種苗法改正議論に思う

そういう話があることは前から知っていたが、正直、興味も関心も無かった。農民の生殺与奪がお上に握られていることなど、昔からの話。(今回はそんな大袈裟な話ではない。)だから、為る様に為るしかない。興味も関心も無いのである。日本のほとんどの農家も同じ意見であろう。容易に想像がつく。
しかしながら、あまりにも話が盛り上がっているようなので、少し気になって色々見てみることにした。そうしたら、どうもその議論の内容に居心地の悪さを感じてしまい仕方がないのである。改正反対派の主な意見はそもそも論外、議論に値しないので、ここでは触れない。賛成派の意見に、どうしても納得がいかないのである。

種苗法の改正が目指されたきっかけは、日本の優良品種が海外に流出、生産され、日本の農産物の輸出機会の損失が起きたからだ。(ぶどうのシャインマスカットなどが有名な話。他にも多数ある。)確かに、日本の優良品種が無断で海外に持ち出され、日本の農業の損になるようなことはあってはならない。これは誰もが同意するところだろう。そして、今回の改正案では、その手段として、種苗法の改正により、品種のより強い保護を実現しようとしている。改正のポイントは色々あるのであるが、今、一番議論のポイントとなっているのは、最近開発された新しい品種(登録品種)の自己増殖(種取り、接ぎ木、芽を増やす、など)を許諾制にするというところだ。

一言で言うと、海外流出防止の為に、自己増殖を許諾制にするという、議論のすり替えが起きているところに、全く納得が行かないのである。農水省の資料によると、品種の ”育成者権者の許諾の下で増殖を⾏うため、増殖を⾏う者や場所の把握が可能となる。その結果、⽬の届かない増殖がなくなり、違法増殖からの海外流出への対応が可能となる。” とある。許諾をもらう制度になったからと言って、海外流出を本当に抑えられるのか?何故、目の届かない増殖が無くなると言えるのか?違法に海外に持ち出すのに、許諾など得るだろうか?
許可制にしたから、許可のないものはそもそも無くなるから、海外に流出しなくなるとなど、なんと浮世離れした、御目出度い、非現実的な話なのだろう。

海外流出防止の対象と、自己増殖の許諾制の対象は、一部関連はするが、基本的には独立した話だ。その論理的な関係性を、賛成派も反対派も良く理解していないようなのである。だから、なんだか議論が訳分からないようになっているようにしか思えないのである。その論理的関係性を纏めると、正しくは、下記ベン図のようになるのでないかと思う。

海外流出防止の対象と、自己増殖許諾制の対象は、一致しない。故に、自己増殖許諾制は、海外流出防止のための必要条件でもなければ、十分条件でもない。それにも関わらず、自己増殖許諾制⇒海外流出防止とする議論は大変な横暴であり、とんでもないすり替えである。品種保護の為に許諾制とする、というのであれば、海外流出防止と切り離して、独立した話として議論すべきだ。そこのところの議論のすり替えで何だか訳が分からないようになっているから、反対派に余計な疑念を生じさせる余地が生まれるようになっているのではないか。今一度、海外流出防止の為に、どのような条件が必要十分なのか、見直した方が良いと思う。現在の法体系との整合性はよく分からないのではあるが、今でも自己増殖した種苗の譲渡・販売は違法であるのだから、その厳罰化、取締強化、機会損失被害額に基づく罰金制裁など、より有効で現実的な方策があるのではないか。

そして、自己増殖許諾制にすることによって、海外流出とは無縁の大多数の普通の農家の負担を増やすことに意味があるのであろうか。海外流出防止という大義名分が無くなったとしたときに、自己増殖許諾制が求められる社会的背景はあるのだろうか。誰が許諾を管理するのか。社会のメリットに対して、コストが大きすぎないか。この点については、さらに突っ込むところがあって、そもそも簡単に自己増殖できる品種は、民間の種苗メーカーは手掛けていない(だからF1という一代限りの種がこれほど広まる背景にもなっている)。開発しているのは、大概、国や県などの公的機関が多い。ということは、開発の原資は税金なのだから、そもそも公共財的な性格を初めから持ち合わせているのに、手間暇かけて許諾までするコストが、品種を守るメリットに見合うのであろうか。

