数日前、美しい空だと思い、写真を撮った。
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こんなことを思えるのも、屋外で仕事をしている農業の特権の1つなのかもしれない。

但し、いつも空を愛でているわけではない。大体、そんな空を見上げているほど気持ちに余裕のあることなどほとんどないのだ。それに空はよく見上げるのではあるが、それは大概、雨が降り出しそうなときのことであって、雨に怯えながら、天気とにらめっこをしていると言ったほうが正しい。そうでない時は、逆にいつも地面とにらめっこをしていて、黙々と作業をしている。実際、80になるまで飛行機など見たこともないと言う農家のお婆さんも実際にいたりするのだ。空とは縁があるが、美しい空とはあまり縁が無い。

美しい空と縁がなかったのは、別に今始まったことではなく、サラリーマン時代からのことでもある。朝、満員電車に揺られて会社へ行き、そして、夜遅くに帰る。大体、空など視界に入ってこない生活だ。美しい空など望むべくもない。最終出勤日近く、定時に上がり帰路についたら、電車が川を渡るとき、美しい夕日の空が広がっているのを見て、ああ世の中はこんなにも美しかったのかと、思わず涙が流れた。今思えば、あれが農業と美しい空の関係の第一歩であったのかもしれない。

農業を行うようになって、空について一般の人と違う感性を持つようになったことがもう1つあって、それは雨の降り出しが分かるということである。これは別に第六感のようなものが働くと言っているのではなく、単純に見て分かるのだ。畑では見晴らしが利くので、遠くの方で雨が降っているのが見てすぐ分かる。雨が降っているところでは、雲が地面にくっついているようになっている。そして、雲の移動の仕方でその雨がこっちに来るか来ないのかが分かるのである。これは、アメリカのだだっ広い平野部を車で旅しているときに気付いたことでもある。今、同じ体験をしている。都会の”森”暮らしでは分からないことだろう。

あと、雨が降り出す前には、すうっとひんやり冷たい風が一瞬強く吹き、草木をなびき揺らす。近くで雨が降り出していることによるダウンバーストの一種なのだろう。

空に対する感性は農業を始めて大分変わったが、時には美しい空を愛でよう。
これも自然相手に仕事をしているご褒美なのだから。

登山と農業の良い関係

学生時代から、農業を始めるまで、10年以上に渡って山に登り続けてきた。そしてその事が今の仕事に大いに役立っている。元々アウトドア派であったから必然の事のようにも思えるが、むしろ偶然であると思っている。そこで、今回は、登山の経験によって農業に生かされたことについて纏めてみたいと思う。

まず、何よりも体力。登山を通じて得ることの出来た体力は何にも代え難い。通常の現代人の体力で農業は務まらない。人一倍、頑強な肉体を持っていることは、農業を行う上で絶対に欠かすことの出来ない必要条件だと思う。平凡なサラリーマン生活を送ってきた人が、思いつきで農業を始めるなんて、だから危険なことなのだ。自分は、ピークの時には40kg近くの荷物を担いで急斜面を駆け上がっても、息が切れることがなかった。今でも同年代の人に比べれば、はるかに力は強いほうだと思う。周りの農家の方を見ていても、力強い人ばかりだ。

次に耐久力。厳しい天候に対しての耐久力である。真夏の炎天下、極寒の風雨の中、雪の中、氷の上で作業をしなければならない時が普通にある。そんなとき、昔、山で経験したことがなかったら、きっと耐えられないだろうなと思うのである。灼熱の乾ききった登山道を上り下りしたこと、全身ずぶ濡れ泥だらけになりながら雨中の藪をかき分け進んだこと(山に行けば大概雨である)、吹雪の深い雪の中を埋もれながら進んだこと、そんなことしなくても良いのにと思うようなことを昔していたことが、今、厳しい天気に直面しても何とも思わないで済む糧となっている。

そして、技術力。ロープ、火の扱いは正にそのまま使っている。天気の読み方もそうだ。服装や体調のこまめな管理も非常に重要である。例えば、冬山では汗をかかないよう体温調節するのが基本であるが(汗をかくと命にかかわる)、畑でも余計な汗をかかないように服の管理しないと、痛い目を見る。他にも、バテないよう、作業中にきちんと水分とエネルギーを補給するのも重要なテクニックだ。

