日本の有機農業はどこまで伸びるのか

日本の有機農業の現在と未来について、様々なことが言われるようだ。
オーガニック後進国だの、今後の成長が期待できる、など。
いずれにしても、日本における有機農業や有機食品の市場規模やシェアが、欧米諸国に比べ低いことがその理由のようである。
(有機農業取組面積の割合 日本0.5%、ドイツ8.2%、フランス6.3%、イギリス2.9%、アメリカ0.6%
1人あたり年間有機農産物消費額 日本€11、アメリカ€122、ドイツ€122、フランス€118、イギリス€35)

さらにその背景・理由として、日本の厳しい気象条件や高い生産・物流コスト、複雑で分かり難い認証制度、などが上げられるようだ。日本の厳しい気象条件はその通りだと思うが、それだけで十分と思えず、また、他の説明も根本的と思えないのである。また、実際の生産者や消費者の目線を的確に捉えてないようにしか思えないのである。

そこで、農業の生産と販売の現場にいる人間だからこそ分かり、普段語られることが無い、根本的と思われる理由を考えてみたいと思う。
そして、日本の有機農業の行く末を考えてみたいと思う。

まず、3つ+αほど考えられる理由をあげよう。

1つ目であるが、日本と欧米の生産と流通の体制に大きな違いがあり、それが、消費者の信頼感の違いを生んでいるのではないか。
欧米の農業は言うまでもなく、大規模で大量生産・大量輸送が主である。そして、生産の現場では移民、場合によっては不法移民が、労働力の担い手となっている。(日本の農業も外国人労働力に頼るようになってきているようだが、ひとまずこれは置いておいて。)そのような状況で、消費者の信頼を満たしていないのではないか。一方、日本の生産の現場は、小規模零細多数の家族経営の農家が中心である。また、欧米に比べれば輸送距離も短い。なんだかんだ言って、日本の消費者は、日本の農家が手塩にかけて作った、しかも高品質なものを、鮮度良く得られている。日本の消費者は、そのようにスーパーで手に取る野菜に、そこまで考えなくても、安心感を得られているのではないか。その状況で、農産物にそれ以上の価値を求めることがあるのだろうか。

2つ目は、農業のイメージ・環境に対する影響の考え方と、社会文化が大きく違う、という点である。
欧米では、農業は自然破壊の産業と捉えられている。そこで、なるべく環境に対して農業は優しくあったほうが良い=有機農産物が望ましいという考え方になる。一方の日本で、農業が自然破壊の産業だと考える人は、ほとんどいないだろう(自分はそういう考え方をしているが)。やはり、一般的な日本人の農業に対するイメージは、長閑な田園風景に象徴される、自然に調和的、或いは、自然の一部である印象ではないか。その中で、そもそも環境に対して、農業が環境に優しくあるべきだという考えが出てくるはずもない。欧米の消費者は、環境を考えて有機農産物を買うらしいが、日本の消費者は、自分の健康の為に有機農産物を買う。更に言うと、日本は欧米と比較して、公共の福祉の為に、個人の自由や所有権が制限されるのを、とても嫌がる社会であると思うので(街中の景観を見れば説明不要だろう)、日本の消費者が、環境の為に、高いけれども進んで有機農産物を買い求める、などという姿は絶対に想像できないのである。農業の環境に対する正のイメージに日本の社会文化が重なって、有機農産物に高い支持が集まらないように思うのである。

3つ目は、上記2点と重なるのではあるが、既に、日本の消費者は、日本の生産者を十分に信頼しているのではないか。
生産者のイメージと言えば、昔ながらの農家が、真面目にきちっと職人のように仕事をしているというイメージだろう(実際それでほぼ間違いない)。そのような人達が、農薬や化学肥料を使って栽培していても、きちんとルールを守り、食品として安全な基準を守って使用していると思えるのではないか。(さらにその前提として、農薬などの科学的な安全性を日本の消費者は信頼しているだろう。)また、欧米に比べれば物理的な距離も近く、それが心理的な距離の近さにも繋がっているところもあるのではないかと思う。そして前述の田園のイメージも重なって、性善説のようにしか捉えられない、日本の農家のイメージがあるのではないか。そのような信頼できる方々が作る農産物に、これ以上の信用が本当に必要なのであろうか?