種苗法改正議論において、どうしても腑に落ちない点を書き記してみた。一農民としては、決まったことを決まったままのように従うしかないのではあるが、それでも論理的に正しく、納得の行く制度になって欲しいと願う。お上に生殺与奪が握られているというのも間違いないのではあるが、行政も農家も、本質的には日本農業の成功のためのパートナーであるはずである。本当に農家にとってプラスとなり、日本の農業が栄えていくよう、共に力を合わせて進んでいけることを心から願う。

2020年7月1日追記:
最近、種苗法の専門家と話をする機会を持つことが出来た。大分議論をしたが、許諾制が、流出やその前段階の増殖を、現状より取り締まりし易くなることは否めない(増殖の利用条件が明示され、違反行為が明確になるため、また、未許諾の増殖は即時差止ができるため)。但し、一番重要な目的である海外流出を止める実効性を持つかは疑問である。また、その疑問のある実効性に対し、無縁の多数の普通の農家まで管理するコストに見合うかも疑問である(それでも、よくありそうな、うっかり流出やまあいいよいいよ、という流出を予防する効果はあるだろう)。尤も、海外流出は、特に確信犯の場合は、現在のいかなる法律を持ってしても止めることはできないだろう。一般犯罪がこの社会から無くならないのと同様である。海外流出防止は、実に難しい課題である。
なお、国内で栽培地域を指定できることは、域外流出防止に非常に有効に作用するだろう。なぜなら、指定地域外で栽培しても、販売したら、その時点で摘発されてしまうからである。販売できないものを栽培することに当然ならない。栽培地域の指定、故の、産地振興は、今回種苗法改正の非常に素晴らしい点と思う。
さて、自分としては、今後の成り行きを静かに見守り、新時代とそのルールに従おう。

農業とマーケティングの関係

丁度、日経の「私の履歴書」欄でマーケティングの大家、フィリップ・コトラーが連載を書いているので、マーケティングについて書こう。題して、農業とマーケティングの関係。

さて、いきなり農業分野でのマーケティングの話をする前に、まずは日本社会全体でのマーケティングについて話をしたいと思う。話の導入に必要である。
結論から言うと、日本社会全体でマーケティングが軽んじられ過ぎているのではないかと思う。或いは、無理解も甚だしい。自分が前にいた会社、取引先、友人・知人の勤めている会社の話を聞いても、まともにマーケティングが実行されている会社はほとんど無かった。むしろ、マーケティングという言葉に拒否反応が出てくるのが普通であった。どうやら、マーケティングと言うと、安いものを高く売りつけるテクニックを学ぶ学問であるという、とんでもない誤解をもって解釈されているようだ。或いは、営業の立場からすると、現場はそんな理屈では動いていない、頭でっかちが振りかざす理論だと思われているようだ。

確かに、上記指摘はマーケティングの一側面ではあるだろう。そのように解釈ができることもあるかもしれない。或いは、そのように過度な宣伝広告が行われているところがあるのかもしれない。しかしながら、それらはとんでもない誤解だ。フィリップ・コトラーの「マーケティング原理 第9版」によれば、マーケティングの本質とは「顧客の価値と満足を理解し、創造し、伝え、提供すること」である。あくまで、お客様のために何をすべきなのか、そのために組織をどう運営するのか、がポイントである。だから自分は、マーケティングとは、単なる学問を超えて、世のため人のために自分は何を為すべきか、自らがどうあるべきなのかを教えてくれる人生哲学だと思っている。(だからこそ面白いと思うのである。)

まあ、人生哲学までとは言わなくても、マーケティングは大学の経済学部の授業で普通に学べることだ。にもかかわらず、現在の日本社会でマーケティングが受け入れられていないということは、たかが大学レベルの知識・教養が日本の社会で活かされていないということだ。これは驚くべきことではあるが、日本のサラリーマンの不勉強さ、論理力の欠如、年功に端を発した経験主義の下では致し方ないことなのであろう。日本の会社は技術はあるのに、売れる製品は出ないとはよく言われることであるが、当然の結果である。海外ではMBAでマーケティングを学んだ人がマーケティングマネジメントをしているのに、日本では、経験を積んだだけの現場の管理職がその場凌ぎの手を打っているのだから。学問的に正しいことをすれば必ずしも実社会で成功するわけではないが、少なくとも、学問的に正しいことをせずして実社会で成功はしないと思う。