あと、意外で面白いと思うのが、野生の勘。山に登ると言っても、普通に登山道を行くわけでなく、春には山菜を摘み、夏には魚を釣り、秋には茸を採りながら、沢沿いに山を登る、沢登りと呼ばれる山登りを行っていた。そんな中、目敏く、山菜や茸を見つけられるようになった。自分の所属する山の会で、目が悪いのにきのこをやたら見つける人が、キノコ視力は1.5と言われているのを聞いて、思わず笑ってしまったが、でもそれくらいの野生の勘を持って、野菜に臨むことも大事なのだ。同じ収穫には変わらない。パッ、パッ、と作物を見つけなければいけないのだ。また時には、収穫だけでなく、虫や病気の早期発見に役立つ。

こう考えてみると、随分色々と昔の登山の経験が生きているのだと思う。だからこそ逆に、農業を始めようと思えたのかもしれない。最近では、山から随分と遠ざかってしまったが、いつかはまた山に帰りたいと思っている。そのとき、一体自分はどのように感じるのだろうかと今から楽しみに考えている。今度は、農業が登山にどのように良い関係になるのだろうかと思う。月明かりの中、作業をしていると、月明かりを頼りに山を下りたことを思い出し、そう思う。

自分の所属する山の会
グループ沢胡桃 ・・沢登り(と雪山)に特化した社会人サークルです。
http://www.sawagurumi.org/

畑環境は自然なのか

自然に囲まれて、畑で仕事をするのは良いですね、という意見を時折耳にする。
しかし、畑は自然の一部なのだろうか?といつも不思議に思う。

自分の考えから言うと、答えはNOである。畑が自然の一部など、全くとんでもない考えだ。
畑は、人工の環境でしかない。畑を自然環境の一部と捉えるのは、自然からも畑からも遠く切り離された都会人の妄想に過ぎない。最近は、どうやら公園や河川敷でさえも自然の一部と理解されるようである。”緑豊かな”と言うのであれば決して間違いではないと思うのではあるが・・。

”遠く切り離された都会人”と言ったが、決して”遠く切り離された”ことを非難しているわけではない。近代文明において、各々が専門分野に特化し、細分化されていくのは、当然のことである。そして、その結果として、リカードの比較優位説の通り、社会全体の富の生産が増え、社会全体が豊かになっていくのだ。自由主義と資本主義の精神を重んじる自分としては、”遠く切り離された”点を非難するつもりは全く無い。

ただ、良いと思えないのは、理解不足にも関わらず、イメージだけで”妄想”されることなのだ。農家の目線に立って、少し考えて頂ければ、きっとすぐお分かり頂けると思う。現在の田畑は、先祖代々、荒れ地や野山を精魂込めて開拓してきたものなのだ。それを受け継いでいる我々の代であったって、ちょっとすれば草が山のように生えるのに十分苦労していると言うのに、重機の無い時代にどれほど苦労することであったであろう。自然と闘い、克服し、そうしてようやく人間が食べ物を作れる場所が生まれるのだ。夏の炎天下に草取りをしていると、つくづくそう思う。

あと、最近では、畑の環境の生物多様性や生態系の豊かさが言及されるようであるが、これもとんでもない議論であると思っていて、確かに、都市環境に比べれば、生物は多様で豊かであるとは思うのだが、里山に比べれば大したことはないと思うし、ましてや自然林などとは比べ物にならないはずである。何を基準にするかである。つけ加えておくと、現代の農業を行っている畑に、生物の姿は少ない。ミミズなどほぼいないし、虫の姿も少ない。

話としては以上であるが、屋外の空気を吸い、陽の光を浴びて、時には雨に打たれ、サラリーマン時代に比べれば、はるかに自然環境に近いところで仕事をしているのは事実である。それでより健康的なのかどうかは分からないが、仕事をするのに悪い環境でないのは確かである。

