の届かない増殖がなくなり、違法増殖からの海外流出への対応が可能となる。” とある。許諾をもらう制度になったからと言って、海外流出を本当に抑えられるのか?何故、目の届かない増殖が無くなると言えるのか?違法に海外に持ち出すのに、許諾など得るだろうか?
許可制にしたから、許可のないものはそもそも無くなるから、海外に流出しなくなるとなど、なんと浮世離れした、御目出度い、非現実的な話なのだろう。

海外流出防止の対象と、自己増殖の許諾制の対象は、一部関連はするが、基本的には独立した話だ。その論理的な関係性を、賛成派も反対派も良く理解していないようなのである。だから、なんだか議論が訳分からないようになっているようにしか思えないのである。その論理的関係性を纏めると、正しくは、下記ベン図のようになるのでないかと思う。

海外流出防止の対象と、自己増殖許諾制の対象は、一致しない。故に、自己増殖許諾制は、海外流出防止のための必要条件でもなければ、十分条件でもない。それにも関わらず、自己増殖許諾制⇒海外流出防止とする議論は大変な横暴であり、とんでもないすり替えである。品種保護の為に許諾制とする、というのであれば、海外流出防止と切り離して、独立した話として議論すべきだ。そこのところの議論のすり替えで何だか訳が分からないようになっているから、反対派に余計な疑念を生じさせる余地が生まれるようになっているのではないか。今一度、海外流出防止の為に、どのような条件が必要十分なのか、見直した方が良いと思う。現在の法体系との整合性はよく分からないのではあるが、今でも自己増殖した種苗の譲渡・販売は違法であるのだから、その厳罰化、取締強化、機会損失被害額に基づく罰金制裁など、より有効で現実的な方策があるのではないか。

そして、自己増殖許諾制にすることによって、海外流出とは無縁の大多数の普通の農家の負担を増やすことに意味があるのであろうか。海外流出防止という大義名分が無くなったとしたときに、自己増殖許諾制が求められる社会的背景はあるのだろうか。誰が許諾を管理するのか。社会のメリットに対して、コストが大きすぎないか。この点については、さらに突っ込むところがあって、そもそも簡単に自己増殖できる品種は、民間の種苗メーカーは手掛けていない(だからF1という一代限りの種がこれほど広まる背景にもなっている)。開発しているのは、大概、国や県などの公的機関が多い。ということは、開発の原資は税金なのだから、そもそも公共財的な性格を初めから持ち合わせているのに、手間暇かけて許諾までするコストが、品種を守るメリットに見合うのであろうか。

種苗法改正議論において、どうしても腑に落ちない点を書き記してみた。一農民としては、決まったことを決まったままのように従うしかないのではあるが、それでも論理的に正しく、納得の行く制度になって欲しいと願う。お上に生殺与奪が握られているというのも間違いないのではあるが、行政も農家も、本質的には日本農業の成功のためのパートナーであるはずである。本当に農家にとってプラスとなり、日本の農業が栄えていくよう、共に力を合わせて進んでいけることを心から願う。

2020年7月1日追記:
最近、種苗法の専門家と話をする機会を持つことが出来た。大分議論をしたが、許諾制が、流出やその前段階の増殖を、現状より取り締まりし易くなることは否めない(増殖の利用条件が明示され、違反行為が明確になるため、また、未許諾の増殖は即時差止ができるため)。但し、一番重要な目的である海外流出を止める実効性を持つかは疑問である。また、その疑問のある実効性に対し、無縁の多数の普通の農家まで管理するコストに見合うかも疑問である(それでも、よくありそうな、うっかり流出やまあいいよいいよ、という流出を予防する効果はあるだろう)。尤も、海外流出は、特に確信犯の場合は、現在のいかなる法律を持ってしても止めることはできないだろう。一般犯罪がこの社会から無くならないのと同様である。海外流出防止は、実に難しい課題である。
なお、国内で栽培地域を指定できることは、域外流出防止に非常に有効に作用するだろう。なぜなら、指定地域外で栽培しても、販売したら、その時点で摘発されてしまうからである。販売できないものを栽培することに当然ならない。栽培地域の指定、故の、産地振興は、今回種苗法改正の非常に素晴らしい点と思う。
さて、自分としては、今後の成り行きを静かに見守り、新時代とそのルールに従おう。