さて、ここまで日本社会全体をマーケティングの観点から俯瞰してみた上で、農業におけるマーケティングの状況はどうなのか。

言うまでもなく、農業でもマーケティングは活かされていない。むしろ、最も縁遠い業界の1つであろう。マーケティング以前に、「お客様の為」なんて発想がそもそも存在しない。なんと古めかしい業界なのだろう。
しかしながら、直売所が繁盛している昨今、農家も消費者との距離が近くなったせいか、マーケティングという言葉がまるで神通力を持った言葉のように扱われていることが時々ある。マーケティングの話を聞きにいったことが何度かあるが、マーケティングなどとはとても言えない、とんでもない話であった。マーケティングに限った話ではないが、そのように訳の分からないコンサルタントが跋扈しているのもこの業界の特徴である。他所ではやっていけないだろうと思えるクオリティである。

「農業とマーケティングの関係」と題しておいて、ほとんど語ることがないのではあるが、自分は、マーケティングの原理原則・理念に則って農業をやって行きたいと思っている。何も特別なことではない。当たり前のことを当たり前のようにすべきだけである。普通は、それが一番難しいことではあるのだけれども。

「日本農業の真実」

これは本のタイトルである。
この本を見つけたときはそのタイトルに少々驚いたが、その辺の適当な書き様の本とは全く違う、現名古屋大学農学部教授の生源寺眞一先生が、学問的な見地から公平かつ論理的に、実に良く纏めて書かれている素晴らしい、ぜひお勧めしたい本である。

生源寺先生は、今は名古屋大学にいらっしゃるが、その前に長く東大農学部で教授を務められていた。また、東大農学部長も務められ、政府の農業関係の会議などで座長も務められた方である。そして、実は自分自身も学生時代、生源寺先生の授業を受けたことがある。いや、正確に言うと、同じ農学部でも農業経済と農業土木で全く専攻が違うにもかかわらず、自分が受けられる範囲で生源寺先生の授業は全て受けた、というのが正しい。周りは、農業経済専攻の学生しかいなかった。

それだけ生源寺先生の授業は大変面白かった。まず考えに偏りがなく、公平・冷静に、そしてきちんと筋の通るお話しをされるのである。また、語り口はソフトでいながら、ユーモアなセンスで意見や体験談も交え、何より分かり易い。本書も固い内容でありながら、実に面白く、容易に読める。読んでいて昔の授業を思い出すようだった。また、生源寺先生のような方が、政府の仕事を数多く引き受けられているのも、改めてよく分かった。

この本では、冷静にこれまでの農政の歴史を紐解き、そして今後の日本の農業のあるべき姿にまで触れられている。自分は農業を始めようと思ったとき、今自分がしている方法以外で、農業をどうやっていけば良いのか思いつかなかった。別の言い方をすると、日本の農業がどうあるべきなのか、どう変わっていくべきなのか、正直分からなかった。しかし、本書により重大なヒントを得られたような気がする。自由主義的な考え方に重きを置く自分に比べると、先生は共同体主義的な考え方をされているが、それでも特定の考えに偏らず、結論まで導き出している。マスコミ報道の単なる批判とは全く違う。やはり、生源寺先生は素晴らしい先生だ。そして、本書は実に痛快な本だ。

書かれたのが民主党政権下時代のものなので、書き口がやや古くなってしまったところはあるが、それでも日本の農業の向くべき姿が本書から変わっているところはどこもない。
ぜひご一読をお勧めしたい良書である。家の本棚にも並べておこう。

低い食料自給率は問題なのか-その4(完結編)

ちょうど昨日、平成24年度の食料自給率が39%で横ばいであったと発表があった。これまでの議論の通り、極めて屈曲した食料自給率の議論など早く止めるべきだ。本当にそう思う。

さて、今回は、「低い食料自給率は問題なのか」最終編、国際比較から分かる食料自給率について。

まずは、国際比較されたときに一番初めに出てくる表を載せよう。これは農水省が発表している”先進国の中で最低の水準となって”いることを示す表である。
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この表をみれば確かに日本が一番悪いように思えてくる。しかしながらである、まず初めのつっこみとしては、大陸型の穀物を大量生産しているアメリカ、フランス、ドイツ、イギリスなどと比較すれば、カロリーベースで日本が1人負けするのは当然であろう。

そこで、前の議論等しく、カロリーベースから金額ベースで見直してみる。以下のグラフは、私がFAOの統計から作った国民1人当たり農産物輸入額(ドル、2012)である。
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これを見たら、多くの方が驚かれるに違いない。これまで見慣れてきた上の絵とは全く違うからだ。このグラフが示していることは、日本は世界的に見て農産物の輸入の多い国ではないということだ。また、何度か挙げた本「日本は世界5位の農業大国」によると、輸入額のみならず、輸入量でも上記順番で変わることがない。真実は、”日本は農産物の輸入の多い国ではない”。 一体、日本は食料の大半を海外に依存しているなど、誰が言い出したのであろうか。