野菜嫌いについて考える

誰でも嫌いな野菜の1つや2つはあるものだと思う。
好き嫌いはすべきでないのだが、野菜とはそういうものだと思う。

自分も実はなすが嫌いである(あった)。そう言うと驚かれるのではあるが、あの歯ごたえ、ねちょっとした感じ、ピリピリと舌に刺すような酸味、香り、とにかく全てが嫌いである。そこが美味しいのに!と言われたりもするのだが、生理的に受け付けないとはきっとこういう事なのだろうとさえ思う。夏野菜の定番のなすが食べれないなんて、不運なことだと思う。

話はいきなりやや逸れるようであるが、農家は自分の嫌いな野菜は作ろうと思わない、あるいは真剣に作ろうと思わない、という話しを初めて聞いたときには、思わず笑ってしまったが、自分の場合、なすが嫌いだとは言っても、なすはさすがにド定番で、外すわけにはいかない。その意味でも不運である。

しかし、今ではがんばって作っている。そして、ちゃんと真剣に取り組んでいる。なぜかと言うと、それなりになす嫌いを克服することができたことが少なからず影響しているのではないかと思っている。
どのようになす嫌いを直すことができたのかと言うと、単に、自分が研修時代を含め、畑で採ったばかりの新鮮ななすが手に入るようになったからだ。新鮮ななすの味は、それまで自分の記憶にあったなすの味とは全く違った。アクやエグ味がなく実に甘い。なすが美味しいと感じられるようになった。今では、敢えて食べようとは思わないが、食べれないわけではない。むしろ、畑では収穫時に味をチェックする意味で、いつも齧っている。なかなか甘くて美味しいものだ。

さて、ここに至って本題に入るのだが、野菜嫌いは、往々にして、小さい頃に不幸にも美味しくない野菜に出会ってしまったがために起きてしまう事故なのではないかと思うようになった。実際、自分の野菜なら食べれるという話も時々聞く。美味しくない野菜には大きく2つの要因があると思っている。

まず1つ目は、古い野菜であること。新鮮な野菜と古い野菜では味に雲泥の差があるものだ。もしかしたら、古くて”おかしな”ものを小さい子は本能的に排除しようとしているだけなのかもしれない。最近、スーパーの野菜売り場に行かなくなってしまったが(良くないことであるが)、久々に行って並んでいたなすを見て、吃驚してしまった。なすは艶やかで張りのあるものだといつのまにか思いこんでしまっていたが、そこに並んでいたのは、萎びて艶も張りもとうに失っていたなすであった。あのようなものを食べさせられては、それはなす嫌いになるだろう。

もう1つは、作られ方が良くなかったこと。生育が良くなかった野菜は明らかに味が落ちる。生育不良の一番よくある原因は、肥料の過不足である。例えば肥料をやり過ぎると、エグくなる。ほうれん草など良い例だ。もともとアクの強い野菜ではあるが、肥料のやり過ぎで、身体に有害なシュウ酸や硝酸が増えるのは、有名な事実だ。また、逆に肥料のやらなさ過ぎも良くなく、生育のこじれてしまった野菜はとんでもなく酷い味がする。自分が実際食べた今までに一番不味かった野菜の1位と2位は、駆け出しの農家によって肥料をほぼ全く与えずに育てられた野菜たちで、口に入れた瞬間に吐き出してしまい、とても食べられたものではなかった。吸う養分に過剰でも不足でも生じると、野菜は美味しくなくなってしまうものである。肥料のやり方も含めた育て方も、野菜を美味しくするには大変重要である。

適切に育てられ、新鮮な美味しい野菜が食卓に常に並ぶようになれば、野菜嫌いも減るのではないかと思う。そうあって欲しいと淡い希望を抱いている。

アロマフルな話 – 野菜が一番美味しい時

今回は、個別の野菜の話ではなく、野菜全てに共通する話。
野菜は何時食べるのが一番美味しいのか、そのことについて今現在自分の知っている限りのことをお話ししようと思う。

