命を育てる仕事は、奪う仕事

命を育てる仕事は、同時に、命を奪う仕事でもある。
直接的に命を奪うことで食物を得る畜産農業に限らず、作物を育てる耕種農業も、多くの命を奪うことで成立している。
この事実は、世間一般には想像すらされず、もちろん理解もされていないことに思う。しかしながら、この事実は、今改めてここで言及する価値があると思う。なぜなら、農業と自然の厳しさを正しく理解して頂きたいからである。そしてまた、この事実が、生きる厳しさ、日々努力し続ける意味、を的確に教えてくれるからである。今回は、そのような話をしたいと思う。

まず、普通の人が農業という言葉を聞いて思い浮かべるシーン、田んぼに稲が豊かに実り、或いは、畑に多くの野菜が育っている、果実が木にたわわに実っている、そして、蝶が舞い、鳥が鳴き、たくさんの生命とそのエネルギーが満ち溢れ、喜びと幸せに満ちた場面、というのは、単なる幻想に過ぎない。命を育てる仕事を生業とする者は、そのような見方は決してしない。風に吹かれ、雨に打たれ、厳しい自然条件の中、虫や草や動物、或いは目に見えない病気と、常に生き残りをかけて競争している。食うか食われるかの競争をする中、相手の命を奪うことで、ようやく自分の命を繋いでいる。逆に言うと、相手の命を奪わなければ、自分の生活が喰われるだけだ。そのような訳にはいかない。選択肢などない。作物という人間が利用するためのものを得るために、それらを狙う他の多くのものから守らなければいけない。そして、それは命を奪うことに他ならない。

一般的な農業において使われる薬剤で、一体どれだけの虫や病原菌を含む菌類が死んでいるのだろう。除草剤や或いは耕運機やトラクターで土を耕すことで、どれだけの草花が命を絶たれていることだろう。実際に命を奪う行為を直接的にしているつもりはなくても、農業の営みを行うことで、無数の命を奪っている。それが自分のように、薬剤に頼らない農業をしていると、もっと直接的なことをしている。この手で虫を潰し、草を引き抜く。時には動物にも手をかける。命を奪っているという感覚は大有りで、日々、自然界の弱肉強食、生き残りをかけた生存競争をしている感覚以外、生まれる想いなど何も無い。宗教的に考えれば、自分は何とも罪深く、地獄の底で閻魔様から厳しい罰を与えられるのは確定で、お釈迦様が、蜘蛛の糸を垂らしてくれることもまず無いであろう。

しかしながら、これが自然本来の営みである。生きるために、食べ物を口にするために、常に生き残りをかけて闘っている。これは、ごく自然なことである。そしてこれが、生命本来のあり方である。自然界は競争で満ち溢れている。命を育てる仕事をしていない者には、想像もつかないことであろうが、この事実は正しく理解してほしい。農業体験や職業体験などで、もちろんそれ自体は、大変歓迎されるべきことなのだが、”自然の恩恵”や”農業の恵み”など、農業の表面的な良い部分だけを見て理解するのは止めてほしい。厳しい生存競争を経た結果、恩恵や恵みがあることを理解してほしい。
話は少し逸れるのであるが、ここまで書いて、自分がなぜ農業体験や食育に拒否感を覚えるのか、はっきりと分かった。それは、農業の上っ面の良い部分だけを見て、分かったようになっているからだ。農業は、食べ物を作ることは、命を育てることは、そんなに生易しいことではない。自然界は厳しい競争で満ち溢れている。

厳しい生存競争としての農業、これが今回お伝えしたいことである。そして更に、この事実から思いが膨らみ、現在の日本社会に対し、疑問を投げかけたいことが大いにある。
・農家が、日々生き残りをかけて必死に闘っているように、現在日本社会の多くの人は、必死に闘っているのだろうか?農家がその結果を耐え忍ぶように、多くの人はその結果を受け止めているのだろうか?
・本来、生き残りをかけた競争が自然な状態なのに、あまりにも競争が避けられていないか?安易に闘いを放棄していないのか?
・以前のブログで触れたこともあるのだが、農家の立場からすれば、会社組織は”生活協同組合”のようにしか見えない。個々人が個々の生として、責任ある努力をしているのであろうか?また、きちんと結果が下されているのであろうか?

命に対する仕事は、情け容赦ない。でも、それでいい。生きるのは厳しいこと。そして、日々、草や虫が休みなく闘っているのと同じく、ただ自分は、日々、闘い続けていこうと思う。