+αの部分の理由であるが、冒頭に記したように、日本の厳しい自然環境はその通りだ。他にも、農家が共同体の中で、1人だけ違う生産方法を取り、周りに迷惑をかけられない、和を乱すことはできないという意識も強いと思う。

以上、有機農産物が日本で現状それほど広まっていない理由について考えてみた。日本社会と農業の特色を考えてみれば、そのような結果になるのは、ごく自然なことと思える。決して後進国なんてことはない。それだけ、現状の農業・農産物に優位性がある、というだけのことなのだろう。

そうすると、日本の今後の有機農業はどのようになるのであろうか。取組面積は拡大しているようである。(H21 16千ha(0.4%) → H29 23千ha(0.5%))また、有機食品の市場も拡大しているようだ。(市場規模H21 1300億円 → H29 1850億円、ほとんどすべて「有機」を購入している者の割合H21 0.9% → H29 1.68%) 劇的な変化ではないか、堅調に拡大している。それでも、欧米の規模から比べると、割合が1ケタ小さい。大きなパラダイムシフトでも無い限り、欧米並みになるとはとても考えられないが、今のペースで拡大を続け、現状の2~3倍の規模を試す展開になるのではないか。そのときの日本社会の有機農業に対する考えがどのように変化しているのか、楽しみではある。

※参考資料
「有機農業をめぐる事情」令和元年8月 農林水産省 生産局農業環境対策課
「有機農産物等の市場拡大の要件」 堀内芳彦 農林金融2019・7 農林中金総合研究所

労働は美徳、勤労は義務

日本国憲法で定められた、国民の三大義務の一つでもある、勤労の義務。
これは農業を実際に営む者からすると、とても自然な発想に思えるのである。逆に言うと、農業をしていて自然発生的に生まれる考えが、この勤労の義務に反映されているのではないかとさえ思えるのである。

その”自然発生的に生まれる考え”なのであるが、出発点は、ある日ふと気付いたことなのであるが、自分の運命は、自分がいつも闘っている虫や草と同じでしかないのではないか、というところにあった。雨に打たれ、風に吹かれ、他にも運が悪ければ命を落とすかもしれない。厳しい自然の脅威に晒され、生存競争を闘い抜き、そしてやっと命を繋いでいる。そしてその中で、良い時には繁栄し、悪い時には滅んでしまう。
そのような環境の中で、皆精一杯生きている。そして一日たりとも休みなく働いているように見える。逆に言うと、精一杯生き、働くことを止めてしまったら、その時点で生を放棄し、死を迎えることと同じになってしまうのだ。競争を耐え抜き、運命に抗い、一生懸命生きようとしている。これは何と美しいことなのだろう。これを生命の輝きと言わずに、他に何というのか。

翻って、自らの身を省みてみる。虫や草と同じように、日々一生懸命、休みなく働いている。それはそうしなければ、野垂れ死ぬことが分かっているからだ。だからこそ、日々ただコツコツと仕事するしかない。日々、ただ懸命に仕事をすることは、虫や草が一生懸命生きようとして、生命の輝きを放つのと同じなのである。懸命に仕事をすることは美しい。人間にとって、労働は美徳でさえあると思う。

そのように働くのを止めてしまえば、自らの運命がどうなるか、当然分かることだ。それが分かるのにも関わらず、もし働かないのだとしたら、それはただの怠慢、生の放棄でしかない。だからこそ、勤しんで働かなければいけない。勤労は当然そうあらねばならないこと、自らの生に責任をとるための義務でしかない。

これが厳しい自然相手に、日々仕事をしている人間のごく自然な発想である。周りの農家の方々も、一生懸命仕事をすることが素晴らしいという価値観をお持ちのようだ。現在の憲法が制定された終戦直後、日本国民の約半分が農民であった時代には、日本全体でごく自然に共有されていた考えなのではないか。日本の農業の感覚が、憲法にまで反映されている、自分はそう思わざるを得ないのである。

少し話を発展させよう。前に、「勤労が義務なのはおかしい」と言っていた大学教授の方がいらっしゃったが、申し訳ないが、自然相手に仕事をしている人間とその感覚からすれば、非常に的外れな話だ。農業の世界とその感覚が現在社会から切り離されることを、自分は少しも悪くは思わないが、自然相手に生きる厳しさ、それが生命の本来の生き方であることを全く知らずに、そのような主張をされることは心外なことだ。そのように言われる方には、ぜひ一度、自然相手に仕事をする、生きることの厳しさを経験して頂きたいとさえ思う。

あと、ベーシックインカムの議論がここ数年流行っているが、これも同様にとんでもない議論だと思う。何もしないで生きていくことができるなど、自然の摂理、生命の原理原則に反することだ。そんなことを言うのであれば、自然相手に覚悟を決めて日々闘い、仕事をしているにもかかわらず、最低賃金も稼げない農家の方々の生活の保証をどのようにしてくれるのか。

この日本の農業から生まれたとさえ思える素晴らしい価値観が、今一度、現在の社会で見直されることがあればと願う。
そして自分はただ愚直に、日々、虫や草の様に、生きるために働き続けたいと思う。