安易に答えれば、そりゃ旬でしょ!ということになるのだが、それはそれで間違いないこととして、論理的に体系化して、時間軸で長期的・中期的・短期的で分けて考えてみる。

まず長期的な観点から考えると、それはもちろん野菜の”旬”であることに間違いない。やっぱり、冬場のトマトやきゅうりよりも、夏のトマトやきゅうりの方が、味も香りも断然違う。ネギだって、冬の方が甘くて美味しいし、大根なんかも全く違う。今の世の中、年中同じ野菜がスーパーの棚に並ぶようになり、旬がいつなのか分からなくなってきたが(実際、農業を始めて旬を初めて知った野菜も多い)、やっぱり各野菜が本来育つべき時季に育てられた野菜は、味が違うものである。

ただし、旬という言葉には注意を要する。旬と言うのは各地域での旬を表す言葉であり、日本全国バラバラなのだ。本州ではじゃがいもは春・晩秋、玉ねぎは春であるが、北海道では秋である。キャベツは平地では冬または春であるが、高地では夏である。南北に長く、また高いところ低いところあり、気候の変化に富む日本にあって、野菜の取れる時期は結構ずれていたりする。だからこそ逆にスーパーに年中同じ野菜が並べられるようなことにもなるのだが、そこは当地の旬が云々ということは抜きにして、日本という国が持っている多様な気候・風土の素晴らしさに、素直に感謝すれば良いのだろう。(ヨーロッパの国々が、冬季、南欧や北アフリカ諸国から大量の野菜を輸入していることと実に対照的である。)

次に中期的な観点から考えると、収穫適期に採られている野菜である、ということである。ここが生産・流通の都合で、消費者にとって最適ではないことになっていることが多い。例えば、枝豆はちょっと物足らないくらいの、7割くらいの実の入りの時が一番味が良いのではあるが、農家にとっては量で手取りが決まるため、パンパンになるまで収穫したりはしない。他にも、トマトは樹上で完熟させたものが、圧倒的に味も香りも良いのではあるが、割れたり焼けたり、カラスにやられたりするので、まだ青いうちに収穫し、取っておいて赤くなり始めたら出荷する。また、トマトは流通側にとっても、熟したものは輸送性・棚持ちが悪いので、固いものでないと駄目なのだ。ちなみに農家の出荷時に赤くなり始めのトマトは、店頭に並ぶときにちょうど全体が赤くなる。我々は普段そのようなものを見ている。

最後に、短期的な観点から考えると、朝採ったものではなく、昼~夕方に採ったものであること。食べる直前に採った方が新鮮だということもあるのではあるが、どうも朝採りの野菜は美味しくないことが多い。一般には、朝露が宝石のように光り輝いている野菜がとても新鮮で美味しい野菜のようにイメージしてしまうのだが、朝は野菜が夜の間に養分を呼吸や成長のために使い果たした時間である。実際、朝のきゅうりやおくらは甘さが足らない。そうであれば、お日様の光をたっぷりと浴びて、養分をいっぱい溜め込んだ夕方の方が良いのではないかと思う。美味しい野菜は朝採りではなく、夕採りである。

朝採りが美味しいというイメージについてなのであるが、そのイメージが広く世間に浸透していることに、正直、閉口している。なぜなら、それは小売や物流(さらにいうと消費者)の都合で作られたイメージに他ならないと思っているからだ。小売や物流が動くのは日中である。だから農家の収穫は朝になる。また、消費者に一番早く届けるための収穫のタイミングも同様に朝となる。だから朝なのだ。野菜の状態など関係無しに、現在のシステムで朝が収穫に一番適したタイミングなのだ。いつかこのイメージが覆る日がくればと思っている。

短期的な観点ではもう1点あって、上記と同じ理屈で、野菜の味は直前の天気に大きく左右される。理想はある程度の雨が少し前にあり、良い天気が数日続いたくらいが、野菜の仕上がりにとっては最高だ。そのような時が味も香りも一番乗っている。逆に言うと、雨が続くと水ぶくれしたようになり、曇りが続くと、味わいに欠ける仕上がりとなる。この点については致し方ないのではあるが。ただ、理屈と実際と言えばそうである。