先ほどのグラフをもう少し深く読んでいこう。ドイツ、イギリス、フランスの各国が輸入額が日本より多いのは、これは野菜の輸入量が多いからだ。欧州の北側に位置するこれらの国々では、冬季に野菜が作れないため、南欧や北アフリカ諸国から大量の野菜を輸入している。また、それらの国では、コスト競争力が高い。

そこで気になるのだが、ドイツ、イギリス、フランスの国々が、農産物の輸入量が多いことを問題にしているだろうか?カロリーは足りている国々であろうが、カロリーだけあっても野菜もなければ人間生きてはいけない。そこで例えば、野菜の自給率が低いなどと、国際的に主張しているだろうか?翻って、日本のカロリーに限定した議論は何と一面的なことか。

あと、農水省で発表されている一番初めの表にはもう1つ、追加されなければいけない点がある。それは、オランダの食料自給率である。農水省の発表によると65%(2009)、日本よりは高いようだが、オランダは世界第2位の農産物輸出国であるにもかかわらず、この数字である。日本でもスーパーでオランダの色とりどりのパプリカを常に見るようになったが、オランダは、園芸作物、トマト・パプリカなどで国際的に競争力がとても高い。そのオランダ自身は、農業の競争力が高いにもかかわらず、自給率はそれほど高くない状況を問題視しているのだろうか。その様なことはないだろう。産業としての農業の成功と、食料自給率は相関しない。オランダの食料自給率の事実は、そのことを意味しているのではないか。さらに言うと、オランダの事例は日本の農業が今後進むべき道を指し示しているのではないだろうか。

長きに渡って、食料自給率の問題を取り上げてきた。一般に良く言われる日本の低い食料自給率が、いかに問題とすべきでないかは、よくお分かり頂けたのではないかと思う。日本の世論、農業政策が、屈曲した食料自給率などという議論から離れ、将来の日本の農業をどうすべきなのか、どう強化していくのか、冷静で論理的に正しい議論が行われることを強く望んで止まない。

低い食料自給率は問題なのか-その3

まだまだかかる食料自給率の話題、3回目。
今回は、なぜそんなにも食料自給率が”低く”なったのか、その原因について考えてみたい。
結論から言うと、食生活の洋風化、という一般に言われることでしかないと思うのだが、これがよく考えてみると、将来の日本の農業のあるべき姿までを映し出すようで、非常に興味深い。

さて、まずは、どのように食料自給率が低くなったのか、また”因数分解”の思考方法を用いて考えてみよう。以下は、食品別の食料自給率の推移表である。
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おおまかに言うと、だんだん空白(と黄色)の部分が増え、食料自給率が下がってきているのが一見しただけで分かる。しかし、である。なぜ空白の部分が増えたのかというと、食料自給率がほぼ100%の米の全体に占める割合が減ってきて、代わりに食料自給率の低い油脂と畜産物の割合が増えたからなのだ。これが食の洋風化の現実である。食料自給率に深く考えるまでは、自分はてっきり、日本人は米を食べるのを止めてパンなど小麦を食べるようになったものとばっかり思っていたが、実はそうではなく、米の変わりに油と肉を食べるようになってきているのだ。ちなみに、昭和40年当時の小麦の消費量は国民1人あたり29.0kgであったものが、平成21年は31.8kgである。実はそれほど大きく増えていない。

この、油と肉が米に置き換わったという事実は、人生の過半を平成に過ごしたものとしては、やや衝撃である。逆に考えてみよう、今の生活で、油と肉を米に置き換えてくださいと言われて、あなたは耐えられるでしょうか?自分ならほぼ無理である。揚げ物と肉を取り上げられて、米を増やされたって、おしんこでご飯を食べる生活はちょっと考えられないのである。年配の方であっても、毎日食卓に並ぶようになった、肉や揚げ物を取られて、米の炊く量を増やされたって、きっと今では困惑するのではないだろうか。