日本の有機農業はどこまで伸びるのか

日本の有機農業の現在と未来について、様々なことが言われるようだ。
オーガニック後進国だの、今後の成長が期待できる、など。
いずれにしても、日本における有機農業や有機食品の市場規模やシェアが、欧米諸国に比べ低いことがその理由のようである。
(有機農業取組面積の割合 日本0.5%、ドイツ8.2%、フランス6.3%、イギリス2.9%、アメリカ0.6%
1人あたり年間有機農産物消費額 日本€11、アメリカ€122、ドイツ€122、フランス€118、イギリス€35)

さらにその背景・理由として、日本の厳しい気象条件や高い生産・物流コスト、複雑で分かり難い認証制度、などが上げられるようだ。日本の厳しい気象条件はその通りだと思うが、それだけで十分と思えず、また、他の説明も根本的と思えないのである。また、実際の生産者や消費者の目線を的確に捉えてないようにしか思えないのである。

そこで、農業の生産と販売の現場にいる人間だからこそ分かり、普段語られることが無い、根本的と思われる理由を考えてみたいと思う。
そして、日本の有機農業の行く末を考えてみたいと思う。

まず、3つ+αほど考えられる理由をあげよう。

1つ目であるが、日本と欧米の生産と流通の体制に大きな違いがあり、それが、消費者の信頼感の違いを生んでいるのではないか。
欧米の農業は言うまでもなく、大規模で大量生産・大量輸送が主である。そして、生産の現場では移民、場合によっては不法移民が、労働力の担い手となっている。(日本の農業も外国人労働力に頼るようになってきているようだが、ひとまずこれは置いておいて。)そのような状況で、消費者の信頼を満たしていないのではないか。一方、日本の生産の現場は、小規模零細多数の家族経営の農家が中心である。また、欧米に比べれば輸送距離も短い。なんだかんだ言って、日本の消費者は、日本の農家が手塩にかけて作った、しかも高品質なものを、鮮度良く得られている。日本の消費者は、そのようにスーパーで手に取る野菜に、そこまで考えなくても、安心感を得られているのではないか。その状況で、農産物にそれ以上の価値を求めることがあるのだろうか。

2つ目は、農業のイメージ・環境に対する影響の考え方と、社会文化が大きく違う、という点である。
欧米では、農業は自然破壊の産業と捉えられている。そこで、なるべく環境に対して農業は優しくあったほうが良い=有機農産物が望ましいという考え方になる。一方の日本で、農業が自然破壊の産業だと考える人は、ほとんどいないだろう(自分はそういう考え方をしているが)。やはり、一般的な日本人の農業に対するイメージは、長閑な田園風景に象徴される、自然に調和的、或いは、自然の一部である印象ではないか。その中で、そもそも環境に対して、農業が環境に優しくあるべきだという考えが出てくるはずもない。欧米の消費者は、環境を考えて有機農産物を買うらしいが、日本の消費者は、自分の健康の為に有機農産物を買う。更に言うと、日本は欧米と比較して、公共の福祉の為に、個人の自由や所有権が制限されるのを、とても嫌がる社会であると思うので(街中の景観を見れば説明不要だろう)、日本の消費者が、環境の為に、高いけれども進んで有機農産物を買い求める、などという姿は絶対に想像できないのである。農業の環境に対する正のイメージに日本の社会文化が重なって、有機農産物に高い支持が集まらないように思うのである。

3つ目は、上記2点と重なるのではあるが、既に、日本の消費者は、日本の生産者を十分に信頼しているのではないか。
生産者のイメージと言えば、昔ながらの農家が、真面目にきちっと職人のように仕事をしているというイメージだろう(実際それでほぼ間違いない)。そのような人達が、農薬や化学肥料を使って栽培していても、きちんとルールを守り、食品として安全な基準を守って使用していると思えるのではないか。(さらにその前提として、農薬などの科学的な安全性を日本の消費者は信頼しているだろう。)また、欧米に比べれば物理的な距離も近く、それが心理的な距離の近さにも繋がっているところもあるのではないかと思う。そして前述の田園のイメージも重なって、性善説のようにしか捉えられない、日本の農家のイメージがあるのではないか。そのような信頼できる方々が作る農産物に、これ以上の信用が本当に必要なのであろうか?