和食の裏に見える農業

和食は塩分が多い。
言わずと知れたことではあるが、その理由が何故か、的確な説明を聞いた覚えがない。
塩分が多いのは和食だからと、意味不明な逆転の因果関係を聞いたことが過去多かっただろうか。保存食や漬物に塩を用いていたから、という説明もあるようだが、
世界の食と比べた中で、なぜ和食が、という疑問に十分答えているのだろうか。

そのようなことは過去考えもしなかったのではあるが、日々の農作業を通じて、ある日突然、妙に納得がいく答えを得ることができてしまった。

夏の暑い時に、畑仕事をしているときにかく汗の量は尋常でない。朝のまだ暗くて涼しい(近年は涼しくないが)時間帯であっても、湿気がものすごく、30分もすれば、シャワーを浴びたのではないかと思われる程、汗をかくのである。それに応じて、大量の水を飲むのであるが、これがまた大変不思議なことに、水を飲み続けると、水分を摂っているにもかかわらず、途中から汗が出なくなるのである。そして何となく体が重くなる。しかしながら、ある日発見したのであるが、塩分を補給しながら水分を摂り続けると、汗が止まるのを防ぐことができ、体が重くなるのも防ぐことができるのである。

塩分の補給が大事、塩分は農作業をするには多く摂らないといけない、この考えに至ったとき、和食に塩分が多い理由が分かった気がした。日本の気候の中で、農作業をするのに、必要に迫られて、塩分を食事で多く摂るようになったのではないか。そして、和食の文化が、日本の農業を背景として生まれてきていることを思えば、和食に塩分が多く含まれるようになったとしても、自然なことなのではないかと思う。

その文脈で考えると、伝統的な作りの梅干しが、なぜそれほど塩分濃度が高いのか、よく分かるのである。実際、自分は毎日、昔ながらの梅干しを食べながら仕事をしているのだが、塩分補給に大変助かるのである。自分だけの意見ではないのだが、梅干しは本当に農作業の伴である。

話は逸れるが、学生時代にフランス語の先生が、フランス人は朝食に、起きてすぐ活動できるよう血糖値を上げるため、甘い朝食と取る、と言われていた。また、対してイギリス人は、しょっぱい朝食をとる、世界には甘い朝食としょっぱい朝食があり、日本はしょっぱい朝食ですね、とも言われていた。これもまた何ともなしに聞いていたのではあるが、農作業に従事するようになってから気付くことがあった。自分は長年、甘い朝食派であったのだが、起きてしばらくすると、甘いものよりしょっぱいものが欲しくなるのである。起きてすぐ農作業を行い、一仕事済んだ後に取る朝食はしょっぱいものが適しているのであろう。日本の朝食が伝統的にしょっぱいのは、農業所以なのであろうか。イギリスの朝食については、朝の散歩の習慣が影響?しているのか、こちらについては全く見当がつかない。

和食の裏に農業の影響を見たような気がした。そして納得するところがあった。蛇足にはなるが、和食に塩分が多いと悪く言われるかのようになったのは、現代日本人の多くが農業から離れて、生活スタイルが変わり、塩分を必要としなくなったからだけなのではないか。梅干しが今では低塩分のものしか見ないようになったのは、本当にその表れでしかないように思う。

あまり根拠のない議論の展開とはなってしまったのではあるが、生理学あるいは栄養学の観点から、いつか自説が検討されれば、と願っている。

農家の”資格”

農家とはどのような人を指すのであろうか?
最近、考えることが多いのである。

農家の言葉の意味は、辞書によると「第一次産業である農業を家業としている世帯や、その家屋のこと」ということらしい。業として農を営む者、至極まっとうな定義である。
ただ、この定義だと実際に判断するのに非常に曖昧で、農水省の定義を引いてみる。それは、「経営耕地面積が10a以上の農業を営む世帯または農産物販売金額が年間15万円以上ある世帯」(1990年世界農林業センサス以降の定義)。

この農水省の定義は、非常に分かり易いのであるが、現実には、色々と疑問が出てくるのである。 1)自分で管理している農地が10a以上は一応あるのだが、そのほんの一角で自分で食べる分だけを作っていたら、農家となるのであろうか? 2)今は、自分の代では、全く農作業はしていないけれども、昔からの農家の生まれで家を継いで、農協の正組合員他の資格も継いでいる人は、農家なのか否か? 3)一方、自分のような新規就農者で、収入を得る手段として農業はしているが、伝統的な農家の生まれでないと、農家と呼ぶのに相応しいのだろうか?
ぱっと思いついた3点について以下に考察を深めてみたい。特に、3点目は、自分の立場にも関わるだけに、深刻な視点でもある。