そう、日本は豊かになったのである。肉と油をこれだけ消費できるようになったのである。これが食の洋風化の実際である。それで結果として食料自給率が下がることになったのだ。これは完全に食料自給率の低下の原因は、消費サイドにあると言ってもいいだろう。家畜のえさとなる飼料、油脂の原料となる作物を日本でコスト競争力を十分に持って作ることは現実的でない。敢えて生産サイドの視点から言うならば、日本の農業は食生活の変化に構造的に対応していないだけ、ということになるのだろうが、日本の農業の現場が弱体化しているか否かは全く関係が無い。食のスタイルの変化が、”低い”食料自給率の原因である。

ここで、一応結論まで繋げることはできたのだが、さらに仮に低い食料自給率が問題だとして、その対策はどうあるべきなのだろうか。

生産サイド向けには、現在、麦・大豆・飼料米などに現在多額の補助金を出している。これは愚の骨頂だ。市場原理で生き残れないものに直接の現金の支払いで支えるならば、市場原理で生き残れるように構造を改革をすべきなのだ、もしくは、止めるべきだ。
また、消費サイド向けには、現在、国産品の消費拡大に向けたさまざまな施策がされているようだが、的外れ以外の何ものでもない。なぜなら、上記で述べたような、人間の自然な欲求・感情に反しているからだ。あるべき姿を問い、草の根運動のような地道な活動の意義や効果を否定するわけではないが、その為に貴重な税金と時間を費やすのならば、人間の自然な欲求に従ってでも国産品の消費拡大が起きるような構造改革を行うべきなのだ。例えば、米農家がもっと集約されており、低コストで美味しい米が生産されていれば、ここまで米の消費量が落ちることはなかっただろう。減反政策がなければ、農家は単収を追い求めることはせずに、消費者に喜ばれる、味や製法などへの取り組みがもっと活発になっていたであろう。

この辺までくると、日本の農業のあるべき姿がだんだん見えてくる。過剰な規制や補助金、不自然な運動活動に頼るのではなく、勝てる農業、強い農業を追い求めるべきなのではないだろうか。食料自給率の問題はそんなところまで映し出してくれる。

次回は、食料自給率最終回、国際比較から分かることについて纏めてみたいと思う。

低い食料自給率は問題なのか-その2

食料自給率のテーマ2回目の今日は、その”低い”とされる結果が出てくる計算方法について論じてみたいと思う。特に気にもしなければ、自給率40%とよく言われる数字だけが頭に入って、無用な危機感を抱くだけなのであるが、その一歩奥の計算方法を見てみると、とんでもなく不適切な計算結果の産物であることがよく分かる。

さて、まずその食料自給率の計算方法なのであるが、
=国内で生産されて流通した(国産+輸出)農産物のカロリー/国内で流通した(国産+輸入-輸出)農産物のカロリー
である。
一見すると、適切な計算方法のように見えるのであるが、この計算方法は、現実をかなり不適切にしか反映しない。

1.まず、そもそもカロリーベースでの計算であること。現在の日本の農業の特徴は労働集約的で、カロリーの高くない野菜・果物などの青果物の比率が高い。逆に、カロリーの高い穀物(小麦)、油脂、飼料(肉のカロリーに反映される)は、土地利用型で日本ではほぼ作られていない。そのような前提の中で、カロリーで計算すれば、自給率が低く出るのは当然であろう。参考までに金額ベースでの自給率は66%(H23)。つまり、日本は、単価の高い野菜や果物など、高付加価値品を生産する農業に既になっているのだ。そのような形態の農業なら、カロリーベースではなく、金額ベースで計らないと、農業の実力を表すには不適切になってしまうのではないだろうか。

2.次に、流通ベースで計算されていること。流通したもの=人が食べたもの、ではない。計算式の分母に相当する国内総流通量は、国民1人あたり2436Kcal(H23)である。ここでお気付きになられるだろうが、今、日本人はそんなに食べてはいない。今の日本人の1人あたり摂取カロリー量は1840Kcal(H23)、なんと1/4もの差があるのである。ここには、各流通段階でのロスや食べ残しが大量にあることを意味している。この飽食時代の無駄ばかり出している時代に、流通ベースで計れば当然、自給率が低くなるのも当然である。逆に言うと、ロスがゼロになることはないのであろうが、仮に非常事態となって、無駄なく消費されるようになったとしたら、自給率は一気に51%まで上昇する。

3.流通ベースで計算されていること第2弾。日本の農家(ここでは、自給的農家も含む)250万戸の自家消費分は、流通に乗っていないので、計算に含まれていないということである。日本の全世帯の5%を占める人達の結構な分にもかかわらずである。さらに言うと、自家消費するだけでなく、親戚や近所に出回る分も少なくないだろう。まあそこまでは言わないまでも、農家の自家消費分までのことを考えても、この分も計算に加味すれば、5%近くは自給率向上に貢献するだろう。