野菜が一番美味しい時について、知っていることを纏めてみた。本当にピークのピークに当たった野菜を食べた人にとっては、他の時の野菜が凡庸に見えてしまうかもしれない。しかしながら、野菜には走りと旬と名残があり、日々の天気によって変わりもする。それはそれで楽しむことができるようになれば、素晴らしいと思う。もちろん、どのような状態の時でも素直に美味しいと思える野菜であることは、自分が野菜を売る中で絶対条件である。その上で、美味しい野菜と一番美味しい時の野菜を楽しんで頂けたら、幸いだと思う。

アロマフルな話 – とうもろこし

今回は、もう名残になってしまったけれど、とうもろこしについて。
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とうもろこしも自分が農業を始めて、大きくその概念が変わった野菜の1つだ。これまで、そんなに有難い野菜だと思ったことはなかった。そもそも、それほど買ったことも食べたこともなく、お祭りで焼きとうもろこしが随分高い値段で売られている、それくらいのイメージしかなかった。だがそれが、今ではこんなに感動を与えてくれる野菜だと思っているのだから、全く人生何が起こるか分からないものである。

さて、こんなに印象が変わったとうもろこしなのだが、その理由は、これまで新鮮なとうろこしにありつく事が出来なかったからという、しごく単純、しかし実現がかなり難しい、ということでしかないと思っている。とうもろこしは、数ある野菜の中で、間違いなく最も鮮度が落ち易い野菜だろう。採り立てとそうでないものとでは全く味が違う。とうもろこしを本当に美味しく食べられるのは、採って半日までだと思っている。

採り立てのとうもろこしがどう違うのかというと、甘さが数段違い、そして口の中で文字通り弾けるほとどのみずみずしさに満ち溢れている。野菜と言うよりほとんど果物のようで、さらに言うとハチミツのようでもある。採りたては、当園では生でそのままかじるのをお勧めしています。生でとうもろこしを食べれると聞いて、大抵のお客様は驚かれるのですが、折角の採り立てがもったいないので、また、わざわざ茹でるのも手間なので、生で召し上がられるのをお勧めしています。もちろん、茹でて食べても美味しく、甘さにコクが増し、より一層甘く感じられます。茹で方は、沸騰したお湯に3分くらいが良いと思います。

以前、テレビで朝採れたとうもろこしの方が昼や夕方に採ったとうもろこしより甘くて美味しいという内容を見たことがあるのだが、それはとんでもない間違いだと自分は思っている。その番組で理由を、昼間気温が上がると、とうもろこしの樹が呼吸でエネルギーを消費するのに実に溜まっている糖分を消費してしまうから、朝、糖分が溜まっている状態のとうもろこしの方が甘い、としていたが、本当か?といつも自分は思っている。自分で糖度を測定してみたことがあるのだが、同じ実で、朝一より、昼の方が、糖度が高かった。また、朝というのは、夜の間にエネルギーを消耗しつくした時間であるはずであり、一番味が落ちている時間ではないかと思う。(実際、他の多くの野菜で朝一は味が劣る。)最後に、多くの消費者は買い物をした日の夕食でとうもろこしを調理、食べることになると思うのだが、鮮度で一分一秒を争うとうもろこしで、夕食までずっと時間が開いている朝に採って良い訳がないと思う。きっと、テレビで検証していたのは、朝採ったとうもろこしと、前日の昼や夕方に採ったとうもろこしを比べていたのだろう。そしたら、直近に採った朝採りとうもろこしの方が味がよくなって当然だ。通常、農家の出荷が朝一なので、朝取りと前日昼・夕方採りを比べるのは、決して間違っているわけではないのではあるが・・。

そんなこんなで、とうもろこしは鮮度が何よりも大事なので、当園では、本当に納品直前に収穫しています。採り立て数時間のとうもろこしは、現代の流通システムでは絶対に手に入らない、大変貴重なものだと思います。農家のみに許された、本当に美味しいとうもろこしを、機会がありましたら、ぜひお試し下さい。

「日本農業の真実」

これは本のタイトルである。
この本を見つけたときはそのタイトルに少々驚いたが、その辺の適当な書き様の本とは全く違う、現名古屋大学農学部教授の生源寺眞一先生が、学問的な見地から公平かつ論理的に、実に良く纏めて書かれている素晴らしい、ぜひお勧めしたい本である。