まず、1点目の、自分で管理している農地が10a以上は一応あり、その一角で自分で食べる分だけを作っている人についてであるが、これは当然、農家とは呼べないだろう。畑を全面利用はしないのだが、税金対策その他の為に、その一角でちょこちょこと作物を作っておく、という話は非常に多い。それで、畑一枚全てを畑として利用していると主張する輩が多いのだが、畑の管理と畑の経営は全く別の話だ。”経営”の意味が、営利あるいは自己の消費を目的として、という意味に捉えるのであれば、実質的に作付けがなされている面積で判断されるべきで、もし作付がほんの一角で、10aに達していないのであれば、農家とは呼べないはずである。むしろ、農水省による”販売農家”(経営耕地面積が30a以上または農産物販売金額が年間50万円以上)という定義の言葉があるのだが、これ位のレベルにならなければ、農家と呼ぶには相応しくないと思う。また、時々言われているが、自給的農家(販売農家以外)を農家として扱うのは本当に適切なのだろうか。

次に、2点目の、全く畑仕事はしないのだけれども、農家の後継ぎで農協や集落その他の集まりでの資格を有している人については、なかなか扱いが難しいところである。畑仕事をしない以上は、当然農家ではないのであるが、同じ集落の中で暮らす以上、角が立つようなことは当然言えないし、出来ないので、これまで通り、”農家”としての待遇を周りから受け続けるのである。また折しも、農家の数、コミュニティがどんどん縮小している今の時代、少しでも農家の輪から人が減らないよう、周りも気を使う。

最後に、3点目の新規就農者については、収入を得る手段として農業を営んでいるだけでは、農家とは言えないだろう。やはり農家とは、単に経営上の問題だけではなく、それなりに社会的な地位が反映されて初めて与えられる”称号”である。その社会的地位とは、集落のコミュニティでのメンバーシップを得ていること、農協の正組合員であること、そこに所有している土地があることなどがあると思う。逆に、新規就農者で自分の事を”農家”だと言う人が少ないのが、その事を逆に証明しているようにさえ思う。
余談にはなるが、少し前に農協改革で、散々、農協が叩かれたが、農協とは農家の集まりそのものであり、農家の集まりは農協そのものである。農家であるならば、やはり農協の正組合員であることが好ましく、農協の正組合員なら農家であるとは言いにくいのだが、農家であることを示す重要な社会的地位であると思う。

以上、”農家”の定義の実際について考えてみた。農水省が決めた定義通りに割り切れないのが農家の実際である。経営上の問題だけでなく、周囲の人々との気持ちの関わり合いもあって、”農家”として認められるか認められないかが決まってくる。これはもはや、農家とは、”定義”によって決められるものではなく、まるで”資格”のように、周囲の人々に認められるかどうか、ということではないだろうか。

ここまで話をして、翻って自分自身を省みたい。経営的な指標は当然クリアしている。日々、畑に出て仕事もしている。そしてまた、周囲の方々の温かいご支援があって、集落の輪の中に入れさせて頂いた。農協の正組合員にもなり、自分の地所も持った。就農5年程経った頃から、ようやく自分自身のことを胸を張って、「自分は農家だ。」と言えるようになった。逆に、それまでは躊躇いしかなかった。

これからは、いち”農家”として、胸を張り、誇りを持って、この仕事を続けて行こう。
そして、この国全体の農業に貢献できるよう、頑張って行こう。

植物工場の”不都合な真実”

近い将来起こりうる食糧危機の救世主かのようにも語られる植物工場。
自分も、学生時代は、植物工場しかその手段がないように、また、日本の農業はその道に進むべきと思ったことがあった。しかしながら、今は全くそう思わない。植物工場などナンセンスだ。それは農業の実際を知り、植物工場をいくつか見てきた中で、そう判断できたからだ。

どうもこれは日本の悪しき風潮なのではないかと思うが、目新しい技術が出てくると、世の中が勝手にその方向に向かって、”良くなる”と思い込んでしまうようだ。マスコミ等メディアでも、良いイメージばかりが伝えられるが、実際そんなに上手くいっていない。現に、日本施設園芸協会によると、2017年時点で、黒字の植物工場(人工光型)は、たった2割しかない。つまりほとんどの植物工場は経営として上手くいってないわけだ。

でもそれは当然だと思う。それだけ植物工場の運営にはマイナスポイントが多いからだ。関係者・マスコミは何故そのような話を正しく語らないのだろう。その普通語りたがられない”不都合な真実”を、ここでは明らかにしていきたいと思う。