4.流通ベースで計算されていること第3弾。一般には知られていない真実であるが、野菜農家は3割近くは、売り物にならないとして、収穫物を捨てている。十分美味しく食べれるのに、傷がある、形が悪い、見た目が悪い、というたったそれだけの理由で、である。果物については恐らくもっとその率は高いだろう。この分も当然、自給率の計算には含まれようがない。この辺の廃棄されているものが有効利用されるようになったら、自給率は結構改善されるのではないかと思う。

ざっと挙げて、計算方法についての不適切な点は以上のようになる。しかし、たったこれだけの点を見てもらっただけでも、いかに今の自給率の計算方法が不適切なのかよくお分かり頂けるだろう。逆に言うと、計算方法を変えれば、いかに自給率が改善する可能性があるのかがお分かり頂けるだろう。今の自給率の計算法は、決して間違ってはいないが、現実をほとんど捻じ曲げて解釈していると言っても良いくらいの、ある一面の一面しか表してはいない。自給率の表し方はもっと他にも色々あるはずである。その中で、一番低く出そうな数字が使われているのが現実である。

間違っても、現在の低い日本の自給率=有事の際は食べものが無くなる、ということは意味しないことを正しく理解しておく必要はあるだろう。

次回は、自給率シリーズ続けて、なぜこんなにも自給率が低く表れるのか、消費サイドの事情から見てみたいと思う。

低い食料自給率は問題なのか-その1

連載「日本の農業を想う」4回目。
今回から、複数回に分けて、「低い食料自給率は問題なのか」について論じたいと思う。
低い食料自給率は日本の農業の重要な問題の1つに必ず取り上げられるテーマであると思うが、結論から言うと、全く問題のないことだと思う。いやむしろ、なぜこの様なことを問題として取り上げるのか、理解に苦しむところである。突っ込みどころが満載すぎるので、複数回に分けて、書いて行きたいと思う。

まず今回は、食料自給率が仮に低いとして、それを問題視することが適切なのか?というそもそもの前提論のようなところから始めたいと思う。食料自給率が低いことを問題とするのは適切なのか?

恐らくほとんどの人は適切であると考えるだろう。日本の食料自給率はカロリーベースで約40%。世界で動乱や騒動が起きれば、日本人は飢えて死ぬかのようなイメージさえ湧いてくる。もう小学生時代から埋め込まれた考えだ。疑うことさえしないだろう。2007年~2008年に起きた世界食料価格危機以降、食糧安全保障などという言葉もよく使われるようになった。国際舞台で翻弄されないためにも食料自給率を高く維持することが大事だと思う考えが出てくるのも不思議ではない。

しかしながらである、遡って農産物を作るために必要な肥料、燃料はどうであろうか?主要な肥料、チッソ・リン酸・カリでるが、チッソはほぼ全量輸入の天然ガスを使って空気中の窒素を合成して作られている。リン酸、カリについては、鉱石をやはり全面的に輸入に頼っている。また、トラクターを動かすガソリン、農産物を運ぶトラックを動かす軽油も、元の石油はほぼ全量輸入である。さらに言うと、一般にはあまり知られていないが、野菜の種のほとんどは海外産である。このように農産物の原燃料がほぼ全量輸入であるのに、なぜそれらのアウトプットである、農産物だけを取り出して自給率が低いことをわざわざ問題だと言う必要性があるのだろうか。

さらに、現在、食料(と飼料)の主な輸入元である国は、アメリカやオーストラリアなどの日本の友好国からである。一方、石油や鉱石などは政情不安定な国からの輸入が多い。石油の輸入がストップすれば、トラクターやコンバインを動かせずに、農産物など作れないのである。また、物流もストップする。このような状況が生まれたときの方が、よっぽど社会的な混乱も大きいだろうし、餓死者もでるのではないだろうか?食料自給率が低いと問題にする前に、もっと重要な問題があるのではないだろうか?

