農業は癒しなのか

「農業は癒しである。」時折、そのような話を聞く。そして毎回、「ああ、また来たな、この話。」と思う。

なぜなら、そんなことを思って仕事をしている農家など、ほぼいないと思うからだ。そのように言われた時の農家の反応は、大体想像がつく。ほとんどの農家は、黙って何も言わないだろう。農家で、面と向かって意見を言う人は非常に少ない(自分はその意味では異端)。そんなことはないんだけどな、と思いつつ、滅多に褒められることがない自分の仕事を良く言われ、戸惑いと気恥ずかしさが沸き起こり、入り混じった感情で、反応が一時停止してしまう。農家にとって、そもそも農業とは、大変で、苦労に満ちたことに他ならない。これまで自分の周りの農家の方々から伝え聞く話を総合的に纏めると、そのような結論になると思う。そのように農家が考える主な点をいくつかあげてみたい。

まず1つ目は、農家は逆に、勤め人のことを羨ましく思っている。椅子に座った楽な姿勢で、汚れることなく綺麗なオフィスで、空調が効いて快適な室内で椅子に座って仕事が出来るなんて、なんて良い仕事なのだろうと思っている。勤め人が農業を、身体を使って健康的で、土や自然に触れられて、精神的にも健康的で良い仕事と思うのだとしたら、何ともすれ違った、真逆のような考え方をしているのだろう。まさに、隣の芝生は青く見える、と言えば良い方で、単なる無いものねだりでしかない。

次に2つ目は、農家はそのような自らの境遇を惨めにさえ思っている。「農家は馬鹿じゃなければ勤まらない。」「学校なんか行ったら、農業が馬鹿らしくなって後を継がなくなるから、学校なんか行かない方が良い。」「学校なんか行って、何の意味があるのか。」他にも、こんな話を聞いたことがある。「朝、自分が田んぼで泥に浸かりながら仕事をしていると、小学校の同級生が、綺麗な白いワイシャツを着て、綺麗な革靴を履いて、挨拶をして通り過ぎて出勤して行った。そして夕方、その同級生が、行きと全く変わらない、汚れない綺麗なワイシャツと革靴の姿で、帰って来た。こちらは全身泥だらけで、襟の裏まで泥で真っ黒なのに。また挨拶で声を掛けられたが、恥ずかしくて顔を上げられなかった。」と。この話を初めて聞いた時には、悔しくて思わず涙が出た。今も思い出すだけで泣けてくる。

そして3つ目は、農家は自分の仕事の収入面での不安定さを良く思っていない。だから、勤め人が、決まったお給料を毎月貰えるなんて、と羨ましく思っている。最近は成果主義が行き過ぎているなどという論調をたまに見かけるが、農業はそもそも100%完全成果主義だ。しかも自分の努力は、運や天候などの不可抗力で必ずしも報われる訳ではない。自分の努力は、どんなに頑張っても、成果の半分までにしかならない、残りの半分は運と天候次第。こんな厳しい仕事が他にあろうか。

以上あげた3点の様に、農家は自分の仕事を良く思っていない。そして、その惨めさと悔しさを噛み潰しながらも、代々伝わる家業だからと、歯を喰いしばって頑張っている。そのような人達の間で、「農業は癒し」などという考えが生まれるだろうか。そして、その考えが受け入れられるのだろうか。

一方、改めて考えてみると、そこで意固地になって、農業の良い部分を完全否定することもないのかな、とも思う。美しく育った作物や周りの景色などに、心打たれることはよくあること。そして、農業の厳しさを経ているからこそ、良い時の喜びも大きくなる。農業が農家にとって癒しであるならば、それは一周回ったその末の、癒しなのだろう。自分も、春の新緑に心躍り、夏の夕立に心身共に洗われ、秋の夕日に心動かされる。冬の雪降る音に、趣を感じ入る。でもそれは、9割の苦労を経た上での良い時であって、9割の苦労があるからこその良い時である。

農業は癒しである。但し、それは農業のごく限られた一面であって、農業全体の姿を適切に表している訳ではない。農家と勤め人の、違う立場故の視点の違いがあるとは思うが、農業の実際と農家の本当の思いを正しく理解して欲しいと願う。そして、農業の苦労があるが故に、より一層美しく感じられる、様々な農業の素晴らしさを、伝えて行ければと思う。

※追加で注記:農業の仕事は大変だが、勤めの仕事に比べて、特別大変な仕事である訳ではない(どの仕事も大変)。その点についてはまた別の機会に話をしたいと思う。ただ、農業に対する実際から離れたプラスのイメージについて、今回はお伝え出来ればと思う。