なお、植物工場の言葉の定義も厄介で、慣行のビニールハウス栽培から、いわゆる完全な植物工場型まで、連続的に様々なタイプの施設栽培があり、どこからが植物工場と言い切るのはなかなか難しい。しかし、ここで植物工場とは、いわゆる一般的に一番イメージされ易い、閉鎖空間で人工光を用いた栽培をする施設を指すことにする。

さて、そのマイナスポイントだが、3点ほどあげたいと思う。

1点目は、品質の問題である。これは閉鎖空間で人工光を用いるから当然なのであるが、作物は軟弱にしか育たない。また、多くの場合、水耕栽培だ。すると、どうなるかと言うと、関係者が口を揃えて言うのは、3日で”溶ける”というのである。”溶ける”というのは、農家がよく使う言葉なのだが、腐るのではなく、作物の組織自体が崩れていくのである。3日で崩れるようでは、はっきり言って商品にならない。完全に隔離された環境で栽培されて無農薬だとか、洗わずに食べれるなどといくら言っても、すぐ”溶ける”のはいかがなものか。なお、露地で野菜を作っていても、大雨が続くと野菜が部分的に溶けることがある。農家の立場からすれば、植物工場の野菜がすぐ”溶ける”くらい、容易に想像がつくことなのだ。

品質では、味の点でも疑問である。植物工場の野菜が美味しいとまことしやかに語られることもあるようだが、普通の農業であっても、ハウス物の方が露地物より味・風味が落ち(あくまで一般論であり、時季、栽培方法等多くの影響で変わる)、水耕栽培が土耕栽培より味が落ちるのは(これも一般論)、言うまでもないことだ。ましてや、完全閉鎖で、雨風その他の攪乱が無く、水耕で、太陽光よりずっと弱い光で軟弱に育った野菜の味はどうなのであろうか。きっと、美味しいという意見がでるのは、水分量が高いことと、採りたてを食べているから出てくる意見なのだろう。

2点目は、コストの問題である。植物工場では、光の照射に大量の電気を必要とする。また、閉鎖型であるが故に空調(冷房)にも電気が必要である。光を作るために費やす電力は最終的には熱エネルギーになってしまうのだから、特に夏場は高温になる。一方で熱を起こし、一方で冷やすとは何とも無駄なことだ。また、水耕栽培では水を大量に使用する。その水は、栽培そのものよりも、設備の洗浄にそのほとんどを使用しているようだ。養分の含まれている水を流しているのだから、魚を飼う水槽のように、大量の藻が発生するのである。よく写真で見る食品工場のようなきれいな植物工場を保とうとしたら、その洗浄は大変なことだろう。

3点目は、栽培品目が限られること。水耕の植物工場の場合、根菜は不可能だ。また、収穫まで時間がかかり、スペースも取る穀物、果菜類も現実的でない。そうすると、成長が早く、すぐに収穫できる葉菜しかないということになる。その中でも、価格に見合うようにするとしたら、非結球レタスかベビーリーフ位しかない。実際、植物工場の事業者の栽培品目はこれらに集中している。これだけの種類しか作ることができない植物工場に、社会的にどれほどの意味があるのか。

植物工場の、一般には語られることのない、マイナスポイントについて纏めてみた。これだけ”不都合な真実”が積み重なっているのだから、植物工場の運営が上手くいかないのも十分納得がいく。さらには、普通の農家が作物の販売に苦労し、収益の悪さに喘いでいる環境下で、生産物を販売しなければいけない。まるで良いことがないようにしか見えない。関係者やマスコミ等メディアには、事実を正しく伝えてほしいと思う。その上で、有用性について議論や検討がされれば良い。行政も支援や規制緩和には、冷静になるべきだと思う。

否定的なことしか言わなかったが、今後、技術革新が続けば、植物工場が世に拡がる日が来るかもしれない。また、人類が宇宙に進出するときには、必要な技術になるだろう。ただ、それまでは、非常に限定的な応用になるはずだ。

奇跡のリンゴを食べてみた

昨秋、かの有名な木村秋則氏の”奇跡のリンゴ”を食べる機会に恵まれた。
自分も研修時に、奇跡のリンゴの本を読んで、それなりに感銘を受けたりしたものである。そして、実際に食べてみたいと探しはしたのだが、実現に至らず、そして遂にその願いが叶ったのである。

手に入れたうちのいくつか。もう少し大きいものもあったが、テニスボール大。

その感想なのであるが、誤解を恐れずに書こう。りんごはもっと美味しいと思う。
ネット上には様々な記述があるようだが、自分は一農業者の視点としてそこに一意見を加えよう。
自分は果物は専門でないし、その経験のほとんどは野菜である。しかしながら、このリンゴを切った時、食べた時にすぐ分かったことは、このリンゴは明らかに肥料不足で生育不良である。そういう味がする。野菜でも同じような生育状況のときに、同じような食感、味になることがある。この実の詰まり具合、組織の硬さは、すーっと健やかに育った場合は、起こらないことだ。味の表現は難しいのであるが、味・香りに欠けるところがあり、全体的に力強さが不足し、アクとはまた違う特有の渋を感じさせる。