食料自給率が低くて問題と言うのは、全体像からごく一部を切り取ってきて問題としている極めて一面的な主張である。全体を的確に捉え、問題と考えられることに優先順位をつければ、他にもっと大事なことはいくらでもあるはずである。食料自給率が(仮に低いとして)低いこと自体を問題とすることは適切ではない。

次回以降は、食料自給率の”低さ”自体の話について触れていきたいと思う。

農業の高齢化は問題なのか

「日本の農業を想う」三回目の今日は、農業の危機が叫ばれるとき大きな理由の1つ、農業の高齢化について考えを纏めてみたいと思う。
この問題は、マスコミ等でもよく取り上げられるが、完全にイメージのみが先行している問題である。

一般には、農業をしている人の6割が65歳以上と言われる。それだけを聞いてみると、確かにご高齢の方ばかりで農業をされてるように思えるのだが、元のデータを当たってみると、一見、より深刻そうに映ったりもする。
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上記は、主に農業を仕事としている人の年齢別人口分布図であるが、2010年の状態を見ると、中央値は70~74歳である。次いで、75~79歳が多い。実は、漠然と想像するよりかなりご高齢の方が農業を営まれているのである。確かに、畑で色々話を聞くところでは、誰それが病院に行ったとか、亡くなったとかそのような話は少なくない。

思えば、農業の高齢化は、自分が小さい頃から問題と言われ続けてきた。その時から、何も変わってないから、現在の様になってしまっているのだ。ただ時間が過ぎ、農家の高齢化が進んだだけなのである。逆に言うと、高齢になられても想像以上に頑張ってやられてきているのが農業なのである。しかし、次の10年は無いであろう。

とすると、まるで日本で農業をやる人がいなくなってしまいそうな思いに、取りつかれてしまいそうになるのであるのだが、ここがポイントで、これは単純に論理の飛躍である。なぜなら、そもそも日本には農家の数が多すぎるという前提が、一般にほぼ触れられることがなく、考えに入っていないからである。「日本は世界5位の農業大国」によると、”農家が人口に占める割合”は、日本が1.6%、イギリス0.8%、米国0.9%、ドイツ1.0%と日本は農家の数が多いようである。そうでなくても、零細多数が日本の農業の良く言われる特徴である。とすれば、農業の高齢化と結果としての農業就業人口の減少は、弱い経営体が退出するという、市場原理に基づいた構造調整働いているだけではないだろうか。高齢化の先に、少数の力強い農業の経営体が、日本の農業を支える姿を描くことができるのであれば、農業の高齢化とは問題にならないのではなかろうか。

別の視点からも論じてみよう。農業の高齢化とは後継ぎがいないということと表裏一体である。ではなぜ後継ぎがいないのか。単に稼げない、暮らしていけないからである。この連載の初回でも触れたが、高齢化が問題である前に、農業で稼げないことが問題なのだ。稼げない経営体が市場から退出していく、あるいはその過程にあるのは、ごく自然なことなのだ。

農業の高齢化は、否応なく日本の農業の姿を変えるだろう。しかしながら、これは日本の農業が通るべき道である。だから、これは問題なのではなく、未来へ向けた一過程として捉えられれば良いと思う。

農業産出額の減少は衰退なのか

日本の農業の衰退を示す一番最初の資料に、農業産出額の減少が挙げられることが多い。
(下記図 出典:農林水産省 農林水産統計)
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ピークの11.7兆円(1984年)に比べると、最近は8.1兆円(2010年)で、実に31%の減少である。
確かに、30%の減少と聞くと、とても大きい。もし日本の農業の規模が過去の70%になってしまったら、それは大変な衰退である。

しかしながら、うわべの数字だけに惑わされず、その減少が何によるものか考えてみると、農業産出額の減少は衰退を意味していないことが分かる。もう一度先ほどのグラフを見てほしい。

このようなときに必要な思考方法は”因数分解”である。総産出額の内訳を見てみると、野菜、果実はほぼ横ばいであるのに対し、米が大きく下げ、畜産も多少減っていることが分かる。原因は、米と畜産の産出額の減少だ。

まず、米であるが、さらに価格要因と数量要因に分けて考えてみる。価格要因は、農業生産額ピーク近辺の米価は18,668円/60kg(玄米、1985年政府買入価格)であったのに対し、最近は、13,000円前後(玄米、2010年産相対取引価格・出荷業者)と、大きく値を下げている(約Δ30%)。数量要因は、米の国民1人当たり米供給量が、78.9kg(1980年)から59.5kg(2010年度)とこちらも大きく下げている(約25%)。これだけ価格・数量共に下がれば、あれだけ米の産出額が大きく減るのもご理解頂けるだろう。ここまでお話しすれば日本の食糧事情に関心のある方ならお気付きだろうが、価格が下がったのは、悪名高かった食管法が廃止され、市場で価格が形成されるようになったからだ。数量が下がったのは、食の多様化に伴い、米の需要が減るという構造変化が起こったためだ。国による価格維持が終わり、需要減という構造変化に伴い、米の産出額は減っているのである。