生源寺先生は、今は名古屋大学にいらっしゃるが、その前に長く東大農学部で教授を務められていた。また、東大農学部長も務められ、政府の農業関係の会議などで座長も務められた方である。そして、実は自分自身も学生時代、生源寺先生の授業を受けたことがある。いや、正確に言うと、同じ農学部でも農業経済と農業土木で全く専攻が違うにもかかわらず、自分が受けられる範囲で生源寺先生の授業は全て受けた、というのが正しい。周りは、農業経済専攻の学生しかいなかった。

それだけ生源寺先生の授業は大変面白かった。まず考えに偏りがなく、公平・冷静に、そしてきちんと筋の通るお話しをされるのである。また、語り口はソフトでいながら、ユーモアなセンスで意見や体験談も交え、何より分かり易い。本書も固い内容でありながら、実に面白く、容易に読める。読んでいて昔の授業を思い出すようだった。また、生源寺先生のような方が、政府の仕事を数多く引き受けられているのも、改めてよく分かった。

この本では、冷静にこれまでの農政の歴史を紐解き、そして今後の日本の農業のあるべき姿にまで触れられている。自分は農業を始めようと思ったとき、今自分がしている方法以外で、農業をどうやっていけば良いのか思いつかなかった。別の言い方をすると、日本の農業がどうあるべきなのか、どう変わっていくべきなのか、正直分からなかった。しかし、本書により重大なヒントを得られたような気がする。自由主義的な考え方に重きを置く自分に比べると、先生は共同体主義的な考え方をされているが、それでも特定の考えに偏らず、結論まで導き出している。マスコミ報道の単なる批判とは全く違う。やはり、生源寺先生は素晴らしい先生だ。そして、本書は実に痛快な本だ。

書かれたのが民主党政権下時代のものなので、書き口がやや古くなってしまったところはあるが、それでも日本の農業の向くべき姿が本書から変わっているところはどこもない。
ぜひご一読をお勧めしたい良書である。家の本棚にも並べておこう。

アロマフルな話 – オクラ

オクラの花は美しい。
例えれば、黄色いハイビスカスの花のようで、地味や目立たない野菜の花の中で、珍しく立派な花を咲かせるのがオクラである。以前、お客さんに見せてあげようと思って、摘んでみたこともあったが、みるみるうちにしぼんでしまい、結局、誰にも見せることが出来なかった。オクラの花は咲いた日の午後にはしぼんでしまうらしい。畑でしか見れない、貴重な花である。
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さて、そのオクラであるが、ちょうど旬を迎えている。8月の一番暑い時に、他の野菜が暑さでだめになっている中、むしろ元気を増しているのがこのオクラである。その伸びるスピードは凄まじく、ちっちゃかった実が翌日にはとんでもない大きさになっていたりする。ほぼ毎日、採ってあげなければいけない。

オクラは結構人気のある野菜だと思う。手軽に食べることができ、夏バテで疲れたときネバネバ系の栄養満天な野菜は、この時季ぴったりなのだと思う。その人気と裏腹に、一般に知られていないのが、実はオクラもとても鮮度が大事な野菜であるということである。冬場などは、東南アジアから輸入されたものも並ぶくらいであるが、採ったその日のオクラを食べたことがあるものとしては、絶対に他のオクラには手を出そうと思わないくらいである。採り立てのオクラは甘く、これまでに食べたことのあるオクラとは全く味が違う。採ったその日のものなら、生で食べることをお勧めしているくらい。(実際、自分はチェックの意味も含めて、畑で収穫中にかなりオクラを生で齧っている。)そして、収穫翌日には、その甘さは一体どこへ行ってしまったのか、全く感じられなくなり、普通のオクラと同じになってしまう。それでも決して悪いものではないのではあるが、そのため、できる限りお客様にはお買い上げ当日に調理、あるいは召し上がって頂ければと思っています。