否定的な書きようのようであるが、決して美味しくなかった訳ではない。普通に美味しく頂くことができた。一般に売られている状態の悪いリンゴよりは美味しい。ただ、自分が買いたいと思って買い求めるりんごの程ではなかった。あと、参考に、リンゴの切り口が茶色く酸化したのは、普通のりんごよりずっと早かった。

野菜を作っていて思うのは、果物で無農薬はとうてい無理だろうということである。野菜はまだ短期間だから、また、病害虫への抵抗性が果物よりはずっと強いだろうから、果物は不可能だろうと思うのである。その中で、特に病虫害に弱いリンゴを無農薬での栽培を実現したという氏の功績は確かに称えられるべきことと思う。自分も昔、地方在住時にりんごを植えたことがあったが、度重なる病害虫であっという間に枯れてしまった。

さて、前段が長くなったが、今回このリンゴを食べることができて思ったことの中心は、単に上記味の感想ではない。そこから派生して2点ほど常々感じていることを、再度思い直した。やや話が一般化し過ぎるが、また安易な一般論の展開は論理的な正しさとは相容れないものではあるが、常日頃思うことであるので、記したいと思う。

1点目は、自然栽培に対する疑問である。自然栽培という言葉の定義自体がそもそも非常に曖昧なのであるが、肥料を施さないのが自然栽培であるとすれば、それで良いものはできないと思う。良いというのは、ここでは、作物が健やかに丈夫に育って、結果として食べて美味しいという意味である。生産マネジメント的な考え方をすれば、アウトプットを得るために、必ず十分なインプットが必要だ。作物というアウトプットを得るために必要な主なインプットは、水、二酸化炭素、光、養分である。(決して土ではない。)インプットをせずして、アウトプットを得ようとするのは、それはまるで無から有を生むようなものだ。もしそのような主張をするようであれば、それは、物理の最も基本的な法則である、質量保存の法則に反することだ。作物に養分=肥料は必要である。

実際、作物を作るのに施肥基準というものが各都道府県の農業試験場によって作られている。そして、それより多くても少なくても作物の出来は悪くなる。そのような場合は、病害虫もあっという間に増えて広がってしまう。食味も当然悪くなる。逆に、生育に丁度良い施肥ができると、作物は、見るからに伸び伸びと丈夫に育っていて、病害虫もほとんど発生しないものである。味ももちろん良い。
インプットを適切に管理することは、アウトプットを適切に得るためには、必要なことだ。そして、屋外で人間が一番コントロールできるものは養分=肥料であるはずだ。だから、自然栽培については、非常に疑問に思うのである。

話はさらに逸れるのではあるが、そういう自然栽培の考え方は、非科学的であると思う。自分は、非科学的・非学問的な主張、考えをするのは大嫌いだ。確かに、科学・学問は万能ではない。分からないこともある。また、現実社会では、商業的になりがちだ。しかしながら、この世の中で最も”もっともらしい”考えは、科学的・学問的な考え方であるはずだ。もし、非科学的・非学問的な考えを採用するのであれば、それは現代文明やそれを築いた人類の英知を否定することと同様である。だから、自分は科学的・学問的に考えたい。そして、自然栽培の考えには同意できない。

さて、2点目であるが、上記1点目を踏まえて、一部の小売・メディアによって、自然栽培が良いとする考えが必要以上に増幅されているようなのが気になる。表現の自由は守られるべきであるから、各人の主張の行為は認められるべきなのだが、農業を生業としたことがない、またそれを生業とすることの苦労を分かっていない外野が、さも分かったかのように流布するのには、強い違和感を覚えるのである。施肥が上手く行き、作物が丈夫に育ったときに病害虫がほとんど発生しないことなど、有機農家でなくても、まともな農家ならば、誰もが知っていることだ。逆に、施肥が乱れると、あっという間に病害虫にやられてしまうことも、皆知っていることである。知らないことは罪ではないが、十分実際を知らずに極めて一面的な主張をするのは罪深いことだ。

リンゴを食べて多くのことを思った。
世の中に広く、このリンゴと同様に、農業の実際を知ってもらいたいと思う。
それを強く願っている。

農家に見る日本人の気質の特徴

日本人は、こういう気質・性格の特徴がある云々、正しいのか正しくないのかよく分からない論理性に欠ける議論は正直嫌いだ。また、そういう議論はあまりしたくない。しかしながら、今回はご容赦願いたいと思う。なぜなら、日々、農家の方々と接していて、ああ、これが日本人の伝統的な特徴ある気質なんだなと強く思わざるをえないからである。