次に畜産の産出額の減少であるが、生産量は実は増えている(肉類3006千t(1980年)→3169千t(2011年)、卵・乳製品も増)。ではなぜ減っているのかというと、こちらも価格が下がったからである。思い出すことができる方も多いだろう、91年に牛肉の輸入自由化が始まり、牛肉の値段は大分安くなった。思えば、昔は食卓に牛肉などそう並ばなかったものである。畜産物の産出額の減少も、国による価格維持が終わったために、起きたものである。

以上まとめると、農業産出額の減少は、国による価格維持の終焉、需要の構造変化によってもたらされたものであると言える。これは農業の衰退を意味しているのであろうか?全く関係のないことである。敢えて言うならば、過剰な保護から解き放たれた(これは消費者に恩恵をもたらしたことをお忘れなく)、需要の構造変化に対応ができなかった、というところなのであろう。

いずれにしても、農業産出額の減少は農業の衰退を意味しているかのような論調が時折見られるが、事実はそうでないことを広く知って頂ければと思う。

日本の農業の何が悪いのか

今回は、このブログのタイトル通り、「日本の農業を想う」こと。
政治というより政策的な内容についても連載して行きたいと思う。なぜなら、農業の現場で起きていることは、メディアで報道され、一般に広く理解されていることとはかなり違うからだ。さらに言うと、それだけでなく、学界・官公庁で理解・公表されていることについても、かなりの部分それは本当に正しいのか?と首をかしげてしまう内容であるからだ。自分の意見が必ずしも正しいとは思っていないが、現在の日本の農業の理解と今後のあり方について一石を投じたい。

第一回目の今日は、「日本の農業の何が悪いのか」。最も大きな括りでの話。

日本の農業は多くの問題を抱えている。これについて異論を唱える人はほぼいないだろう。主なところで、農業産出額の縮小、高齢化・後継者不足、耕作放棄地の拡大、食料自給率の低下、TPP参加による影響、等々。これら個別の事項についても、問題だと思わない人はほぼいないだろう。自分自身もこれまでそのように思っていたし、大学の授業も含めてそのように教わってきた。

しかし今では、上に挙げた主な事項全てが問題だとは思っていない。正確に言うと、問題であると定義できない、というのが考えなのであるが、個別の議論はまた今後行うとして、全体を通して言えることは、それら全ての事項は、問題である前に「過去の結果」でしかないということなのだ。

問題であると思うのは、現在起きている事象について、節足に良し悪しの判断をしようと色眼鏡を通して見るからであって、冷静に現在を見つめ、過去の因果関係を捉えれば、何が真の問題であるのかが分かる。話が脇に逸れるが、そこが日本社会全体として論理的思考力に欠ける、悪い点だと思う。すぐに批評を加える、良く言えば現状を常に問題として捉えるのは結構なことなのであるが、トヨタ式の真似ではないが、何故を繰り返さなければ、問題の本質には至ることはできない。それを避ける第一歩が、現状を問題と思いこむ前に、ありのままに過去の結果としてまず受け止めることなのだ。

さて話を戻すと、では、良く言われる日本の農業の問題点が過去の結果だとして、では何の結果なのかと言うと、「農業は儲からない」ということが全てなのではないかと思う。農業で儲からないから、後継者がいない、結果として高齢化する、耕作放棄地も拡大する。(その他の点については別にからくりがある。)農業で儲からないということが、何よりの原点であると思う。もちろん、農業で儲からないことに対しても、さらに遡ってその原因があるのではあるが、そこはまた別の機会に議論することとして、この項では、結論として、農業で儲からないから、現在日本が抱える農業の諸問題を生んでいる、と結論付けることにしよう。

もう少しつけ加えると、後継者不足・高齢化、耕作放棄地の拡大も、根本の問題を捉え、解決することができなければ、いくら対応をしても、本当に効くかよく分からない対処療法の域を出ないだろう。それまで貴重な時間、労力、そして税金が使われていくのである。残念なことである。

暗いトーンになってしまったが、この項では日本の農業について良し悪しの判断をしようとしているのではない。むしろ、問題として捉えられていることたちが、問題ではないのではないかと思っている。その意味では、日本の農業の状況は、楽観的にそんなに悪くないのではないのかとも思ってしまう。