当園で作っているオクラは、島オクラという沖縄在来のオクラで、大きくなってもやわらかく、美味しく食べれるのが特徴です。あと、断面が丸く、表面の毛が気にならないのも特徴です。当園のオクラを初めて見られた方は、その大きさにびっくりされるのではありますが、問題なく召し上がれます。むしろ、大きいほうが個人的には味が良いように思います。ただ、大きいものは、中の種も大きくなっているので、種を気にされる方は、小さいものを選ばれる方がよろしいかと思います。また、大きくなると稀にスジが入るものもあり、そのようなものが混ざった場合には申し訳ないのですが、その分を見越して大きいものは少し多めに詰めさせて頂いております。

ぜひ当園の採り立ての甘いオクラを生で豪快に齧ってみて下さい。

低い食料自給率は問題なのか-その4(完結編)

ちょうど昨日、平成24年度の食料自給率が39%で横ばいであったと発表があった。これまでの議論の通り、極めて屈曲した食料自給率の議論など早く止めるべきだ。本当にそう思う。

さて、今回は、「低い食料自給率は問題なのか」最終編、国際比較から分かる食料自給率について。

まずは、国際比較されたときに一番初めに出てくる表を載せよう。これは農水省が発表している”先進国の中で最低の水準となって”いることを示す表である。
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この表をみれば確かに日本が一番悪いように思えてくる。しかしながらである、まず初めのつっこみとしては、大陸型の穀物を大量生産しているアメリカ、フランス、ドイツ、イギリスなどと比較すれば、カロリーベースで日本が1人負けするのは当然であろう。

そこで、前の議論等しく、カロリーベースから金額ベースで見直してみる。以下のグラフは、私がFAOの統計から作った国民1人当たり農産物輸入額(ドル、2012)である。
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これを見たら、多くの方が驚かれるに違いない。これまで見慣れてきた上の絵とは全く違うからだ。このグラフが示していることは、日本は世界的に見て農産物の輸入の多い国ではないということだ。また、何度か挙げた本「日本は世界5位の農業大国」によると、輸入額のみならず、輸入量でも上記順番で変わることがない。真実は、”日本は農産物の輸入の多い国ではない”。 一体、日本は食料の大半を海外に依存しているなど、誰が言い出したのであろうか。

先ほどのグラフをもう少し深く読んでいこう。ドイツ、イギリス、フランスの各国が輸入額が日本より多いのは、これは野菜の輸入量が多いからだ。欧州の北側に位置するこれらの国々では、冬季に野菜が作れないため、南欧や北アフリカ諸国から大量の野菜を輸入している。また、それらの国では、コスト競争力が高い。

そこで気になるのだが、ドイツ、イギリス、フランスの国々が、農産物の輸入量が多いことを問題にしているだろうか?カロリーは足りている国々であろうが、カロリーだけあっても野菜もなければ人間生きてはいけない。そこで例えば、野菜の自給率が低いなどと、国際的に主張しているだろうか?翻って、日本のカロリーに限定した議論は何と一面的なことか。

あと、農水省で発表されている一番初めの表にはもう1つ、追加されなければいけない点がある。それは、オランダの食料自給率である。農水省の発表によると65%(2009)、日本よりは高いようだが、オランダは世界第2位の農産物輸出国であるにもかかわらず、この数字である。日本でもスーパーでオランダの色とりどりのパプリカを常に見るようになったが、オランダは、園芸作物、トマト・パプリカなどで国際的に競争力がとても高い。そのオランダ自身は、農業の競争力が高いにもかかわらず、自給率はそれほど高くない状況を問題視しているのだろうか。その様なことはないだろう。産業としての農業の成功と、食料自給率は相関しない。オランダの食料自給率の事実は、そのことを意味しているのではないか。さらに言うと、オランダの事例は日本の農業が今後進むべき道を指し示しているのではないだろうか。

長きに渡って、食料自給率の問題を取り上げてきた。一般に良く言われる日本の低い食料自給率が、いかに問題とすべきでないかは、よくお分かり頂けたのではないかと思う。日本の世論、農業政策が、屈曲した食料自給率などという議論から離れ、将来の日本の農業をどうすべきなのか、どう強化していくのか、冷静で論理的に正しい議論が行われることを強く望んで止まない。