その気質についてであるが、3つ程あげたいと思う。
1つ目は、謙虚で控えめであること。農家の方々は、実に自分のことを控えめに言う。自分は能力があるのだとか、成功したのだ、みたいなことは言いたがらない。ましてや、これだけ儲かった、稼いだみたいな話は絶対にしない。せいぜい、単価が良くて嬉しかった、程度である。会社の国際化が進展していく中で、自己のプレゼンテーションを正しくすることが求められている現代サラリーマンの感覚からしたら、驚くほど控えめである。

2つめは、人のことを悪くいわないこと。ここが一番驚いたことなのであるが、噂話で人のことを非難するような口調で話をすることは絶対にしない。会社勤めのサラリーマンが、職場の人と飲みに行って、誰かのことの悪く言ったり、非難するのと同じ様に、話をする農家の人は皆無である。また、そのような話の流れは非常に嫌がる。但し、村の和を乱すものに対してはやや例外的である。また、ついでではあるが、村八分というのは、今のようにテレビ等楽しみ方が無かった時代の娯楽、酒のつまみであったらしい。外から見るのと、内から見るのでは大分印象が違うものである。

3つめは、お礼を欠かさないこと。農家社会はそもそも交換経済の社会なのではあるが、その一翼を担っているのがお礼の文化であると思う。とにかく、人から貰ったり、してもらったときのお礼は厚いくらいに返すのである。下手に気軽に農家の人に何かを差し上げたりすると、文字通り倍返しにあう。逆に、お礼を欠かしたり、十分でなかったりすると、悪く言われていることもあるようだ。それが恐ろしくて防衛的にという面も無くはないのであろうが、農家の人々は元々が気前の良い方ばかりだ。その善意から自然と出てきている面の方が強いのだろう。

さて、農家が日本人の気質の特徴をよく表していると思える点について、3点ほどあげてみた。現代の会社生活を営む人には薄れてしまった感覚ばかりだ。むしろ、今の世の中では、あまり歓迎されない資質なのかもしれない。だからこそ余計に、これらの日本人の伝統的で特徴的だと言われる気質が、農家の方々には色濃く残っていることを深く感じるのである。

しかしながら、よく考えてみると、これらの気質は、農家の暮らしの中から、必要があって生まれてきたもののように思える。今の農家社会であっても、同じ集落の人々との付き合いは切りたくても切ることができないものだ。一昔前の交通手段もそれほど発達していない頃などは、尚更、その付き合いは深く濃いものであっただろう。その中で、お互い助け合い、災害時などは協力しあって、村のみんなで生活してきたのだ。その中で、皆が平和で仲良く暮らすために、上記3つの気質は必要不可欠なものであったはずだ。むしろ、日本の農家社会の中で、自然発生的に生まれてきた気質なのである。そして、日本人のほとんどが農民であった時代の名残を引き継いで、現代日本人社会にあっても未だに上記気質を受け継いでいるのであろう。
農家の方々を見ていて、深く納得したのである。

話が長くなるが、あと我慢強いというのも農業所以であると思う。自分が少量多品目で野菜をやっていても、忍耐を日々の作業の中で求められるのに、何かの品目の専業の農家の方々などは、ましてや、米一本の農家の方々などは、どれだけの忍耐を求めらるだろう。更には、機械などなかった時代の田んぼ作業などは、気が遠くなるほどであったはずだ。日本人の我慢強さは、代々引き継いできた資産とも言えるべき、気質なのであろう。

春の季節

3月に入り、まだ寒い日が続くものの、随分春らしくなってきた。
新しい命の息吹を感じ、新しい一年の始まりを感じるこの時期は、自然と心が躍る。一日毎に強くなる陽射しは、気持ちさえも明るくする。これから忙しくなるのを恐れているのではあるが、不思議とやる気が湧き、期待感と充実感が溢れてくる、実に幸せな季節である。

播いた種が一斉に芽を出す、その美しさに心惹かれる。ばっちり揃ったときなどは嬉しさで胸一杯になる。春は、春に採るものだけでなく、夏の野菜の苗も育てている。それらの苗がすくすくと育っていくのを見るのも実に嬉しいものだ。万一、逆になった場合は実に落ち込むのではあるが。苗半作、いや、苗七分、八分作と言われるほど大事な苗作りにおいて、気合いが入るのは自然の成り行きなのかもしれない。

良い一年にしよう。良く出来、良く採れて、体調を崩すことなく元気で働きたい。
信心などこれっぽっちもない自分でも願いを懸ける。
自然相手に仕事をしている者の、自然な祈りなのかもしれない。
それもこの季節の影響なのだろう。
幸せな春。