+αの部分の理由であるが、冒頭に記したように、日本の厳しい自然環境はその通りだ。他にも、農家が共同体の中で、1人だけ違う生産方法を取り、周りに迷惑をかけられない、和を乱すことはできないという意識も強いと思う。

以上、有機農産物が日本で現状それほど広まっていない理由について考えてみた。日本社会と農業の特色を考えてみれば、そのような結果になるのは、ごく自然なことと思える。決して後進国なんてことはない。それだけ、現状の農業・農産物に優位性がある、というだけのことなのだろう。

そうすると、日本の今後の有機農業はどのようになるのであろうか。取組面積は拡大しているようである。(H21 16千ha(0.4%) → H29 23千ha(0.5%))また、有機食品の市場も拡大しているようだ。(市場規模H21 1300億円 → H29 1850億円、ほとんどすべて「有機」を購入している者の割合H21 0.9% → H29 1.68%) 劇的な変化ではないが、堅調に拡大している。それでも、欧米の規模から比べると、割合が1ケタ小さい。大きなパラダイムシフトでも無い限り、欧米並みになるとはとても考えられないが、今のペースで拡大を続け、現状の2~3倍の規模を試す展開になるのではないか。そのときの日本社会の有機農業に対する考えがどのように変化しているのか、楽しみではある。

※参考資料
「有機農業をめぐる事情」令和元年8月 農林水産省 生産局農業環境対策課
「有機農産物等の市場拡大の要件」 堀内芳彦 農林金融2019・7 農林中金総合研究所

ニュースリリース -タウンニュースで当園のホップ栽培について取り上げて頂きました。

タウンニュース港北区版2019年8月22日号で当園のホップ栽培の取り組みについて取り上げて頂きました。
「ホップがつなぐ仲間の輪」
https://www.townnews.co.jp/0103/2019/08/22/494141.html

当園のホップ栽培について取り上げて頂くのは、今回で3回、3年目です。
過去の記事についてはこちらになります。
「今季、初収穫」 2018年8月16日号
https://www.townnews.co.jp/0103/2018/08/16/444318.html
「横浜産ホップで地ビールを」 2017年9月7日号
https://www.townnews.co.jp/0103/2017/09/07/397368.html
・・・この時は、トップニュースでした。

当園は、今後もホップ栽培等を通じて、お客様に喜んで頂くため、地域農業振興へ貢献するため、日々精進して参ります。

ニュースリリース -テレビ神奈川「かながわ旬菜ナビ」で当園のホップ栽培が取り上げられました。

2019年8月18日放送のテレビ神奈川の「かながわ旬菜ナビ」で、当園のホップ栽培の取り組みを取り上げて頂きました。(番組タイトル「横浜産ホップで広がる仲間たち」 番組HPバックナンバーリンク http://www3.tvk-yokohama.com/navi/2019/08/2019818_1.php)また、普段の当園の野菜栽培・販売の取り組みについても取り上げて頂きました。
今回、取り上げて頂いたのは、地域農家の方々、農協の方々、テレビ神奈川の方々、横浜ビール様など、数多くのご関係者の温かく力強いご支援を頂くことができたことで、実現致しました。ご関係者の皆様には、深く御礼申し上げます。

番組最後の今後の抱負で触れたことでもあるのですが、現在、ホップ栽培を横浜で行うことは大変珍しいことではありますが、お客様、地域農業の発展を考えると、特別なことをしている訳ではなく、当園に出来ることを出来る限りしているだけのことであります。そして、これが農家ならではの楽しみであり、農業の面白さであり、農業はまだまだ色々な事が出来る、その可能性を示す1つの事例になれればとも考えております。

当園は引き続き、ホップ栽培等を通じて、お客様と地域農業振興のために、日々努力を続けて参ります。今後とも、変わらぬご支援賜れますよう、宜しくお願い申し上げます。

番組レポーター(旬菜キャッチャー)の”いっとちゃん”と

ニュースリリース -古川原農園の経営発展に伴うJTFファーム株式会社への経営移管について

2013年4月に古川原農園が開園して以来、個人農家としてこれまで経営を行って参りましたが、この度2019年8月、経営発展に伴い、JTFファーム株式会社へと法人化、農業経営を移管しました。

法人化によって、当園の経営理念である「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」を更に追求し、より多くのお客様方へ美味しい野菜をお届けしたいと思う所存です。また、従業員の福利厚生の充実、地域農業への貢献も更に追求したいと思う所存です。

店頭の販売においては、これまでお客様方に親しみ頂いている「古川原農園」の名称にて、販売継続して参ります。

当社は、「食卓に 香り豊かな感動を 味わい深い歓びを」の経営理念を追求するため、今後も努力を続けて参ります。
ご関係者様の変わらぬご支援、お客様方の変わらぬご愛顧を賜れますよう、宜しくお願い申し上げます。