低い食料自給率は問題なのか-その3

まだまだかかる食料自給率の話題、3回目。
今回は、なぜそんなにも食料自給率が”低く”なったのか、その原因について考えてみたい。
結論から言うと、食生活の洋風化、という一般に言われることでしかないと思うのだが、これがよく考えてみると、将来の日本の農業のあるべき姿までを映し出すようで、非常に興味深い。

さて、まずは、どのように食料自給率が低くなったのか、また”因数分解”の思考方法を用いて考えてみよう。以下は、食品別の食料自給率の推移表である。
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おおまかに言うと、だんだん空白(と黄色)の部分が増え、食料自給率が下がってきているのが一見しただけで分かる。しかし、である。なぜ空白の部分が増えたのかというと、食料自給率がほぼ100%の米の全体に占める割合が減ってきて、代わりに食料自給率の低い油脂と畜産物の割合が増えたからなのだ。これが食の洋風化の現実である。食料自給率に深く考えるまでは、自分はてっきり、日本人は米を食べるのを止めてパンなど小麦を食べるようになったものとばっかり思っていたが、実はそうではなく、米の変わりに油と肉を食べるようになってきているのだ。ちなみに、昭和40年当時の小麦の消費量は国民1人あたり29.0kgであったものが、平成21年は31.8kgである。実はそれほど大きく増えていない。

この、油と肉が米に置き換わったという事実は、人生の過半を平成に過ごしたものとしては、やや衝撃である。逆に考えてみよう、今の生活で、油と肉を米に置き換えてくださいと言われて、あなたは耐えられるでしょうか?自分ならほぼ無理である。揚げ物と肉を取り上げられて、米を増やされたって、おしんこでご飯を食べる生活はちょっと考えられないのである。年配の方であっても、毎日食卓に並ぶようになった、肉や揚げ物を取られて、米の炊く量を増やされたって、きっと今では困惑するのではないだろうか。

そう、日本は豊かになったのである。肉と油をこれだけ消費できるようになったのである。これが食の洋風化の実際である。それで結果として食料自給率が下がることになったのだ。これは完全に食料自給率の低下の原因は、消費サイドにあると言ってもいいだろう。家畜のえさとなる飼料、油脂の原料となる作物を日本でコスト競争力を十分に持って作ることは現実的でない。敢えて生産サイドの視点から言うならば、日本の農業は食生活の変化に構造的に対応していないだけ、ということになるのだろうが、日本の農業の現場が弱体化しているか否かは全く関係が無い。食のスタイルの変化が、”低い”食料自給率の原因である。

ここで、一応結論まで繋げることはできたのだが、さらに仮に低い食料自給率が問題だとして、その対策はどうあるべきなのだろうか。

生産サイド向けには、現在、麦・大豆・飼料米などに現在多額の補助金を出している。これは愚の骨頂だ。市場原理で生き残れないものに直接の現金の支払いで支えるならば、市場原理で生き残れるように構造を改革をすべきなのだ、もしくは、止めるべきだ。
また、消費サイド向けには、現在、国産品の消費拡大に向けたさまざまな施策がされているようだが、的外れ以外の何ものでもない。なぜなら、上記で述べたような、人間の自然な欲求・感情に反しているからだ。あるべき姿を問い、草の根運動のような地道な活動の意義や効果を否定するわけではないが、その為に貴重な税金と時間を費やすのならば、人間の自然な欲求に従ってでも国産品の消費拡大が起きるような構造改革を行うべきなのだ。例えば、米農家がもっと集約されており、低コストで美味しい米が生産されていれば、ここまで米の消費量が落ちることはなかっただろう。減反政策がなければ、農家は単収を追い求めることはせずに、消費者に喜ばれる、味や製法などへの取り組みがもっと活発になっていたであろう。

この辺までくると、日本の農業のあるべき姿がだんだん見えてくる。過剰な規制や補助金、不自然な運動活動に頼るのではなく、勝てる農業、強い農業を追い求めるべきなのではないだろうか。食料自給率の問題はそんなところまで映し出してくれる。

次回は、食料自給率最終回、国際比較から分かることについて纏めてみたいと思う。