正月の意味

明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い致します。

さて、正月についてなのだが、農業を始めて段々とその意味深さが分かるようになってきた。昔は、まとまった休みがとれ、皆一斉に帰省し、好きでもないおせち料理を食べなければいけない、むしろあまり気が乗らない時期としか思っていなかった。更に言うと、年々普段通り開いている店も増え、本当に何か意味がある休みなのかとさえ思うようになっていた。ところが、農業の視点から見ると全く違うのである。実に生活と密接に関連した、いやむしろ、生活から自然発生的に生まれた、必然的な時期なのだ。

その理由なのだが、まずもって、正月は農家にとって、一年でこの時期しか休むことができない、特別な時期であるということ。春夏秋は、作物の成長と共に仕事に追われ、一日たりとも結局休むことはできないのだが、一年で唯一、作物の成長がほぼ止まり、新しく作物の種を播くことができないこの時期だけ、まとまって休むことができる。休みなく毎日働くのは結構大変で、ゆっくり休める正月は本当に貴重なのだ。正月はしっかり休む農家が多いが、その訳がよく分かる。

また、単純に休める時期であるからというだけが理由ではない。ここで、昔からの伝統的な旧暦の考え方を照らし合わせるとさらに特別な理由が良く分かる。厳密には違うのかもしれないが、旧暦的な考え方をすると、お正月の三が日が終わると、節分を経て立春となる。そしてこの立春の頃というのは、陽の強さが増し、啓蟄の頃とは言わないまでも、何となく虫や草木が動き出し、生命の息吹を感じ始める、正に、新しい命と新しい年のサイクルの始まりを感じさせる頃なのだ。自らの生活の中で、新しい命と新しい一年を迎える、その始まりとしての正月は、実に特別な意味をもった時期なのである。

旧暦と縁の薄くなった現代の生活では、なかなか正月とその休みの有難味を感じ難いかもしれない。時代と共に、文化とその結果である伝統も変わるのだからそれも仕方ないことだと思う。しかしながら、正月の深い意味とその有難さを理解し、感じることは素晴らしいことだと思う。その上で、現代風に、農家の伝統に反し、正月からしっかり働くのが良いと思う。今年は3日から販売開始します。

冬の仕事

ブログの更新がかなり長い間滞ってしまい、大変申し訳なく思う。
冬は時間が作りやすい季節なのではあるが、この前の冬は、なかなかに忙しかった。そこで今回は、ブログ更新が滞った言い訳をさせて頂くため、題して「冬の仕事」について。

農閑期という言葉があるくらいなのだから、冬は外に出る仕事が少なくなる季節であるのは確かである。作物はほとんど成長しないし、寒くて新しく種を播くこともできない。畑からは、だんだん作物が減る一方である。逆に言えば、一年でこの時しか農家は休むことができない。だから、農業を始めた時、正月休みというものが農家にとって、或いは、日本の伝統的な生活様式において、いかに特別なものであるのか妙に納得がいったものだ。

しかしながら、こういう時にしかできないこともある。圃場の整備であったり、道具の製作や手入れなどである。そうすると意外にやらなければいけないことが沢山あり、そんなこんなをしていると、あっという間に種を播く時季になって、苗の世話に日々付きっ切りの生活に遷るのである。ちなみに、当地では早い人では正月が明ける前に、夏野菜の種をもう播き始めている。

そして、それ以上に冬にしなければならない重要な仕事が次の一年の計画である。計画とは、主にどこで何をいつどれくらい作るかという作付計画であるのだが、パズルと言うよりむしろ複雑系を解くようで、なかなかしんどいものである。しかも、計画には当然、過去の反省が付き物であって、過去のデータの解析、さらには学術論文も含めた調査・分析を行うため、かなり時間がかかる。簡単な言葉で済ませれば、PDCAのサイクルをきちんと回す、ということなのであるが、そんな言葉では済まされないような、綿密かつ実行可能な計画を作り上げることが必要なのである。トヨタ式ではないが、計画と実行に10%以上の差が出てしまうような計画を作るようでは、そもそも計画が間違っている。計画段階での失敗は実行で挽回することは絶対に不可能なので、徹底的に調べつくし、机上演習を行い、そして一年の計画を完成させるのである。

そんなわけで、非常に優先度が高いヘビーな事務仕事が冬に入ってきてしまい、ブログを更新することがなかなかできなかったのである。これが言い訳である。年間の計画を完成させるまで、気分が落ち着かず、他のことに手をつけられなかった。もちろん、ブログを更新できないでいることにも居心地の悪さを感じ続けていた。でもそれも今日まで。今夜は安らかに眠ろう。